第3章 回収者編 - 第4話「選択」
潮が満ち始め、波の音が少しだけ高くなる。
男は何も話さない。
ただ、時折後ろにいる咲へ視線を移し、また前を向く。
咲は男との距離を保ちながら、導かれるまま歩いた。
視線を落とす。
あれから、ジョーカーは何も反応しなくなってしまった。
もしかしたら、もう役目を終えたのかもしれない。
しかし。
これは、案内人の彼との初めての繋がりだった。
少なくとも、彼だけは始末や回収といった物騒な意思はなかった。
むしろ―――少し、楽しかった。
きっとまた会えた時に、思い出のカードとして、話題になるかもしれない。
「......そんなわけ、ないか」
温かくなりかけた心に、影が落ちる。
もう、会えないかもしれないのに。
その可能性の方が、高いのに。
「何ぶつぶつ言ってんだ」
引っかかるような声が、静かな空気を裂いた。
顔を上げると、男は首を捻り、咲へと視線を向けていた。
「今までの人間は、大抵口を開けば命乞いだった」
陸の方へと視線を移すと、深く息を吐く。
「......別に。どうせ死ぬなら、最後に思い出に浸ったっていいでしょ」
男は、咲の言葉に返事を返さなかった。
顔は不機嫌そのものだ。
しかし、今すぐどうこうするような気配は感じられない。
ただじっと咲を見ると、また視線を先に戻し、歩き出す。
しばらく歩くと、海とは反対側へ伸びる道の先に、小さな明かりが見えていた。
「......ぇ......」
呼吸に混じり、吐息のような声が出る。
先ほどまで、どこを向いても海と岩場しか存在しなかったのに、それは急に現れた。
煙突のついた屋根。
風見鶏。
看板。
石畳の道。
見間違いじゃない。
人の住む場所が、その先の光景に広がっている。
―――街だ。
灯りがあって、声があって、この海とは違う世界。
それだけで、胸の奥に小さな熱が灯る。
誰かがいる。
建物がある。
道がある。
ただそれだけのものが、今は救いの形に見えた。
「......あァ」
男も、それに気づいていたらしい。
「見えてんだろ。......街だ」
振り返らずに言う。
触手が、ゆっくりと揺れる。
「ここからなら......走れば、届くかもしれねェな」
“かもしれない”。
確信じゃない。
でも、ゼロでもない。
しかし。
この希望に縋りたい思考が、“今すぐ街へ行け”と、信号を出している。
息が上がる。
心臓の音がうるさい。
男は背を向けたまま続ける。
「魔女の気配は、まだ薄い。今なら、回収も処分も来ねェかもな」
咲は、ぎゅっと手を握る。
言っていることはめちゃくちゃだ。
なのに。
先ほどまで、今後の生存率がほとんどなかった選択肢に比べれば、圧倒的に希望がある。
一瞬、沈黙が落ちる。
男は、足を止めたまま動かない。
追いかける様子も、引き留める素振りもない。
「......おかしいよな」
ぽつりと呟く。
「俺は本来、お前を連れてくか、殺す側だ」
男は、背を向けたまま淡々と言う。
「離れんなら、止める理由はねェ。むしろその方が、楽だ」
咲は、妙な違和感を覚える。
止める理由はあるはずだ。
器。
この男は、海の魔女が入るための“人魚姫の器”が必要だと言っていた。
止める理由しかないはずなのに、なぜ。
その理由を問う前に、男が続ける。
「......なのによ」
言葉が、ほんの少し詰まる。
「毒が、まだ弾かれてる」
自分の触手を見る。
「ただ、回収できるようになるまで、待ってるだけのはずだった」
そのはずなのに。
目の前で起こるイレギュラーな状況が、男の常識を乱す。
「怯えた目を向けられんのは慣れてる。命乞いも、死ぬほど聞いてきた。......だが」
男は、こちらを見ようとしない。
触手も、ゆっくりと揺れるだけ。
「......ビビんねェ目で普通に話してきたやつは、お前だけだ」
前を向いたまま、言葉を重ねる。
「今の距離が......やりづれェ」
低く、吐き出すような声。
街は、確かに見えている。
灯りも、道も、ある。
―――今なら、逃げられるかもしれない。
男は、何も言わない。
追い払わない。
命令もしない。
ただ、判断を保留したまま立っている。
ここで、街へ向かうこともできる。
それでも、彼のところに留まることもできる。
どちらを選んでも、破滅の未来は避けられないかもしれない。
波が足元を洗った。
毒と灯りの境界で、時間だけが、静かに流れていた。
【第3章 回収者編 - 第4話「選択」- 完 -】
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