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第2章 与える者編 - 第3話「隣にいる理由」

目を開けると、朝の光が静かに差し込んでいた。
世界は昨日と変わらない色をしている。

それが、少しだけ嬉しかった。




外へ出る。

咲はいつものように、アッフェルのいる場所へ向かった。

見慣れ始めた町並みを進んでいくと、色とりどりの果物が並ぶ店の前に、彼は立っていた。

相変わらず、姿勢が良く、身なりも整っている。

「おはよう」

少し離れた場所から声をかけると、彼が振り返った。

「おはようございます。よく眠れましたか」

その問いかけは、もう習慣になりつつあった。
咲が頷くと、アッフェルは安心したように微笑む。

「それならよかった」

柔らかい笑みを向け、手を進む先へ伸ばす。

「では、参りましょう」

歩き出すと、彼は自然と隣に並んだ。
肩が触れるほど近くはない。
けれど、一人で歩いている感じもしない。

「今日は、どちらへ行きましょうか」

決めている様子はなかった。
それは、選択をこちらに委ねる言い方だった。

アッフェルはいつも、咲の意思を大切にしてくれている。

「まだこの世界のこと、よくわからないからなぁ......」

この周辺の案内は、すべて彼にしてもらった。
しかし、どこへ行きたいかと言われると、“この場所”という明確なものは出てこない。

アッフェルは、咲の考えを察したようだった。

「......特に希望がなければ、このまま、少し先まで行ってみるのも良いかもしれません」

提案の形でそう告げる。
咲が頷くと、“そうしましょう”と、それだけで話はまとまった。

道を歩きながら、彼は時々こちらを見る。
じっと見つめるわけでも、視線で探るわけでもない。

ただ、同じ速度で歩けているかを確かめるような様子だった。

「疲れていませんか」

問いかけは控えめで、答えを急かしていない。

「......無理は、しないでくださいね」

それは、世話を焼くというよりも、自然な気遣いに近かった。

少し開けた場所で、彼は足を止めた。
初めて会った日に通ったような、街と森の境目。

「ここ、風が通ります」

咲の反応を見てから、アッフェルは腰を下ろした。
その距離は、これまでで一番近かった。

「......近すぎませんか」

そう聞かれて、咲は首を横に振った。

「なら、良かった」

その言葉に、心からの安堵が混じっているのが分かる。

しばらく、何も話さない時間が続く。
それでも、気まずさはなかった。

「......本当に、不思議です」

ふと、彼が口を開く。

「出会ってから、日は浅いはずなのに。あなたといると、落ち着いて考えられる」

それは、大げさな告白ではなかった。
ただ、感じたことをそのまま口にしたような声だった。

「......私は」

一瞬、言葉を止める。

「あなたと一緒にいる時間が、好きです」

照れも、強調もない。
逃げ道を残した、静かな言葉だった。

自分のことが好きだと言われたわけではない。
それなのに、胸の奥がゆっくりと温かくなる。

「ありがとう」

少しだけ、顔が熱い。
その熱を振り払うように、咲は立ち上がった。

「別の場所の案内も、お願いしてもいい?」
「......もちろんです」

アッフェルは穏やかな微笑みを向ける。

そうしてまた、ふたりは歩き出した。




夕方になると、影が長く伸び始める。

「今日は、この辺りまでにしましょう」

こちらの様子を見て、そう決めたようだった。

「疲れを残さない方が、明日も楽ですから」

その言い方は、“一緒にいる未来”を当たり前のものとして含んでいた。




夜。

彼の別荘の前にある灯りの下で、アッフェルは少しだけ距離を取った。

「何かあれば、呼んでください」

優しさは、常にこちらの都合を優先する形をしている。

「......良い、夢を」

そうして、彼との一日が終わる。




眠りにつく前、ふと思う。

この人と一緒にいることは、特別な選択ではない。
ただ、自然な流れの中で隣にいるだけなのだ。

それが、今はとても心地よかった。

何気なく、今日の一日を振り返る。

アッフェルと会って。
周辺を案内してもらって。
少し照れくさい言葉をかけられて。

こんな穏やかな時間を過ごせているのも、あの彼の―――

「―――あれ?」

あの彼って、なんて名前だっけ。

顔は思い出せる。
背格好も、不思議の国の案内人であることも覚えている。

なのに。

「......嘘」

名前が、思い出せない。

よく、喉のあたりまで出かかっているのに思い出せない、という表現を使うことがある。

でも、これは違う。

自分の記憶の引き出しのどこにしまったかを忘れているような感覚ではない。
どこにしまってあるのかは分かっているのに、外側から鍵をかけられているような感覚だった。

もちろん、鍵をかけたのは自分ではない。

そして。

まだ覚えている案内人の顔ですら、思い出そうとすると、妙な感覚に襲われる。

淡いミントグリーンの霧のようなものが、咲の思考を埋めていく。
その霧の向こうに浮かぶのは、いつの間にか、アッフェルの顔だった。

「......この世界に、毒されちゃったのかな」

答えは出ない。

甘い香りだけが、まだどこかに残っている気がした。


睡魔が、すべてを静かに連れ去っていった。




【第2章 与える者編 - 第3話「隣にいる理由」- 完 -】
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Out-of-Page Märchen作者:桜桃
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目を開けると、朝の光が静かに差し込んでいた。
世界は昨日と変わらない色をしている。

