第2章 与える者編 - 第5話「約束」
別れ際、空はまだ明るかった。
「今日は、ここまでにしましょう」
アッフェルはそう言って、歩みを止める。
その声は、いつもと変わらない。
優しくて、落ち着いていて、咲の気持ちを急かさない声音だった。
「......最近、咲と過ごす時間が、私にとってとても大切になっています」
感情を押しつける言い方ではない。
ただ、事実を伝えるような口調だった。
「だからでしょうか」
ほんの一瞬だけ、視線が咲のほうへ向く。
少し間を置いてから、アッフェルは続けた。
「明日は、少し早めに会えますか?」
理由は語られない。
特別な用事があるようにも、ただ一緒にいたいだけのようにも聞こえる。
理由を聞こうと思えば、聞けたはずだ。
しかし。
どういうわけか、頭がそうすることを拒んでいる。
―――彼の言った通りにしていればいい。
一瞬。
咲の頭に、自分の意思を手放すような思考が湧いた。
「無理なら、もちろん構いません」
そう言いながら、否定されることを想定していない声音だった。
「......約束、ですね」
その言葉が、妙に胸に残る。
重いわけではない。
強制でもない。
ただ、軽くはなかった。
彼は微笑む。
「破られると、少し困ってしまいますから」
冗談めいた言い方で、アッフェルは続ける。
「私は、あなたを信じていますよ」
信じている。
その言葉は、嬉しいはずだった。
かけてもらう分には、きっと温かい言葉のはずなのに。
妙な感覚が、咲の胸へ纏わりつく。
否定されることを想定していない口調。
“破られると困る”という、少なからず罪悪感が湧いてしまう言葉。
そして。
“信じています”と言いながら、相手が約束を守らざるを得なくなるように、逃げ道を狭めていく言い方。
頭が勝手に、良くないほうへと回る。
同時に、その考えを拒否しようとする気持ちもあった。
彼はいつもの表情で、いつもの立ち姿のまま、こちらの返事を待っている。
何も変わらない。
今、頭に浮かんだような、良くないものに当てはまるようには見えない。
ただ。
甘い香りが、いつもより強い気がした。
今日は、はっきりと分かる。
熟した林檎のような、甘ったるい香り。
―――気のせいだ。
また、自分の意思とは言えない考えが浮かぶ。
胸元のジョーカーは、何も言わない。
むしろ、一歩引いて、見られているような感覚だった。
咲は下を向いて、少しだけ考える。
視線を彼へ戻すと、アッフェルはにこりと微笑んでいた。
「......明日は」
―――約束を最優先するべきだ。
一瞬、浮かんだ思考に飲まれそうになる。
その時。
胸元のジョーカーが、一瞬だけ熱を持った気がした。
......違う。
咲は、自分の意思をつかみ直す。
そして、彼へ告げた。
「用事があるから、遅れる」
一瞬。
自分たちの周りだけ、時間が停止したような感覚に襲われる。
「......そうですか」
アッフェルは、咲の言葉を聞いてから、ほんの一拍だけ置いて頷いた。
「事情があるのなら、仕方ありませんね。無理をなさる方が、よくありません」
責める響きはない。
残念そうな色も、見えない。
「では、来られそうな時に。お知らせください」
そう言って、微笑む。
それは今までと、何も変わらない対応だった。
―――少なくとも、表面上は。
「......別荘までは、送ります」
ふたりでの時間を終えたあと、彼が別荘まで送ってくれる。
それも、何も変わらなかった。
別荘の玄関前。
「明日は、気にせずゆっくりいらしてください」
彼はやわらかい笑みを向ける。
整った身なり。
気遣う姿勢。
言葉の選び方。
そこには、なんの不満もない。
ただ。
自分の本心なのか分からない思考。
不自然に漂う、甘い香り。
それだけが、彼との約束を最優先することに、抵抗を示していた。
「......ありがとう」
咲も、やわらかく微笑み返す。
「でも、ちゃんと行くから。少し遅れるかもしれないけど、待っててくれる?」
「......もちろんですよ」
そうして、咲が扉を閉めるまで、アッフェルは見送った。
眠りにつく前。
咲は、紙に記した。
この世界に落ちてから、思い返せるだけの出来事を。
狭間と呼ばれた境界で、ジェスター姿の案内人に出会ったこと。
彼の国で、穏やかで、少し笑える時間を過ごしたこと。
そして、この国に来てから、アッフェルという優しい人に様々なものを与えてもらったこと。
彼との時間は、とても穏やかだった。
こんな日々がずっと続いてほしいという願いも、確かにある。
ただ。
それが彼との未来を望んでいるという意味なのか。
それとも、危険のない穏やかな時間を望んでいるだけなのか。
咲の中では、まだ曖昧だった。
咲はベッドに入り、寝具を整える。
「......大丈夫、忘れてない」
そう呟いて、ゆっくりと眠りについた。
「......遅れるかも、ですか......」
別荘近くにある街灯の下。
アッフェルは月を見上げていた。
身なりも、姿勢も、声のトーンも、いつもと変わりはない。
ただ、その表情には。
笑みが、消えていた。
【第2章 与える者編 - 第5話「約束」- 完 -】
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