幕間「境界の異変」
境界の道を進む。
すると。
ふっと、急に体が軽くなった。
開放的な感覚ではない。
何かを失ったような軽さだった。
「......アッフェルの......」
毒のシールド。
境界を越え、毒の触手を耐え抜き、また境界を越えて。
そしてとうとう、効果が解けていった。
胸ポケットのジョーカーは、やはり何も反応しない。
反応しないのか。
役目を終えたのか。
それとも、それ以外なのか。
咲には、何も分からなかった。
そして、それを理解した途端。
足が崩れそうになる。
今まで守ってくれていた存在が、急にいなくなったような。
何も知らない世界に、また置き去りにされたような。
とてつもない孤独感が、胸の奥から込み上げてくる。
息が浅くなり、喉の奥が熱くなる。
唇が震え、冷や汗が滲む。
これから進み続けることに、何の意味があるのだろうか。
ひたすら続く歪んだ物語の世界に、何の救いがあるのだろうか。
命を落としていたかもしれない場面に、高い確率で遭遇しているのは事実だ。
なら、次の世界こそ。
それが、本当に起きてしまったら。
「......やだ......ッ」
我慢していたものが、自然と湧き出る不安とともに、溢れ出た。
「っ......誰か、助けて......っ......」
境界には、人の気配はない。
咲は、しばらく泣いた。
声に恐怖と不安を乗せて、出し切るように。
そして。
咲は、涙を拭った。
泣いて解決するなら、いくらだって泣く。
しかし。
泣いても、助けを乞うても、誰も来ない。
声すら聞こえない。
なら、進むだけ。
―――いや。
進むしか、なかった。
返事も反応もない、顔のないジョーカー。
これだけは、手元にある。
唯一、今の咲にとって、心の支えだった。
“もし、戻って来られるなら......
......また、会いにきても、いいかな”
フールと別れた時に、言った言葉。
あれを、彼が聞いていたかどうかは分からない。
また会える保証はどこにもない。
しかし。
なぜかは分からないが、このジョーカーに触れている間だけは。
また会えるような、そんな気がした。
しばらく歩くと、先に光が見えてきた。
ほんのわずかに、次の世界の輪郭が浮かび上がっている。
刺々しい植物の蔓が、城に絡みつくようにしてそこに在った。
「......眠り姫、かな? いや、いばら姫......?」
どちらにせよ、次もまた、おとぎ話のような世界に落ちるのだろう。
きっと歪んでいて、またとんでもない選択を迫られるような、怖い世界。
境界から見える外観だけなら、今までで一番不穏だった。
正直、行きたくはない。
しかし、行かなければ、このどこでもない場所で、どうなるかも分からない。
覚悟を決めた、次の瞬間。
「っ......え......!?」
ふいに、足元が歪んだ。
それまで穏やかだった境界の道が、ぐにゃりと奇妙に揺らぎ始める。
まるで、この境界の“外側”から。
強い力で、必要な存在を無理やり引きずり出そうとしているかのように。
境界には、支えになるものも、掴めるものもない。
そのままバランスを崩し、後ろに足を一歩引いた瞬間。
足元が、消えた。
現実世界から、この奇妙な世界に落とされた時と同じ感覚だった。
けれど。
その空気は、微かに血生臭い。
そして、落ちる直前。
一瞬だけ、誰かが手を掴もうとしてくれたような感覚がした。
指先だけが、擦れたような感覚。
今は、もうない。
そして。
咲は、明らかに今までとは違う気配の世界へと、落ちていった。
―――その場所が、本来行くはずのなかった世界であることを。
咲は当然、知らなかった。
【幕間「境界の異変」 - 完 -】
→第4章 処理者編 - 第1話「違和感のある世界」へ