第2章 与える者編 - 第2話「当たり前になる距離」
アッフェルは、優しかった。
そして。
咲のことをよく見ていた。
この世界には、たびたび人間界からの転移者が現れること。
自分は、そういった転移者に必要なものを与える役割を持つ者であること。
森を抜けたあと、アッフェルは咲に滞在できる部屋を用意してくれた。
「ここは、主から頂いた、私の別荘です」
一人で住むには大きい、彼の髪と同じ色の屋根をした屋敷だった。
部屋は、いつ誰が訪れてもいいように整えられている。
窓辺には花が飾られ、寝具も、机も、食器も、すべてが丁寧に置かれていた。
「好きに使っていいと仰せつかっておりますので、よろしければ」
彼はいつもの微笑みを、咲へ向ける。
「私はすぐ近くの主の屋敷におりますので、何かあれば言ってください」
アッフェルは、別荘とは違う方向を指した。
同じ通りにある、屋敷三軒分ほど離れた場所。
窓から手を振れば、気づいてもらえるくらいの距離だった。
「なんてお礼をしたらいいか......」
咲は、そう伝えることしかできなかった。
身一つでこの世界に落ちた咲には、返せるものが何もない。
「気にしないでください」
アッフェルはやわらかく微笑む。
「それが、私の役目ですので」
そうすることが、彼にとっては当たり前なのだろう。
表情にも、声にも、見返りを求める気配はなかった。
「ですが、もし何か返してくださるというのなら......」
彼は咲のほうへ、まっすぐ向き直る。
「お時間のある時に、この国を案内させてください」
―――それから。
アッフェルと行動を共にする時間は、自然と増えていった。
約束をしたわけでもない。
理由をつけたわけでもない。
ただ、気づけば、彼が隣にいる。
「今日は、こちらの道を通りましょうか」
そう言って示される道は、どれも歩きやすく、穏やかだった。
「あなたが疲れにくいと思いまして」
咲の歩幅。
息遣い。
ふとした仕草。
彼はそれらを、いつの間にか覚えていた。
「......無理は、していませんか」
問いかけは、いつも静かだった。
心配を押し付けるでもなく、答えを急かすでもない。
ただ、こちらの様子を確かめるように、そっと置かれる言葉。
「大丈夫、ありがとうございます」
「そうですか」
それ以上は踏み込まない。
信頼されている。
そう感じられる距離感だった。
「......言葉は、崩していいですよ」
歩きながら、アッフェルはふいに言った。
「私のこれは、性分なので。あなたは、あなたらしくいてください」
にこりと微笑みを向ける。
「そのほうが、美しいです」
あまりにも自然に言われて、咲は返す言葉を失った。
頬がじわりと熱くなる。
「......分かった。本当に、大丈夫だよ」
アッフェルは、安心したように目元を和らげた。
「なら、よかった」
少しだけ間を置いて、彼は続ける。
「......でも、何かあったら、言ってください」
念を押すような強さはない。
けれど、それは彼にとって、ごく当然の確認のようだった。
「あなたは、無理をしそうなので」
「うっ......」
図星だった。
仕事でも、そうだった。
限界が来るまで抱え込み、爆発寸前になってから、ようやく自分が疲れていることに気づく。
そんな咲の性分を、アッフェルはもう見抜いているようだった。
「......私は、聞く役くらいなら務まりますから」
その言い方が、どこか可笑しかった。
思わず笑うと、彼は少しだけ目を細めた。
「笑ってもらえるなら、それで十分です」
休憩のとき、彼は咲の隣ではなく、少し斜め前に腰を下ろした。
視線が合う位置。
近すぎず、遠すぎない場所。
「近すぎると、落ち着きませんか」
そう尋ねられて、咲は首を振る。
「......なら、良かった」
アッフェルは小さく安堵の息を吐いた。
その仕草が嘘ではないことは、すぐに分かった。
彼は、こちらの反応をよく見ている。
距離を縮める時も。
保つ時も。
必ず、咲に委ねてくれる。
「あなたは......」
何かを言いかけて、彼は言葉を止めた。
「......いえ」
一瞬だけ、考えるような沈黙が落ちる。
「今は、まだ。そのうち話します」
秘密めいた響きだった。
それなのに、不思議と不安はなかった。
「今は、一緒に進めばいいでしょう」
そう言われて、胸が少しだけ高鳴った。
夕暮れが近づくころ、彼は歩みを緩めた。
「日が落ちる前に、戻りましょうか」
影が、彼の影と並ぶ。
二つの影が、同じ方向に伸びていく。
「こうして並んで歩くのも、悪くありませんね」
そう言われて、咲は首を縦に振った。
彼はほんの少しだけ、嬉しそうに微笑む。
その時、思った。
この人となら、しばらく一緒にいてもいい。
危険でも、怖くもない。
“恋”という言葉を使うには、まだ早い。
けれど。
穏やかで、優しい時間だった。
確かに、心がほどけていく感覚があった。
そして。
彼とともに行動するときには、決まって。
―――甘い香りがしていた。
【第2章 与える者編 - 第2話「当たり前になる距離」- 完 -】
→第2章 与える者編 - 第3話「隣にいる理由」へ