第3章 回収者編 - 第6話「終わりの始まり」
街もどきが、ゆっくりと崩れていく。
建物の輪郭が曖昧になり、道は砂へと戻る。
灯りは、泡のように弾けて消えた。
―――逃げ場では、なかった。
あの温かそうな灯りも。
今にも回り始めそうな風見鶏も。
美味しそうな匂いが漂ってきそうな、あの看板のある店も。
すべてが偽物だった。
その事実が、絶望を更に濃くしていた。
同じ人間に、会えるかと思った。
普通の会話ができるかと思った。
帰れる方法を聞けるかと思った。
「......全部、罠」
世界は何も変わらない。
何も言わない。
夜の海岸。
冷たい風。
重く沈んだ空。
知らぬ存ぜぬで、波の音だけを立てている。
そんな咲の心境を理解しているのか、していないのか。
男は黙ったまま、少し前を歩いていた。
振り返らない。
けれど、距離は取らない。
しかしその背中は、それ以上に落ち着かない。
触手が、揺れている。
毒が溢れるほどではない。
だが、抑え込んでいるのが、はっきり分かる。
「......チッ、まだ未完成の罠じゃねェか」
男は周囲を見渡し、小さく舌打ちした。
「魔女の結界......いや、“途中まで出来かけの巣”か」
独り言のように言い、海を睨みつける。
つまり。
まだ、“完全に見つかってはいない”。
それが、男にも分かっている。
だからこそ、焦りが混じる。
「......なァ。お前、気づいてるか?」
低い声で問う。
答えは求めていない様子で、男は視線を合わせる。
「このままウロついてりゃ、そのうち、アイツに気づかれる。そしたら......もう終わりだ」
触手が、わずかに強く波打つ。
言葉は荒いが、声はどこか歪んでいた。
今までの、命令をこなすだけの声じゃない。
何かが引っかかっているような、妙な間がある。
「......俺が欲しがろうが、殺そうが、逃がそうが」
一瞬、言葉が詰まる。
「......あいつに見つかった時点で、選択肢は消える」
海の奥が、ざわ、と揺れた。
咲にも、さすがに分かった。
何かを探すような空気の揺れ。
遠い。
だが、確実に“在る”。
まだ、“視線”までは来ていない、魔女の気配だった。
けれど。
これは、時間の問題だ。
すぐにでも、これからどう動くべきか、決める必要がある。
咲は周囲を見渡す。
どこかに逃げられそうな道はないか。
何でもいい。
次元の狭間だろうが、見たこともない穴だろうが、命を落とすよりはましだ。
そんな咲の様子を見て、男は拳を握る。
強く、爪が食い込むほど。
焦る顔。
逃げようとする足元。
浅い呼吸。
それが、男の中で異常な感覚を生み出していた。
初めて経験する、胸の奥の乱れ。
本来なら、逃げようとする器を見れば、苛立つだけで済んだ。
面倒だと吐き捨て、捕まえる方法だけを考えればよかった。
なのに。
今は、違う。
逃げ道を探す咲の姿を見るたび、胸の奥で何かが濁る。
「......クソ......ッ......なんで、こんなタイミングで......」
言いかけて、止める。
代わりに、ちらりとこちらを見る。
その視線は、欲しさと、苛立ちと、どうしようもない迷いが混ざっている。
「......お前さ」
声が低くなる。
「この世界、好きか?」
答えは、いらない。
しかし、咲は答えた。
「......そんなの、好きなわけないでしょ」
言葉が詰まる。
喉が熱くなり、唇が震える。
「私、まだやりたいこと、いっぱいあったんだよ......!? これから新しい仕事探して、普通に恋してさ。......なのに」
それなのに。
目の前には、未来の幸せとは程遠い“回収者”。
「帰り、たい......」
殺される、とは違うかもしれない。
けれど、ここにいれば、咲という人間は失われる。
命を失うのと、どれほど違うというのだろう。
そんな世界を、どうすれば好きになれるというのか。
「......そーかよ」
男はまた視線を下げ、それ以上何も言わなかった。
止めもしない。
促しもしない。
ただ、そこに立っている。
―――触れられない距離で。
街もどきがあった、さらにその向こう遠くに、灯りのようなものが見える。
本物かもしれない場所。
―――逃げるなら、今しかない。
しかし。
その考えも、すぐに胸の奥へと沈んでいく。
たった今、逃げられるかもしれない状況から、絶望に変わったばかりだ。
また偽物だったら?
むしろ、あちらに行くことで、魔女の到達が早まったら?
希望に見えるものほど、怖い。
その灯りが本物だと、もう素直には信じられなかった。
そんな咲の心境を煽るように。
海風が、強く吹いていた。
【第3章 回収者編 - 第6話「終わりの始まり」- 完 -】
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