第4章 処理者編 - 第2話「偽りか、誠か」
「ここなら、騒がしくはないでしょう」
咲が案内されたのは、人目から切り離されたような一室だった。
柔らかな外の光が入り込み、室内の温度も丁度良く保たれている。
自分の好きなタイミングで楽しめるように用意されたティーセット。
シックなデスクに紙とペン。
温かそうなベッド。
客人として迎えられるには、やや豪華な部屋だった。
咲は思わず、足を一歩引いた。
元いた世界で言えば、一泊数万円かかるであろう高級ホテルのような客室。
この男にとって自分は、見ず知らずの住所不定の存在だ。
「わ、私......お金とか全然持ってなくて......! こんな部屋を借りるのはちょっと......」
俯いたまま、胸の前で両手の指先を合わせる。
しかし、行くあてがないのも事実。
そんな彼女の様子を見て、ペッツァートは目を細めた。
「金銭を要求するつもりでしたら、ここにご案内していませんよ」
穏やかで、落ち着いた声。
見上げると、ペッツァートはやや視線を低くして告げた。
「私が、貴女にそうして差し上げたいのです」
その柔らかい微笑みには、少なくとも嘘は感じられなかった。
ペッツァートはそれだけ言って、扉に手をかける。
去り際、わずかに動きを止めて告げた。
「落ち着きますね。 ......貴女の近くは」
穏やかに笑う。
何かを企んでいるような様子はない。
ただ、招いた客人に、安心して過ごしてほしい。
そんな、丁寧な気遣いだった。
「各設備については、デスクにメモを置きましたので、そちらをご覧になると良いでしょう。......それでは」
そう言って、退室する。
足音が、ゆっくりと遠ざかっていく。
現時点では、危険な思想を持った人物ではないことは分かった。
“人”であるのかは、やや怪しいが。
咲は一度、デスク前の椅子に腰掛ける。
そのまま窓の外を見ると、そこは日当たりの良い庭だった。
「わぁ......綺麗......」
漫画で見るような、噴水や温室のついた庭園。
そこに現れる、見たことのない綺麗な野鳥。
一目で裕福なことが分かる屋敷だ。
穏やかな光景にやや胸が躍りかけるが、今のうちに、万が一の脱出経路を確認したほうがいい。
咲はデスクのメモを手に取り、部屋をあとにした。
部屋の外に出ると、ペッツァートと何度かすれ違った。
一度すれ違った時には「寒くないですか」と聞かれ、二度目にすれ違った際には「必要なものは、なんでもお申し付けください」と告げられる。
「そんなに気を使わなくていいですよ! お部屋を貸していただけるだけで十分なので......」
ペッツァートは柔らかく微笑むと、咲の目線に合わせて屈む。
「先ほど申し上げた通り、私がそうして差し上げたいのですよ」
咲が言葉に詰まったまま固まっていると、彼は姿勢を戻す。
「では、何かあればお呼びください」
咲に一礼をすると、ペッツァートは長く続く廊下の奥へと消えていった。
やたらと気遣いが多いが、それはきっと単なる親切ではないことは、咲にもなんとなく分かった。
気遣いを重ねることは、相手に興味を示し、距離を詰めたいという、元いた世界でも共通している求愛の形だ。
あくまで、紳士的な礼節の顔をした静かな合図。
しかし。
初対面なのに、なぜ。
きっとこの世界ならではの決め手があるのだろうが、それは咲には分からなかった。
夜。
廊下の灯りが一度だけ、扉の前で止まる。
ノックはない。
声もない。
それでも、“そこに彼がいる”と分かる。
翌朝。
廊下に続くドアを開けると、小さなワゴンに呼び出し用のベルと、身支度に必要なものが揃っている。
そこに挟まれているメモには、何か書かれていた。
文字としては、読めない。
しかし、なぜか意味は分かる。
“必要なものがありましたら、ベルでお知らせください”
あまりにも彼が優しすぎて、“守られている”と錯覚してしまう。
しかし、ふと思う。
この平穏は、いつまで続くのだろうか。
この世界に落ちた時に耳にした、物騒な会話。
“人間”、“皮膚”、“価値”。
その言葉が頭の中で反響し、背筋がぶるっと震えた。
自分も、もしかしたら“素材”に―――。
彼は穏やかそうな紳士だ。
あの人が自分をそう扱うような人物には思えない。
きっとあの裏通りで耳にした、物騒な会話をしていた者達の生業なのだ。
彼は関係ない。
―――そう、思いたかった。
しかし、言い聞かせたところで、不安なことばかりが、頭に浮かび続けている。
気がつくと、すでに日が沈み、夜が迫っていた。
完全なる安心はない。
しかし、自然とまぶたは下がり、睡魔は襲ってくる。
咲は、まどろみに身を任せるように、意識を手放したのだった―――。
【第4章 処理者編 - 第2話「偽りか、誠か」- 完 -】
→第4章 処理者編 - 第3話「疑い」へ