第4章 処理者編 - 第4話「慣れ」
先ほど案内された、新しい客室へ戻った。
「ずっと部屋にいるのも、息が詰まるもんね」
デスクの上には、呼び出し用のベル。
何度か使い、見慣れ始めていたもの。
それが、少しだけ特別に見えた。
ベルを軽く鳴らす。
相変わらず足音が聞こえるまでに、そう時間はかからなかった。
「お呼びですか」
穏やかで優しい笑顔。
「少しだけ、外に出たくて」
ペッツァートの目がわずかに見開かれた。
「......よろしいのですか」
ペッツァートは、咲の事情を知らない。
彼の眉尻が下がる。
否定的な感情からではない。
咲を外に出すことで、心に嫌な刺激を与えることにならないか。
嫌な記憶などがあるならば、それを浮上させる引き金になるのではないか。
そういった彼なりの心配が、表情に表れていた。
「そんなに心配しないでください。ちょっとだけ、空気を吸いたいだけなので」
本当にそれだけだった。
―――少なくとも、今は。
「分かりました。では、こちらへ」
案内されるまま、咲はペッツァートの後ろを歩いた。
中庭は、窓から見る景色よりも広かった。
部屋の窓越しに手のひらに乗りそうなほど小さく見えていた噴水は、一周するだけで息を切らすほどだった。
「大丈夫ですか」
ペッツァートはやや離れた位置から見守っている。
「体を動かすのは苦手で......日々の運動不足を実感しました......」
人間界では、あまり体を動かす仕事はしていない。
そんなこと、優しくとも得体の知れない彼には話せないが。
それを聞いたペッツァートの表情が、僅かに変わる。
「体を動かすことが苦手とは、珍しいですね」
表情は大きくは変わっていない。
しかし、何か疑惑を持たれたかのような彼の表情に、咲の肩が僅かに跳ねた。
「む、昔から病気がちで! 苦手になっちゃったんです」
咄嗟の嘘をつく。
こんな猫だましが苦しいことは分かっている。
「......そうでしたか」
ペッツァートは余計な詮索はしなかった。
それが彼にとって、しなくていいものと判断されたからか、聞いてしまえば何かが終わると察したからなのかは、分からない。
それから、中庭にある花壇の花や、菜園にある旬の野菜の話。
咲は久しぶりに、時間を忘れるほど穏やかなひとときを過ごした。
数日過ごす中で、分かったことがあった。
自分が人間であることは、少なくとも屋敷の者は誰一人として気づいていない。
その現状が、咲の油断を招いていた。
―――少しなら、外へ出ても大丈夫だろう、と。
「もうそろそろ、戻りましょうか」
先ほど見た時よりも、雲の色が湿り気を帯びていた。
言われるまま、踵を返したその時。
ぽつりと、冷たい雫が落ちた。
続いて、ぽつり、ぽつり。
―――雨。
空が暗くなり、空気が一瞬で冷える。
「......」
ペッツァートだけが気づいた。
それまで、確かにあった“あの香り”が、雨に溶けるようにゆっくりと消えていく。
―――匂いが、変わる。
咲自身は、気づけない。
けれど、隣を歩いていた彼だけが足を止めた。
「......なるほど」
低い声。
先ほどまでの彼からは想像できなかった、腹の底に響くような、重たい声。
その声を聞いた瞬間、咲は悟った。
終わりだ、と。
「......何者かによって、我々を欺くための細工を施されていたようですね」
そこで、咲は理解した。
アッフェルの時と同じように、あの海の男から、身を守るための付与があったのだと。
しかし、何かを付与されたような感覚はなかった。
「......毒......?」
考えられるとするならば。
あの海の男から最後に投げ込まれた際、シールドで触れられないにせよ、かなり近い距離まで毒が迫ったのは事実。
その時、彼の毒の匂いが、咲の体を覆うように纏わりついた。
それが、この世界の住人が咲を人間として認識するはずの嗅覚を、麻痺させることになったのだろう。
そして、もともとの咲の匂いと混ざった結果、ペッツァートにとって、守護する本能を刺激される香りとなった。
この物語の世界に来てから、入浴する機会はなかった。
物語のストーリーにヒロインの入浴シーンがないように、そういう概念がそもそも存在しない。
だから、ここで過ごした数日間、この匂いが変わることはなかった。
物理的に、匂いを流されない限りの話だ。
「......雨で、それが流れ落ちたようですね」
雨に濡れながら、淡々と言う。
彼の視線が、今までとほんの少しだけ違っている。
それは、まだ“素材を見る目”ではない。
けれど、今までの静かな“慈愛”の色でもない。
まるで、そのどちらに傾くかを、迷っているようだった。
―――彼の目の色が、
かすかに、揺らいだ。
【第4章 処理者編 - 第4話「慣れ」- 完 -】
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