第2章 与える者編 - 第6話「違和感」
咲は、彼に伝えていたように、約束の時間より少し遅れてしまった。
正直、本当に用事があったわけではない。
ただ、整理したかった。
このまま、彼と進んでいいのか。
これは、本当に自分の本心なのか。
繰り返し考えても、また同じところに戻るだけ。
そうして、気がつけば約束の時間を過ぎていた。
足早に向かう途中、もう間に合わないかもしれないと思った。
けれど。
アッフェルは、そこにいた。
同じ場所。
同じ立ち姿。
いつもと変わらないはずの光景。
なのに。
なぜか、足が止まった。
理由は分からない。
「......遅れてごめんね」
声をかけると、彼はゆっくりと振り返った。
「......お疲れさまです。来てくださったのですね」
その言葉には、責める響きも、安堵の色も含まれていなかった。
ただ、“確認”のようだった。
甘い香りは、今日もある。
そして、ようやく確信した。
―――これは、彼から香っている。
それ自体は、不思議なことではない。
男性でも、香水くらいつけるだろう。
しかし、その香りは、あまりにも自然なほどに不自然だった。
つけた、と言うには、安定しすぎている。
会った時には濃く、別れる時には薄くなるなら分かる。
なのに。
昨日は、時間の経過とともに濃くなった。
そして、その香りの中には、抗えないような何かがあった。
自分から、欲してしまうような。
今日は、昨日までのように強い香りではない。
ほんの少し、離れた場所から香っているような、風が通るほどの距離がある。
それが、なぜか安心できた。
並んで歩き出す。
距離は、これまでと同じ。
肩が触れそうで、触れない。
けれど。
視線を感じる回数が増えていることに気づいた。
以前のように、同じ歩幅で歩けているかどうかを確かめる、やわらかい視線ではない。
かといって、露骨に冷たいわけでもない。
“見る”というより、“測られている”ような。
「......無理をしていませんか」
問いかけは優しかった。
それなのに、答えを聞きたいのか、確かめたいのかが分からなかった。
「うん、大丈夫」
咲が返事をしても、アッフェルはそれ以上踏み込まない。
「あちらのカフェで新しいメニューが出たようなのですが、いかがですか」
「......う、うん」
それが、少しだけ不思議だった。
休憩のために腰を下ろす。
いつもなら、斜め向かいに座るはずなのに。
今日は、正面だった。
理由を問うほどのことではない。
けれど。
距離の取り方が、ほんの少し違った。
その“少し”が、妙に気になる。
話題は穏やかだった。
天気のこと。
歩いた道のこと。
特別な意味を持たない話。
無理に話題を探しているようにも、話を合わせようとしているようにも見えない。
それなのに、言葉の端々に小さな間が挟まる。
彼は、言葉を選んでいるというより、言葉を減らしているようだった。
余計なことを言わない。
触れすぎない。
まるで。
一歩引いた場所から、咲の様子を見ているみたいに。
「今日は、無理をなさらなくて良かったですね」
帰り際、そう言われる。
それは、労わりの言葉のはずだった。
でも、どこか“確認事項”のようにも聞こえる。
「......また、会えますか」
以前のように、約束を前提にしない言い方だった。
問いかけは控えめで、声のトーンも、表情も、何も変わらない。
「うん、いいよ」
頷くと、彼は小さく微笑んだ。
いつもと同じ笑み。
「アッフェルには、お世話になってるから」
咲がそう伝えると、アッフェルはわずかに目を見開いた。
「お世話になっているから、ですか」
意外な答えだった、とでもいうような表情だった。
「なんでそんな顔するの。事実でしょ」
咲は彼のその顔がなぜかおかしくて、思わずふふっと笑った。
「......じゃあ、またね」
背を向けて歩き出す。
振り返ると、彼はそこに立っていた。
見送っている。
けれど、以前のように、咲が見えなくなるまで“待つ”姿ではなかった。
ただ、そこにいるだけ。
追ってこない。
呼び止めない。
それが、なぜか胸に残った。
その夜。
理由は分からないのに、眠りが浅かった。
何かを言われたわけでも、されたわけでもない。
それでも、頭の片隅に残る。
今までと、少し違う。
明確な違いは分からない。
ただ、視線。
話の端々の小さな間。
会話の量。
座る位置。
香りの距離。
どれもが、ほんのわずかに“ちょっと気になる”くらいの違和感。
けれど、その小さな違和感を並べると、ひとつの形になりかけている気がした。
まだ、名前はつけられない。
その違いの正体は、まだ掴めなかった。
【第2章 与える者編 - 第6話「違和感」- 完 -】
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