第3章 回収者編 - 第5話「偽物の安心」
砂浜の道を、駆ける。
男が追ってくるかもしれないことは、わかっている。
しかし、今はアッフェルからのシールドがある。
今はまだ、捕まえられない。
その事実が、咲の足を動かす糧だった。
街の灯りは、確かにそこにあった。
人の住む場所の色。
温かさを思わせる光。
―――逃げられた。
胸の奥が、わずかに緩む。
砂浜を離れ、石畳の道に足を踏み入れた。
その瞬間。
「......え......」
咲は思わず視線を下げた。
確かに、石畳の道に踏み込んだはずだ。
なのに。
―――軽い。
音が、どこか空虚だ。
靴音が、地面に吸い込まれるみたいに消える。
まるで、柔らかい地面の上に、薄い木の板を敷いただけの道を歩いているような感覚。
咲は、視線を街に戻す。
家々が並んでいる。
窓には灯り。
看板もある。
―――なのに。
人の気配が、ない。
風が吹いても、風見鶏は動かない。
扉はあるのに、開く音もしない。
明かりはついているのに、揺らめく人影すらない。
違和感が、遅れて這い上がってくる。
その時。
「だから言っただろ」
低い声。
背後から、男の声が落ちる。
振り返ると、男はそこにいた。
最初から、知っていた様子で。
「嘘は言ってねェ。かもしれないってな」
淡々と男は言う。
視線が、灯りの並ぶ建物へ向く。
「ここは、魔女が作った。人間が安心する形をなぞっただけのモンだ」
一歩、足音が響く。
「つまり、街の形をした、罠だとよ」
罠。
最初から、何故そう思わなかったのだろうか。
そもそも、冷静に考えていたら、わかっていたはずだ。
海の魔女。
どう見ても人間ではない男。
人を器として扱う世界。
そんな海の近くに、人が穏やかに暮らしているはずがない。
こんな世界だ。
もしかすれば、強力な結界でも張れる者がいるかもしれない。
しかし、いつ家族に危険が及ぶかもわからない不安定な安息の中で、あえてここを選ぶ者はいないだろう。
後悔の念が、じわりと這い上がっていく。
「人間はな、“帰れる”って思った瞬間が一番油断する。最初から逃げ道なんざ、用意されてねェ」
男は、淡々と告げた。
目の前のちっぽけな人間の心情など、何も知らないような顔で。
「......やだ......っ......」
その瞬間。
首の皮一枚で何とか保っていた感情が、とうとう溢れた。
―――恐怖。
「......あァ」
何かを察したように、男は短く息を吐いた。
「......とうとう、怖がったな」
恐怖は、魔女が感知する。
街の灯りが、一斉に揺らぐ。
家々の影が、不自然に伸びる。
看板の文字が、意味を失ったように歪む。
窓の灯りは温かい色をしているのに、そこから漏れる気配は、異常に冷たかった。
「ここに入った時点で......お前は、もうこの世界から離れられねェ」
先ほどよりも、声のトーンは低い。
男は一拍置くと、言葉を詰まらせながら告げた。
「―――魔女の、圏内だ」
咲の胸に、絶望が、静かに沈み込む。
逃げたと思っていた道は、ただ檻の中を移動しただけだった。
なんて、滑稽なのだろう。
「......ひどいよ」
じわっと、咲の目に涙が浮かぶ。
「散々連れ回して、希望与えて、最後に落とすの......?」
悲しみ、怒り、後悔、絶望。
負という負の感情が、咲の胸をかき乱した。
男は、少しだけ視線を逸らす。
「......悪ィな」
言葉とは裏腹に、声は硬い。
「下手に怖がらせるつもりは、なかった」
それもそのはず。
本来なら、出会った瞬間、一瞬で片付いていたこと。
回収するか。
処分するか。
それだけだった。
こんなふうに、歩かせるつもりも。
偽物の街を見せるつもりも。
希望を持たせて、それを折るつもりもなかった。
「......胸糞悪ィ」
すぐに“回収”ができなかった状況が、今の事態を招いている。
「......ンでこんな、ムカつくんだよ......」
命令は遂行中だ。
違反はしてない。
何も、問題はない。
ないはずだ。
―――なのに。
なぜか、腑に落ちない。
男は視線を下げる。
その時、男はごくわずかに目を見開く。
無意識に握っていた拳。
男は舌打ちをひとつ鳴らすと、自分の拳を睨みつけた。
「......クソ......」
再度、視線を下に落とす。
「......なんだよ......この感情......」
咲には気づかれないように、呟く。
男の中で、納得のいかない何かが芽生えていた。
街の灯りが、じわじわと歪んでいく。
偽物の夜が、幕を下ろし始めていた。
【第3章 回収者編 - 第5話「偽物の安心」- 完 -】
→第3章 回収者編 - 第6話「終わりの始まり」へ