第3章 回収者編 - 第2話「器」
岩場に、潮の匂いが溜まっている。
男は、少し離れた位置で立ち止まったまま、鋭い瞳孔をした青い目で、咲をじっと見ていた。
「......勘違いすんじゃねェぞ」
前置きもなく、吐き捨てる。
「お前は人魚じゃねェ。見りゃ分かる」
苛立ったように視線を逸らす。
「“人魚姫”ってのはな、魔女が使う“器の型”の名前だ」
それ以上の敬意も、神秘性もない言い方だった。
「型の、名前?」
咲がそう返すと、まさか反応が返ってくると思っていなかったのか、男は一瞬目を見開いた。
「......あぁ、そうだ」
表情の温度が戻り、触手が海の方を指す。
「海に縛られる身体。魂が沈みやすい構造。外の世界から来た人間でも、中身を流し込める入れ物」
「......最初にそう呼ばれた奴が、童話みてェに語られただけだ」
軽く鼻で笑う。
「白雪姫とか、人魚姫とか、全部後付けだ」
咲は、妙に冷静だった。
すでに二つの世界を越えた咲の感覚は、目の前で起こっているありえない存在や事象に対して、恐怖だけで固まるほどではなくなっていた。
正直、男の話を聞きながら、この世界自体が童話なんだけどな、と思ったのは事実だ。
けれど、目の前の存在に人間界の常識は通用しない。
それだけは、外見だけでも分かる。
下手なことを言えば、何をされるか分からない。
咲は男を刺激しないように、余計な言葉は胸の奥にしまった。
波が、岩に砕ける。
「てめェは選ばれたわけじゃねェ」
視線が戻る。
「海岸に落ちた。恐怖で壊れなかった。毒に即死しなかった。それだけで、器候補になる」
言葉は淡々としている。
ただの事実を並べているだけ。
そこに、感情というものは乗っていなかった。
「人間だろうが、異世界モンだろうが、関係ねェ。本来なら俺が見つけた時点で、回収か処分だ」
触手が、また微かに揺れる。
滴るほどの毒は滲んでいない。
「......器候補にすらならねェやつは、いらねェ」
そう言って、男は意味ありげな視線で陸の方を眺めた。
言葉だけなら、背筋が冷える。
しかし、男が発したその言葉には、妙な重さがあった。
一瞬、言葉が詰まる。
「......だったら、見逃してよ......」
思わず、口に出てしまった。
まずい、と思い、急いで視線を下げる。
「......あ?」
明らかに不機嫌な声。
多分、今すごい顔でこちらを見ているに違いない。
しかし、ここまで言っておいて黙る方が、さらに怒らせる気がした。
咲はゆっくりと口を開く。
「......だって、器候補にならないなら、いらないんでしょ? ......私、そんな立派な器じゃない」
男は、咲の話を遮ることなく聞いた。
その事実に、ほんの少しだけ、緊張が和らぐ。
意外と、話はできる相手なのかもしれない。
直後、大きなため息が波の音に重なった。
「......俺だって、好きでやってるわけじゃねェ」
男は、近くの岩場にどかっと腰掛ける。
咲が視線を上げると、男は海のほうを見ていた。
「......お前、腹減りゃ飯食うだろ」
海を見つめたまま、不機嫌な調子で話す。
唐突な普通の質問に、一瞬思考が止まる。
「......そりゃあ食べるよ」
再び視線を落とし、言葉だけを返す。
「それと同じだ。そうしねェと、存在を保てねェ」
声のトーンは変わらない。
なのに。
その言葉が意味するものは、とんでもなく重い。
「......嫌じゃ、ないの?」
アッフェルの時もそうだった。
それが役目なのだと言っていた。
野暮な質問であることは、分かっている。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「......嫌とか、知らねェ」
声が、やや沈む。
「別にこの生き方に、不満はねェ。やらなきゃならねェなら、やるだけだ」
男はゆっくりと立ち上がる。
そして、体ごと咲のほうへ向くと、やや前傾姿勢で咲を見る。
「......だが、今はどっちも出来ねェ」
苛立ちを隠すように、舌打ちをひとつ。
理由は、分かりきっている。
今の咲は、触れれば弾かれる毒に、即死しない身体を持っている。
「......だから、待つ。器になるか、ただの死体になるか、それが決まるまでな」
選択肢のようで、選択肢ではない。
言葉も物騒だった。
ちらりと、咲に視線を向ける。
「てめェがどう思ってるかは関係ねェ」
少しの間が空く。
すると。
男は、ゆっくりと視線を下げた。
「......関係ねェはずだったんだが」
言い切らずに、言葉を飲み込む。
目の前で起きている事態を、どう受け止めればいいのか分からない。
そんなわずかな動揺が、青い瞳に滲んでいた。
「......まあ、いい」
気怠げに背を向ける。
「今は、まだ人間の姿を謳歌してろ」
その声は、出会ったときと比べれば、角がほんの少しだけ取れていた。
安心できるほどじゃない。
この先に待ち受けているものは、とても受け入れがたいものばかりだ。
しかし、まだ何もされていない。
まだ生きている。
そして、会話が成立した。
この先の希望は薄い。
けれど、なくはない。
波は、同じ音だけを響かせている。
“人魚姫”という名前だけが、静かに、頭に残った。
【第3章 回収者編 - 第2話「器」- 完 -】
→第3章 回収者編 - 第3話「逃げない理由」へ