第2章 与える者編 - 第7話「距離」
次に会ったとき、アッフェルはいつもより少しだけ、離れた場所に立っていた。
近づけば届く。
けれど、こちらから踏み込まなければ縮まらない距離。
それは、いつもの距離と何も変わらないはずなのに。
咲は、アッフェルの目の前に立つ。
目の前の彼は、いつもの微笑み、いつもの佇まいだ。
しかし。
空気が遠い。
そのくらいの言葉でしか表せないほど、自然なものだった。
そして、それが意図されたものだと気づくのに、時間はかからなかった。
「......お変わりありませんか」
声は穏やかだった。
以前と同じ調子で、気遣うような視線を向ける。
なのに。
どこか、“整えられすぎ”ていた。
言葉の選び方。
間の取り方。
視線の向け方。
今までなら、もっと自然だったはずなのに。
“露骨”と呼ぶには表に出ておらず、“変わらない”と思うには不自然だった。
歩き出すと、彼は一歩後ろを選んだ。
隣に並ばない。
先にも出ない。
もちろん、聞こうと思えば、理由は聞けた。
けれど、咲は聞かなかった。
聞いたところで、“大したことではありません”と返される気がしたからだ。
それくらい、彼は落ち着いていた。
しかし、その結論を出したあと、咲は自分の行動を否定した。
違う。
“聞かなかった”んじゃない。
“聞けなかった”んだ。
咲は、気づいてしまった。
甘い香りが、徐々に引いていっていることに。
纏わりつくように、自分の存在ごと進む先を覆っていた霧が、ゆっくりと道を開けていくように。
鍵をかけられていた記憶の引き出しが、一つずつ解放されていくように。
見えない何かで閉じられていたものが、ほどけていく。
思い出せなくなっていた記憶。
この世界まで案内してくれた、不思議の国の案内人の名前。
「......フー、ル......」
そうだ。
そうだった。
フールのおかげで、前へ進めた。
フールのおかげで、少しだけ笑える時間も過ごせた。
ちゃんと、思い出せた。
しかし、その安堵も束の間。
咲の中には確かに、別の想いも存在していた。
アッフェル。
甘い香りが強かった頃は、彼のことでいっぱいだった。
でも今は、はっきり違うと分かる。
自分が必要としているのは、彼ではない。
咲のその様子を見ているのか、いないのか。
考えている内容を察しているのか、いないのか。
後ろにいる彼は、何も言わない。
それが、少し怖かった。
アッフェルは優しい人だ。
そして彼は、居住空間も、安心も、信頼も、平穏も。
たくさんのものを贈ってくれた。
これだけのものを与えてもらいながら、彼の気持ちに応えないなんて。
かなり、恩知らずかもしれない。
咲は、途中で足を止める。
彼も止まる。
少し遅れて。
「......疲れましたか」
気遣いの言葉。
でも、その声は触れない。
「......大丈夫」
咲は首を横に振る。
彼はそれ以上、何も言わなかった。
心配されていないわけじゃない。
ただ、以前より踏み込まれていない。
以前は、もう少し近かった。
視線も、言葉も。
今は、“線”が引かれている。
それが、拒絶ではないことだけは分かる。
けれど、保護でもなかった。
休憩のために腰を下ろす。
彼は、咲の正面には座らなかった。
斜め。
視線が交わるか、交わらないかの位置で、沈黙が続く。
意外にも、気まずさはない。
ただ、空白が増えたのは分かった。
「......ここは、静かですね」
彼が言う。
それだけ。
会話を広げるわけでも、感想を重ねるわけでもない。
なのに、その一言が、なぜか印象に残る。
立ち上がるとき、アッフェルは手を差し出さなかった。
確かに、転びそうなほどではなく、助けが必要なほどでもない。
だから、何もおかしくはない。
それなのに、胸の奥に小さな違和感が残った。
「今日は、ありがとうございました」
丁寧な声。
いつも通りの言葉。
でも、“次”を約束する言い方ではなかった。
「......お気をつけて」
短い言葉で、それだけ伝える。
背を向けて歩きながら、ふと思う。
―――この人は、距離を取っている。
咲は、一度だけ振り返る。
彼は街灯の下に立ったまま、咲の視線に気づくと、にこりと微笑んでいた。
理由は、分からない。
目の前の彼が、あまりにも自然に距離を取るから。
突き放すためじゃない。
しかし、守るためでもない。
“何かを決める前の距離”。
けれど。
それが長く続かないことだけは、なぜか分かった。
【第2章 与える者編 - 第7話「距離」- 完 -】
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