それが、少しだけ嬉しかった。




外へ出る。

咲はいつものように、アッフェルのいる場所へ向かった。

見慣れ始めた町並みを進んでいくと、色とりどりの果物が並ぶ店の前に、彼は立っていた。

相変わらず、姿勢が良く、身なりも整っている。

「おはよう」

少し離れた場所から声をかけると、彼が振り返った。

「おはようございます。よく眠れましたか」

その問いかけは、もう習慣になりつつあった。
咲が頷くと、アッフェルは安心したように微笑む。

「それならよかった」

柔らかい笑みを向け、手を進む先へ伸ばす。

「では、参りましょう」

歩き出すと、彼は自然と隣に並んだ。
肩が触れるほど近くはない。
けれど、一人で歩いている感じもしない。

「今日は、どちらへ行きましょうか」

決めている様子はなかった。
それは、選択をこちらに委ねる言い方だった。

アッフェルはいつも、咲の意思を大切にしてくれている。

「まだこの世界のこと、よくわからないからなぁ......」

この周辺の案内は、すべて彼にしてもらった。
しかし、どこへ行きたいかと言われると、“この場所”という明確なものは出てこない。

アッフェルは、咲の考えを察したようだった。

「......特に希望がなければ、このまま、少し先まで行ってみるのも良いかもしれません」

提案の形でそう告げる。
咲が頷くと、“そうしましょう”と、それだけで話はまとまった。

道を歩きながら、彼は時々こちらを見る。
じっと見つめるわけでも、視線で探るわけでもない。

ただ、同じ速度で歩けているかを確かめるような様子だった。

「疲れていませんか」

問いかけは控えめで、答えを急かしていない。

「......無理は、しないでくださいね」

それは、世話を焼くというよりも、自然な気遣いに近かった。

少し開けた場所で、彼は足を止めた。
初めて会った日に通ったような、街と森の境目。

「ここ、風が通ります」

咲の反応を見てから、アッフェルは腰を下ろした。
その距離は、これまでで一番近かった。

「......近すぎませんか」

そう聞かれて、咲は首を横に振った。

「なら、良かった」

その言葉に、心からの安堵が混じっているのが分かる。

しばらく、何も話さない時間が続く。
それでも、気まずさはなかった。

「......本当に、不思議です」

ふと、彼が口を開く。

「出会ってから、日は浅いはずなのに。あなたといると、落ち着いて考えられる」

それは、大げさな告白ではなかった。
ただ、感じたことをそのまま口にしたような声だった。

「......私は」

一瞬、言葉を止める。

「あなたと一緒にいる時間が、好きです」

照れも、強調もない。
逃げ道を残した、静かな言葉だった。

自分のことが好きだと言われたわけではない。
それなのに、胸の奥がゆっくりと温かくなる。

「ありがとう」

少しだけ、顔が熱い。
その熱を振り払うように、咲は立ち上がった。

「別の場所の案内も、お願いしてもいい?」
「......もちろんです」

アッフェルは穏やかな微笑みを向ける。

そうしてまた、ふたりは歩き出した。




夕方になると、影が長く伸び始める。

「今日は、この辺りまでにしましょう」

こちらの様子を見て、そう決めたようだった。

「疲れを残さない方が、明日も楽ですから」

その言い方は、“一緒にいる未来”を当たり前のものとして含んでいた。




夜。

彼の別荘の前にある灯りの下で、アッフェルは少しだけ距離を取った。

「何かあれば、呼んでください」

優しさは、常にこちらの都合を優先する形をしている。

「......良い、夢を」

そうして、彼との一日が終わる。




眠りにつく前、ふと思う。

この人と一緒にいることは、特別な選択ではない。
ただ、自然な流れの中で隣にいるだけなのだ。

それが、今はとても心地よかった。

何気なく、今日の一日を振り返る。

アッフェルと会って。
周辺を案内してもらって。
少し照れくさい言葉をかけられて。

こんな穏やかな時間を過ごせているのも、あの彼の―――

「―――あれ?」

あの彼って、なんて名前だっけ。

顔は思い出せる。
背格好も、不思議の国の案内人であることも覚えている。

なのに。

「......嘘」

名前が、思い出せない。

よく、喉のあたりまで出かかっているのに思い出せない、という表現を使うことがある。

でも、これは違う。

自分の記憶の引き出しのどこにしまったかを忘れているような感覚ではない。
どこにしまってあるのかは分かっているのに、外側から鍵をかけられているような感覚だった。

もちろん、鍵をかけたのは自分ではない。

そして。

まだ覚えている案内人の顔ですら、思い出そうとすると、妙な感覚に襲われる。

淡いミントグリーンの霧のようなものが、咲の思考を埋めていく。
その霧の向こうに浮かぶのは、いつの間にか、アッフェルの顔だった。

「......この世界に、毒されちゃったのかな」

答えは出ない。

甘い香りだけが、まだどこかに残っている気がした。


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