第3章 回収者編 - 最終話「覚悟と決意」
偽物の街は、完全に消滅する寸前だった。
石畳に亀裂が走り、建物の輪郭が滲むように溶けていく。
前を歩いていた男の足が止まった。
「......チッ」
舌打ちを一つ落とすと、元々険しい顔が、更に険しいものに変わった。
海の奥から、あの“圧”が近づいてくるのが分かる。
―――魔女だ。
「......来やがる」
男は、無意識に一歩前に出る。
咲を背にかばうような位置だった。
その背中を見て、咲は悟った。
悟らざるを得なかった。
ここまでだ、と。
逃げても追いつかれる。
隠れても見つかる。
なら。
咲は、そっと一歩前に出た。
―――男の横へ。
そして、何も言わずに立つ。
「......は?」
男は振り向いた。
その瞳は、比べるまでもなく、今までで一番揺れていた。
「ッ......おい、何やって......」
言葉が、止まる。
咲の、その表情を見てしまったから。
恐怖じゃない。
絶望でもない。
―――覚悟。
「......っ......やめろ......それ以上、前に出んな!!」
咲は、一度だけ男の方へと顔を向ける。
「今まで“回収”だの“殺す”だの言ってたくせに、次は、“前に出んな”って......?」
確かに言った。
男も、都合が良過ぎることは分かっている。
だが、しかし。
そう思ったのも、事実だ。
「......チッ......ふざけんなよ。器になる気か?」
拳が震える。
問いかけは、否定を期待したものだった。
咲は答えない。
ただ、“受け入れる”ように立っている。
それどころか。
男に微笑み、両手を差し出している。
まるで、命令を遂行することを促すように。
「ッ......!!」
男は目を見開いた。
どんな状況であれ、今まで自分に微笑む人間など、いなかった。
こんな状況で。
悲しいはずなのに。
怖いはずなのに。
目の前の存在は、自分に微笑んでいる。
「......クソッ、お人好しも、大概にしろ......ッ!!」
ギリッ、と男は歯を食いしばり、目を逸らす。
そして。
「そいつぁ、俺が一番やりたくねェ選択なんだよ......!!」
押し殺したような声が響く。
「え......」
咲が目を見開いた、その瞬間。
海がせり上がる。
津波のようなのに、ただの波ではない。
生きているように、海そのものが立ち上がる。
咲にも分かった。
圧倒的な存在の気配。
―――魔女が、もうそこまで来ている。
もう、考えている時間はない。
それよりも。
この胸の奥。
まだ、よく分からない感情。
ただそれだけで、男は決めた。
一瞬だけ目を伏せる。
そして。
次の瞬間、顔を上げた。
「......ッ......変更だ」
低く、決意した声だった。
触手が、咲へ向かって勢いよく伸びる。
「きゃ......っ......!!」
反発音が響き、火花が散る。
「......ッよし、まだ効いてやがったな......!」
言葉の荒さとは裏腹に、安堵のこもった声色。
アッフェルの毒のシールド。
中途半端で、余計な“守り”。
触れられない。
掴めない。
それなら。
触手は、咲を空間ごと持ち上げた。
毒のシールドがなければ、できなかった術。
触手は距離を保ったまま、咲の腕へと伸びる。
そして、“プツッ”と、咲のつけていたブレスレットを外した。
「......迷惑料だ。勝手に覚悟決めて、俺の選択肢まで潰しやがった分」
荒く、吐き捨てるように言う。
男はブレスレットを握りしめる。
「......返さねェからな」
理由は言わない。
言えば、離せなくなるのは、分かっている。
男が空間に手をかざすと、裂け目が開き、別の世界の光が見えた。
「これは、俺が作った。......ったく、この力使うと、しばらく能力使えねェんだよ......」
そして、咲へ背中を向ける。
「......俺が使うわけじゃねェのによ」
ぼそっと、小さな声で付け足した。
咲は固まったまま、何かを訴えるように男を見る。
男は余計なことを滑らせてしまったかのような、バツの悪い表情を浮かべていた。
訴えたいことは察したが、答えない。
「......行け。ここにいたら、次は俺が、お前を......」
男は、顎で裂け目を示す。
続きは、言い切らない。
「......ねぇ。あなた......名前は?」
荒かった。
怖かった。
でも。
助けてくれた。
せめて、名前だけは。
自分を助けてくれた、彼の名前を。
男は一瞬だけ、口を開きかけた。
しかし、ぐっと唇を結ぶ。
「必要、ねェよ。......じゃあな」
触手が、大きくしなる。
「待って......っ......!!」
待たない。
そして、咲を投げる。
触れずに。
壊さずに。
覚悟ごと、光の向こうへ。
「二度と来んじゃねェ。......人間」
荒い言葉なのに、穏やかな声。
けれど。
―――その声は、確かに揺れていた。
裂け目が閉じる。
ふわっと足がつく。
あれだけの勢いで投げ込まれたのに、痛いところは一つもない。
“俺が使うわけじゃねェのによ”。
その言葉が、ふと胸に残る。
彼はきっと、これまでも扉を開いてきた。
“殺す”と言いながら、すべてを魔女に渡していたわけじゃない。
最初から耐えられないと判断した者だけを、彼は、密かに外へ逃がしていた。
自分は、“回収すべき器”だったはずなのに。
それでも、彼は逃がしてくれた。
それが。
顔が怖くて、不器用な彼の、精一杯の思いやりだった。
境界の空に、黒い影。
烏は咲を見て、わずかに目を細めた。
飛び立つ方向は―――まだ、誰も知らない。
器の気配を失った海は、再び静まった。
男は、手の中のブレスレットを見る。
「......痛ぇ」
ぎゅっと、握る。
触手に不快な刺激が残ったままだ。
反発を、無理やり抱えたから。
なのに。
「......触手じゃねェところも、痛ぇ」
誰にも届かない声で、呟く。
男は一度だけ天を仰いだ。
「......マジで、二度と来んなよ」
その意味は、彼にしか分からない。
そして、いつものように肩を落とし、両手をポケットへ突っ込むと。
自分の縄張りへと、戻っていった。
―――その背中は。
安堵と、寂しさを含んでいた。
【第3部 回収者編 - 完 -】
→幕間「境界の異変」へ