第2部 与える者編 - 第4話「穏やかな午後」
その日は、不思議なくらい静かだった。
空はいつもの曖昧な色をしているのに、風だけがやけにやさしく、木々の葉が擦れる音も穏やかで。
世界が、ほんの少しだけ呼吸を落としているように感じられた。
昨日の違和感は、まだ残っている。
しかし。
「今日は、どこへ行きますか?」
彼はそう言って、こちらを見る。
いつもの、柔らかい笑み。
こちらの返事を急かさない、あの癖のある間。
「行き先、決めちゃってもいいのに」
咲の言葉に、アッフェルは目を細める。
「レディーファーストですので」
その言葉に、胸が温かくなる。
「この世界にもレディーファーストって言葉、あるんだね」
おかしくて、つい笑う。
しかし、尊重してもらえることがこんなにも安心できるなんて、思ってもみなかった。
この国に来た時の緊張は、もうない。
彼への不信感も、とうにない。
アッフェルは、そんな咲を見る。
「......あの」
一瞬、言葉を切る。
ためらうような間だった。
そしてアッフェルは、咲と目を合わせて聞く。
「咲さん、と呼んでも、いいですか?」
彼は、わずかに照れたような表情をしていた。
初めて名前を呼ばれるというのは、ここまで緊張するものだっただろうか。
「......さん、はつけなくていいよ。咲でいい」
咲は、やわらかい笑みを向ける。
「......ありがとうございます」
安心したような表情で、アッフェルは微笑む。
彼と言葉を交わすたび、昨日の違和感への意識は、甘い香りの中へ溶けていった。
並んで歩く道は、昨日と変わらない。
石畳も、灯りも、遠くに揺れる影も。
それなのに。
今日はどれもが、少しだけやさしく見えた。
「咲は、最近よく笑いますね」
不意にそう言われて、足が止まった。
「もちろん、悪い意味ではありませんよ」
彼は、すぐに付け足した。
そして、ほんの少し照れたように、視線を逸らす。
「その......私は......」
珍しく言葉を詰まらせている。
そして、視線を咲に戻すと、小さな声で告げた。
「咲のその表情が、好きです」
胸の奥が、静かに締めつけられる。
甘い言葉なのに、押しつけがましくない。
ただ、隣にいるだけ。
それだけの距離で、心が揺れる。
しばらく歩いて、木陰で腰を下ろす。
彼は上着を整え、自然な仕草で、咲に日差しが当たりにくい位置に座った。
「少し休みましょう。無理はいけません」
指先が、ほんの一瞬だけ触れた。
それだけで心臓が早鐘を打つのに、彼は何事もなかったような顔をしている。
その距離が、なんだか心地いい。
同時に、こそばゆい。
「......ずっと、こんな日が続けばいいのに」
アッフェルは、わずかに目を見開いた。
「......あ」
考えるよりも先に出た言葉。
言ってから、じわじわと恥ずかしさがこみ上げる。
ぽつりと漏らした言葉に、アッフェルはすぐには答えなかった。
けれど。
微笑みは消えない。
そして、わずかに視線を逸らしたまま告げる。
「ええ、続きますよ」
迷いのない声だった。
彼はわずかに姿勢を変え、咲の顔を覗き込む。
「私が、そうさせますから」
その言葉は、約束のようで、未来の話のようだった。
不思議と、疑う気にはなれなかった。
しかし。
先ほど、“こんな日が続けばいいのに”と言った自分の言葉。
自分自身、その意味を理解していなかった。
恐怖も、歪みもない、この穏やかな日々のことを指したのか。
それとも、目の前にいる彼との未来のことなのか。
―――頭が、働かない。
陽だまりの中で、時間だけが過ぎていく。
何も起きない。
何も変わらない。
穏やかで、やさしくて、確かな時間。
ただ。
ふとした拍子に、脳裏にあの案内人が浮かぶ。
自分の役目を思い出した時の、ごくわずかに影の差した、彼の表情を。
「―――咲」
アッフェルが、咲を呼ぶ。
彼の様子は変わらない。
やわらかい表情も、声のトーンも。
―――甘い香りも。
「どうかしましたか?」
そして、違和感はまた、モヤに覆われていく。
「......ごめん、なんでもない」
「......そうですか」
アッフェルはそう言うと、立ち上がった。
「無理はいけません。そろそろ、戻りましょう」
この日が特別だったのだと、咲が気づくのはまだ先のことだった。
そして。
―――甘い香りが、強まった気がした。
【第2章 与える者編 - 第4話「穏やかな午後」- 完 -】
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