第2章 与える者編 - 最終話「命令違反」
夕暮れの路地裏。
彼はつつみ隠さず、すべての真実を明かしたあと、咲を見つめる。
その視線に、胸が跳ねた。
モスグリーンのその瞳は、今まで彼と過ごした中で一番柔らかい色をしていた。
そして。
ごくわずかに、熱を含んだ視線だった。
「......後ろを、向いてください」
それは、“最後の願い”と言わんばかりの響きだった。
アッフェルはいつも、伺うような問い方をしていた。
本来なら、“ください”ではなく、“くださいますか”と聞いてきたはずだ。
「......なんで?」
咲は、初めてその場で理由を問う。
しかし、彼はにこりと微笑むだけ。
「ずるいよ。散々私を振り回しといてさ」
わずかな沈黙。
「......まるで、これが最後みたいな空気じゃん......」
咲は思わず俯いた。
確かに、彼の甘い香りによって、意識を誘導されていたかもしれない。
しかし。
今ここにある感情は、否定できない。
「......ちゃんと、教えてよ」
咲の目から、涙が一筋こぼれた。
「どうしたら、やめられるの? どうしたら、普通の生き方を選べるの?」
一度流れ始めた涙は、止まらない。
「......泣かないでください。それを止めるものは、持ち合わせておりません」
アッフェルは、ほんのわずかに、困ったように眉を下げた。
そして、告げる。
「......私は、ギフターです」
彼は視線を逸らし、ぽつりぽつりと呟く。
「白雪姫となった人間が必要としているものは、すべて与える。それが、私の役目です」
安心。
信頼。
平穏。
甘い言葉。
穏やかな時間。
それは、咲がこの世界の現在における白雪姫であるためだった。
「......そして」
彼の瞳の色が、わずかに沈む。
「......私が贈るものに、私自身も含みます」
魔女が白雪姫に与えるもの。
それは、ひとつしかない。
咲は、それを黙って聞く。
黙って聞いているしか、なかった。
語られた事実が、この世界のルールなのだ。
「それは、この先変わることはないでしょう」
アッフェルの表情は大きく変わらない。
しかし今。
その瞳は、確かに沈んでいる。
後悔、というよりも、そこから逃れられない運命であることを、わずかに憂うように。
「しかし、主の命に従うことに、疑問を抱いたことはありません」
彼はようやく視線を上げる。
その目は、色を取り戻している。
揺らがない瞳だった。
「......ですが、あなたには。ただの毒として、終わらせません」
希望ではなく、断言。
その言葉を最後に、彼は一歩ずつ、咲へ歩み寄る。
「......待って」
アッフェルの歩みは止まらない。
「ちゃんと、話をしたいの」
彼の手が、ゆっくりと迫る。
咲は距離を作るため、後ろへ駆け出そうとした。
そして、その刹那。
咲は思い出した。
先ほどアッフェルが言っていたことを。
“後ろを、向いてください”。
―――振り返ってしまった。
「......ありがとうございます」
その時。
背中に、衝撃が走った。
彼の手が、咲の背中を押したのだった。
丁寧な優しさだけしか向けてこなかったアッフェル。
そんな彼が、力を込めて、咲の背中を押したのだと分かった。
「な、に」
そのまま、前のめりにバランスを崩す。
甘い香りが鼻を掠め、勢いで、数歩進む。
背中の奥が、じんわりと熱を持った。
痛みではない。
けれど、ただ触れられた感覚とも違う。
薄い膜のようなものが、背中から全身へ広がっていく。
甘い林檎の香りが、一瞬だけ鋭くなった。
何かをされた。
そう気づくよりも早く、胸元のジョーカーが熱を持つ。
同時に、なんの変哲もなかった景色が大きく裂け、目の前に暗く、大きな穴が現れた。
まるで、アッフェルが成そうとしたことのタイミングに、カードが応えたみたいに。
咲は体勢を整える間もなく、踏み場を失った足が穴へ落ちていく。
「......大丈夫です。怪我は、しません」
どちらの立場に言っているのか分からない言葉。
本来始末すべき相手を逃がしたのだ。
当然、何かしらの処罰を下されるはず。
―――消されてしまうかもしれない。
咲は不安定な視界の中、アッフェルに視線を送る。
彼は、穏やかな表情をしていた。
この時だけは、肩の荷を下ろすことができたみたいに。
境界の穴が閉じる間際、彼は届かない声で呟く。
「......あなたとの日々は、嘘偽りなく......」
「......楽しかったですよ」
―――その表情は、もう見えなかった。
抵抗する間もなく、足元が崩れ、世界が裏返る。
声は届かない。
手も、もう伸ばせない。
託された続きを歩くための静かな境界。
その中で。
一枚の黒い羽がひらりと、目の前を掠めていった。
【第2章 与える者編 - 完 -】
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