第3章 回収者編 - 第1話「海岸」
「いった......っ......」
地面に身体を打ちつけた衝撃で、咲の視界が白く滲んだ。
手に触れているのは、さらさらの砂と、見たこともない形の貝らしきもの。
耳に届くのは、重く湿った波音。
―――海岸だった。
「前の世界では、こんな落ち方しなかったのに......」
咲は、ゆっくりと上体を起こす。
すると。
ザッ、ザッと近づく、砂を踏む音。
立ち上がる前に、背後から明確な“圧”が落ちてくる。
「......お?」
低く、引っかかるような声。
「久しぶりだな、この浜に落ちてくんの」
咲の体を覆うように、影が伸びる。
考えるより先に、首がその影へ向いた。
水色の髪。
サメのようにギザついた歯。
ニヤリと笑う口からは、青い舌。
両手はポケットに入れていて分かりづらいが、手首から先が濃い紫に覆われている。
見た目も服も、全体的に目を引く青。
そして。
人の形をしているのに、前髪の間から頭上を通り、背中側に長く伸びた何かが、ゆらりと揺れていた。
髪と同化したそれは、明らかに風ではない動きをしている。
触手。
その先を見て、頭の中で警告音が鳴る。
触手の先端から、紫色の液体が滲んでいた。
男は咲の様子を見て、片側の口角を上げた。
「触れてみろよ。俺の毒で、死にてェならな」
―――毒。
触れれば、終わり。
無駄に抵抗しない方がいい。
咲はそう考え、男の動向を見ることにした。
男は咲に、値踏みするような視線を向ける。
「人魚姫の器、か? ......いや、まだ未熟だな」
一瞬眉をひそめるが、納得したかのように呟くと、再び片側の口角だけを上げた。
「チッ......だからすぐにアイツが来ねェわけだ」
人魚姫。
器。
アイツ。
言葉の意味を確かめる前に、触手が迷いなく咲へ伸びた。
―――回収される。
「やだ......っ......」
咲は反射的に目を閉じた。
だが。
―――バチッ!!
乾いた音が響いた。
咲が目を開けると、触手が見えない何かに弾かれていた。
「――ッ!?」
男が、思わず息を呑む。
触手がびくりと跳ね、毒が逆流するように波打った。
「......は?」
ためらいなく、触手をもう一度伸ばす。
「ひっ......」
―――バチッ!!
再び、確かな反発が起きる。
「防御か......?」
否定するように、男は首を振る。
「いや、違ェ」
触手を睨みつけ、低く唸る。
男は体に響く感覚から、ひとつの答えを導き出した。
「......毒だ」
苛立ちが、はっきりと滲む。
ギリッと歯を食いしばり、低い声で言う。
「......俺の毒に、別の毒が噛みついてやがる」
眉間に深いシワを寄せる。
チッ、と舌打ちをひとつ鳴らし、男の触手が不気味に持ち上がった。
「あんの中途半端な毒野郎か......!!」
ガサついた声で、吐き捨てるような悪態をつく。
その瞬間、咲の頭に、あの彼が浮かんだ。
本来なら、自分を始末するはずだった存在。
永遠の眠りを与えるはずだった、彼の毒が。
今こうして、守りを与えている。
「......アッフェル......っ......」
咲は思わず、胸元の服を握った。
男は一瞬、顔をしかめる。
余計な仕事を増やされた、というような視線が咲を刺す。
「ずいぶん甘ェ“送り出し”しやがって」
嘲るように笑い、男は一歩距離を取った。
「なるほどな......即死はしねェ、と。だが、回収できねェってわけでもねェ」
低く、納得した声で告げる。
「え......」
咲は顔を上げる。
男と視線が合った。
「当たり前ェだろ。別の世界に飛んだんだ。効果はいつか切れる」
驚きも、焦りもしない。
ただ、そうなることを事実として告げているだけだった。
男は海の方を一瞥した。
「この世界の魔女はな、海ん中にいて形がねェ。だから、長ェこと陸に上がれねェし、この世界の支配もできねェ」
独り言のように。
それでいて、咲にも最低限理解できる形で告げる。
そして。
男は一拍置くと、視線を静かに戻す。
「だから、器が要る。中に入る入れ物がな。てめェは、確実にその候補だ」
男はニヤリと笑い、言い切る。
「......本来なら、この場で連れてく」
再び伸びる触手。
だが。
触手はまた、同じように弾かれた。
「クソッ......毒が反発してる以上、今は回収できねェ」
一瞬、視線を下げ考え込む。
「......殺しても、ダメだな。空の器は、ただの死体だ」
淡々とした口調。
「そんな......」
咲の瞳の色が沈む。
それを見てか、そうでないのか。
男の口角が僅かに歪んだ。
「......待ってやる」
男は深いため息を吐き、背を向けて歩き出す。
「回収できるようになるまで」
波音が重く響く中、振り返らずに言葉を重ねた。
「勘違いすんなよ。助かったわけじゃねェ」
男は足を止め、一瞬だけこちらを見る。
「魔女が欲しがってんのは、お前じゃねェ。お前の身体だ」
触手が、再び揺れた。
「......ッたく、面倒な器だぜ。俺ァ待つのは嫌ェなんだよ」
そう呟いて、男は再び歩き出した。
周りは、岩場と不気味な木々に囲まれている。
逃げられる保証はない。
アッフェルからの守りも、いつまで効いているのか分からない。
不用意に逃げて、手荒にされる方が、今は怖い。
形のない不安と恐怖が、咲の背を這い上がる。
しかし。
まだ、先ほどよりも荒い扱いは受けていない。
少なくとも今は、大人しくしていれば、それ以上のことはされない。
それも、事実。
今は、無駄に抵抗しない。
咲は胸ポケットの上から、カードに手を重ねる。
ジョーカーは、何も言わない。
男は、一度だけ咲に視線を向けると、小さく息を吐き、再び前を向いた。
海の奥で、何かが静かに蠢いた。
―――“入れ物”を待つ存在が。
【第3章 回収者編 - 第1話「海岸」- 完 -】
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