第4章 処理者編 - 第3話「疑い」
翌日。
柔らかな日差しとともに、咲は目を覚ました。
この屋敷に来てから、睡魔に襲われるまま意識を沈め、不安とともに目覚める日々。
寝てはいるが、人間界にいた時のように熟睡できる環境ではなく、睡眠の質は確保できていない。
ペッツァートは優しい。
優しいが、正体はまだ分からない。
「......はぁ」
思わず深くため息を吐いた、その時だった。
コンコン。
静かな部屋に、ノックの音が響いた。
「ペッツァートです。目覚めていらっしゃいますか」
変わらぬ、低く穏やかな声。
「あ......はい」
目覚めたばかりの声で返す。
「身支度に必要なものは、ドア前のワゴンにあります」
続けて、ペッツァートは扉を隔てたまま伝える。
「準備ができましたら、ベルでお知らせください。後程、貴女に来ていただきたい場所がありますので」
中身の分からない依頼に、咲は思わず肩をすくめた。
彼はそれを察したのか、すぐに言葉を続けた。
「驚かせてしまい、申し訳ありません。貴女に危害を加えるようなものではなく、少し、肩の力を抜いて過ごせる場所へお連れしたいのです」
危害は加えない。
その言葉に、咲の肩が僅かに下がった。
「わかりました。後で呼びますね」
そして、朝の身支度を整え、咲はベルを鳴らす。
近くで待機していたためか、足音が聞こえてくるまでに時間はかからなかった。
「今日からは、こちらへ」
その声は、いつもより少しだけ柔らかい。
案内されたのは、先に使っていた部屋よりも少し、奥まった場所だった。
「ここなら、よく眠れるでしょう」
それは、咲の疲れを、ちゃんと見ていた人の言い方だった。
前の部屋も、快適ではあった。
しかし、彼の足音以外に別の足音が重なることもあり、落ち着くにはやや心許なかった。
「こちらなら、人の出入りもありません。落ち着かない思いをしなくていい」
寄り添うような口調。
彼は扉に手をかける前に、静かに言う。
「必要なものは、揃えさせます。不自由があれば、遠慮なく」
その声には、世話を焼くこと自体が彼の望みであるような、不思議な温度があった。
夜になると、遠くで足音が止まる。
扉は開かない。
ノックもない。
それでもやはり、そこに彼がいると分かる。
まるで、眠る前の呼吸を確かめるみたいだった。
「ずっと、眠れているか気にしてくれてたんだ......」
そして、足音は静かに遠ざかる。
確かに、前の部屋よりも音が少なく、快適だった。
咲は目を閉じ、意識が沈む感覚に身を委ねた。
翌朝。
窓の外は穏やかな晴天だった。
僅かに雲が多い。
しかし、それがむしろ涼しく感じる。
「現実世界なら最高のお出かけ日和だったのに......別の世界までお出かけしてるよ......」
そんなことを言っている場合ではないが、楽しくなるような何かを挟まなければ、不安につぶされてしまう。
いつになったら元の世界に帰れるのか。
何より、この世界から移動する手段はないのか。
―――そもそも、生きて帰ることが、可能なのか。
自分で考えておきながら、ぞくっと背筋が粟立つ。
押し寄せる不安を振り払い、ドアを開ければ、部屋の前に置かれた品々。
整えられたそれらは、言葉よりも雄弁に彼の気持ちを伝えているようだった。
気分転換に廊下に出れば、ペッツァートが遠くから歩いて来たところだった。
すれ違いざま、彼は咲の方を見る。
「何か、不自由はありませんか。貴女が困ることは、一つもないようにしますので」
それは約束というより、咲に向けられた、特別な言い方だった。
胸の奥が、あたたかくなる。
「あ、ありがとうございます。でももう、充分なので」
咲は胸の前で小さく手を振る。
「そうですか。では何かあれば、またベルで」
そうして、ペッツァートは奥の部屋へと消えていった。
咲は廊下の窓から、庭を見る。
この屋敷に来てから、外には出ていない。
彼から、外に出るかどうかも聞かれていない。
出会った日に彼は、自分に事情があることを察し、何も聞かずに部屋を貸してくれた。
それに、自分からも特別、外に出たいとは言っていない。
「後で、少し庭に出たいって言ってみようかな」
咲はベルを鳴らすため、先程案内された部屋へと歩き出す。
―――遠くから、
雨の匂いが、ゆっくりと近づいていた。
【第4章 処理者編 - 第3話「疑い」- 完 -】
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