第3章 回収者編 - 第3話「逃げない理由」
潮が引き、濡れた岩肌が鈍く光っている。
男は先を歩きながら、何度かちらりと振り返った。
逃げていないか。
いや。
逃げる気配がないか。
咲は、男の後ろを歩き続けた。
もちろん、怖い。
しかし、聞きたいこともまだある。
けれど、それを聞くのも怖い。
思考が円を描く中、砂を踏む音だけが響いている。
「......なぁ、さっきから思ってたんだけどよ」
低い声が、咲の耳を支配する。
男は足を止め、咲のほうへと振り向いた。
「なんで、逃げねェ。なんで怖がらねェ」
低く、少し間の抜けた声。
問いは短いのに、真っ直ぐだった。
わずかな沈黙が落ち、男はニヒルな笑みを咲へと向けた。
「まぁそうだよな。てめェ、もう“詰み”だもんな」
勝手に納得したみたいに続ける。
「逃げれば、俺が捕まえることは分かってんだろ。でもって、“逃げる”は恐怖だ」
首を捻り、嘲るように笑う。
「“恐怖”は、魔女が感知する」
そう。
どちらにせよ、逃げ場はないのだ。
咲は周囲に視線だけを移す。
周りは、海と岩場。
逃げ込めるような建物もない。
あったとしても、きっと逃げられない。
「......賢ェ」
それは、皮肉でも嘲りでもなく、ただの事実確認として出た言葉だった。
男は再び先を向く。
「逃げねェ方が、長生きできる。......ほんのわずかだけどな」
わずかに低くなった声で、男は言い切る。
顔は、見えない。
しかし。
言葉は荒いのに、声に妙な温度がある。
それがなぜなのかは、咲には分からない。
再び歩き出す。
「それに......今のてめェは、守られてる」
触手が、微かに揺れる。
きっと、アッフェルから付与された毒のシールドのことだろう。
咲は、胸に手を添える。
彼の存在が体に薄い膜を張っているような。
知っている誰かが、まだ側にいるような。
そんな安心感が、ほんの少しだけ残っている。
一瞬、咲の顔が緩む。
同時に。
「......気に食わねェ」
男の顔が、わずかに歪んだ。
「だが、いつまでも効果があるわけじゃねェ」
一瞬立ち止まり、振り返らずに言う。
「......別の世界に来た瞬間、与えられてた魔法も、リミットが来る」
男は、小さく舌打ちした。
「チッ......ホント、余計なことしてくれたぜ」
苛立ち混じりの声。
しかし。
その奥に微かな安堵が混じっているのを、本人は気づいていない。
歩調を落とす。
「いいか。逃げねェなら、俺の視界から離れんじゃねェぞ。それが、今の最善だ」
命令口調で告げる。
だが、どこか“共有された理解”があった。
言葉だけなら、脅しに近い。
けれど、咲にはそれがただの脅しには聞こえなかった。
逃げるな。
離れるな。
それは、捕まえるためだけの言葉ではない気がした。
「......なんか、それって」
咲は言いかけて、やめた。
思わず足を止めて俯く。
すると。
前の足音も、やんだ。
「......そこまで言って、止めんな」
逆にイラつく、という声。
視線を上げると、男は足を止め、咲のほうへと向いていた。
また、余計なことを言ってしまった。
男は露骨に苛つきながらも、咲の言葉を待っていた。
きっと、誤魔化してもバレる。
そうなれば、更に良くない結末を招くかもしれない。
咲は、覚悟を決める。
「......不器用な、告白みたいだなって」
咲は、ぎゅっと目を閉じる。
終わった。
きっとシールドが切れれば、自分は即、海に引きずり込まれるのだろう。
しかし。
いつまで経っても、怒号も罵りもない。
ゆっくりと目を開ける。
そこには、目を見開き、固まったままの男。
触手すら微動だにしていない。
「......は?」
やっと出た言葉は、力が入っていなかった。
男の思わぬ様子に、咲も拍子が抜ける。
「......そんな顔、するんだ」
考えるよりも先に出た言葉。
たったこれだけのことなのに、わずかに緊張感が抜けた。
殺されるかもしれないのに。
しばらくすると、男の表情がゆっくりと変わる。
先ほどまでの刺々しい雰囲気は角が取れ、引っかかるような声は、わずかに落ち着いたトーンに変わった。
「......お前、変なやつだな」
男は呆れた表情で咲を見る。
少なくとも、殺意は感じられなかった。
「逃げられねェんだぞ。死ぬかもしれねェんだぞ。普通、怯えるだろ」
咲が言った言葉への回答はない。
「......意味分からねェ」
ただそれだけ呟くと、男は再び前を向き、歩き出した。
波音が、規則正しく続く。
逃げないのではない。
逃げられないと、分かっている。
けれど。
それだけではない。
咲は、男の背中を見つめる。
怖い。
危険だ。
今でも、少しも安心なんてできない。
それでも、彼は咲に触れられないまま、歩幅を落としていた。
置いていかない程度に。
逃げ出させない程度に。
その不器用な距離が、どうしようもなく奇妙だった。
その事実が。
二人の距離を、否応なく縮めていった。
【第3章 回収者編 - 第3話「逃げない理由」- 完 -】
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