第2章 与える者編 - 第1話「優しい人」
「......嘘でしょ」
落ちた先は、深い森だった。
確かに、まだ明るさの残る夕暮れのゲートを通ったはずだ。
穏やかそうな街が映っていた、あのゲート。
しかし、実際に落ちたのは、この不気味な森。
まるで雨が降った後のように、ところどころに水たまりがある。
辺りを見回すと、自分の世界では見たこともない、発光する植物が目に入った。
ゲートをくぐる前に見た景色と、落ちた場所の情報が、かすりもしていない。
「サムネ詐欺どころの騒ぎじゃないよ......」
しかし、ここで立ち止まっていても、助けが来る保証はない。
自ら動かなければ、何も進まない。
フールの奥にあった熱を振り切って、自分で進むことを選んだのだから。
咲は、歩いた。
森の中の小道は、思っていたよりも静かだった。
風が葉を揺らす音だけが響き、どこか遠くで、小鳥の声が混じる。
危険な場所のはずなのに、今すぐ逃げ出したいとは、不思議と思わなかった。
「足元、大丈夫ですか?」
「きゃっ......!」
突然の人の声に、腰を抜かしかける。
声をかけてきたのは、身なりの整った男だった。
森と同じくらい深い緑の髪が、右目を隠している。
左目の下には、涙のようなペイント。
赤いスーツに、ミントグリーンのクラシカルなフリルタイ。
森の暗さに対して、身に纏っているものがやけに目立つ。
「この辺りは、道が分かりづらいですから」
まるで、この道を何度も歩いてきたかのように落ち着いている。
「申し遅れました。私、アッフェルと申します」
アッフェルと名乗った男は、礼儀正しく一礼をした。
彼はにこりと微笑み、続ける。
「近くの屋敷で、主の執事をしております。この森は、薬草がたくさん採れますので、よく来るんです」
そう言って、男は手に持っていた籠を見せてくれた。
中には色とりどりの薬草が入っている。
どれも、人間界では見ないものばかりだった。
「よろしければ、街までご一緒いたしますが、いかがですか?」
男は、やわらかく微笑む。
優しくて、落ち着く声。
敵意はまったくない。
迫る様子もない。
その口調に、どこか安心できた。
咲はちょうど困っていたところだ。
願ってもいない救済だった。
「よろしくお願いします......!」
アッフェルは軽く頷く。
「では、参りましょうか」
くるりと向けられた背は、頼もしかった。
しばらく一緒に歩いていると、街が見えた。
そこはまるで、自分の世界で言う外国のような場所だった。
石造りの建物。
細い道。
窓辺に飾られた花。
森の不気味さとは違う、どこか静かな生活の気配がある。
彼は立ち止まり、咲へ視線を寄せる。
「少し、休みませんか」
断定ではなく、提案だった。
咲の返事を待つように、静かに微笑む。
「無理は、いけません」
そう言って、持っていたハンカチを木陰に敷く。
「どうぞ。足が休まりますので」
紳士的な所作で咲をハンカチのほうへと導き、座らせる。
咲が座るのを確認すると、アッフェルは一歩距離を取り、立ったまま街のほうへと視線を向けた。
「......ここ、涼しいでしょう」
風の通りを確かめるように、葉を見上げながら言う。
咲は、自分だけ腰掛けていることに申し訳なさを覚え、彼へと視線を送る。
アッフェルは、その視線に気づいた。
「あぁ。私は、立っていて構いませんよ」
そう伝え、にこりと微笑む。
「......ああ、そうだ」
思い出したように、アッフェルは小さく息を吐いた。
「もし、何か困ったことがあれば、遠慮なく言ってください」
視線が、まっすぐこちらに向く。
穏やかで、誠実な目だった。
「私は、味方ですから」
その言葉に、嘘は感じられなかった。
むしろ、当たり前のことを言っているような調子だった。
「あなたが、安心していられるように」
そう言って、また微笑む。
それは、守る人の顔だった。
「......不思議ですね」
ふと、アッフェルは言う。
「こうして話していると、初めて会った気がしません」
照れた様子もなく、ただ事実を口にするような声だった。
「落ち着く、と言いますか......こういう感覚は、嫌いではありません」
少しだけ、視線を逸らす。
その声はとても静かで、だからこそ、心に残った。
この人は、危険な存在ではない。
少なくとも、そう思えた。
優しくて、丁寧で、ちゃんと距離を守る。
ただの、少し変わった人なんだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
―――そう、信じられるほどに。
【第2章 与える者編 - 第1話「優しい人」- 完 -】
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