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第4章 処理者編 - 第5話「開始の合図」

雨は止んでいた。
けれど、地面はまだ濡れている。

香りは戻らない。
それはつまり、咲はもう誤認される存在ではないということだった。

誤魔化すことは不可能だと理解した瞬間、咲は考えるよりも先に足が動いた。

濡れた石畳に、咲の足音が響き出す。

「......は......っ......」

息が、少しずつ荒くなる。

ペッツァートを背に、振り返りもせず、ただ前を見て走った。

足首に跳ね返る雨水。
靴下に染みていく湿った感覚。

そんなものを気にしている余裕などなかった。

―――甘かった。

危機感が足りなかった。
この世界に降りた時、住人達の違和感には気づいていたはずだ。

人間。
価値。
素材。

自分が普通に過ごすことは到底不可能であると、確かに感じたはずだ。

どんなに優しい彼だって、この歪んだ世界の住人だ。
最初から関わってはいけない人物であった可能性だって、理解していた。

―――なのに。

この世界で過ごした数日間が、あまりにも優しすぎた。

緊張を解かれ、心を解かれた結果、危機感の施錠までもが緩んでしまった。

彼なら自分が人間であっても、保護してくれると。
素材としての価値など投げ捨てて、守り続けてくれるだろうと。

そう都合のいいように、錯覚してしまった。

ペッツァートは、咲が逃げ出したことを理解していた。

しかし、すぐには追わない。

短く息を吐き、俯く。

―――揺れていた。

彼女と出会ったのは、偶然だった。
主から外を偵察するよう命じられたのが、たまたま彼であっただけ。

そして、ペッツァートにとっても、咲と過ごす時間は、穏やかで心躍るものとなっていた。

それが、雨によって流された。

香りも、積み重ねた時間も。

そして、芽生え始めていた、彼女に対しての感情。

「......」

ペッツァートは息を深く吸い込むと、彼女の走っていった方へと顔を上げた。

咲の足は止まらない。

「誰か......っ......」

今すぐ大きな声を上げて助けを呼びたい。

しかし、発しかけた声を、咲は飲み込まざるを得なかった。

今分かっている事実として、彼らは匂いに敏感だ。
人間としての匂いが表出した今、大きな声を出すことなど、自ら居場所を知らせることになりかねない。

声は出せない。
街の方へ行くことなど、論外。

助かる見込みが無に等しい絶望的な状況の中、咲はひたすら走った。

屋敷の門が見えてきたその時、遠くから静かで正確な歩調が迫ってきた。

靴の音から、走っているわけではないのが分かる。

その音から、余計な力を入れずとも、自分を捕らえることなど容易なのだと、分かってしまった。

「......やはり、こちらへ向かわれましたか」

声は穏やかだ。
だが、あの気遣いはない。

「人間の匂いは、残りやすいので」

淡々とした、観察の言葉。

咲は走りながらも、ペッツァートとの距離を見た。
嫌でも追ってきている姿が視界に入ってしまう。

彼は、まだ紳士の姿をしている。

けれど。

目だけは、すでに違っていた。

眠たげだったはずの視線は、金色の鋭い輝きを放ち、確実に追う者の色に変わっている。

咲は振り返らずに走った。

水たまりを踏み、冷たい飛沫が大きく跳ねる。
穏やかな気候なはずなのに、その飛沫だけが、やけに冷たく感じられた。

「......まだ、逃げられると思っているのですね」

確実に、近づいている気配がする。

「逃げることは、ごく普通の反応です」

その話し方から、彼は全く息を切らしていないことが窺えた。

「しかしそれは、処理の手間が増えるだけです」

怒りも、焦りもない。
ただの業務としての認識だった。

「......人間だと、判明した以上」

低く、静かに続ける。

「私があなたに向けていた感情も、ここで終わる、はずです」

曖昧な言葉。
それは、誰かに向けた言葉ではなく、自分に言い聞かせているようだった。

「......捕獲、します」

ペッツァートは揺らぎを残したまま、冷たく言い放つ。
咲は、思わず振り返ってしまった。

見てしまった。

彼の指先から、長く鋭い爪が伸びる。
明らかに人間の手ではないそれは、捕らえた獲物を逃さず引き裂くためのものとして存在していた。

そして、彼の目が一瞬ギラリと光り、咲を捉えた。

咲は、さらに速度を上げる。

涙が、声の代わりとなって溢れ出た。

それでも、背後との距離はわずかに、だが確実に縮まっていく。

背後から迫る気配は、“捕縛”を前提としたものへと変わりつつあった。





【第4章 静かなる処理者編 - 第5話「開始の合図」 - 完 -】
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Out-of-Page Märchen作者:桜桃
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雨は止んでいた。
けれど、地面はまだ濡れている。

香りは戻らない。
それはつまり、咲はもう誤認される存在ではないということだった。

誤魔化すことは不可能だと理解した瞬間、咲は考えるよりも先に足が動いた。

濡れた石畳に、咲の足音が響き出す。

「......は......っ......」

息が、少しずつ荒くなる。

ペッツァートを背に、振り返りもせず、ただ前を見て走った。

足首に跳ね返る雨水。
靴下に染みていく湿った感覚。

そんなものを気にしている余裕などなかった。

―――甘かった。

危機感が足りなかった。
この世界に降りた時、住人達の違和感には気づいていたはずだ。

人間。
価値。
素材。

自分が普通に過ごすことは到底不可能であると、確かに感じたはずだ。

どんなに優しい彼だって、この歪んだ世界の住人だ。
最初から関わってはいけない人物であった可能性だって、理解していた。

―――なのに。

この世界で過ごした数日間が、あまりにも優しすぎた。

緊張を解かれ、心を解かれた結果、危機感の施錠までもが緩んでしまった。

彼なら自分が人間であっても、保護してくれると。
素材としての価値など投げ捨てて、守り続けてくれるだろうと。

そう都合のいいように、錯覚してしまった。

ペッツァートは、咲が逃げ出したことを理解していた。

しかし、すぐには追わない。

短く息を吐き、俯く。

―――揺れていた。

彼女と出会ったのは、偶然だった。
主から外を偵察するよう命じられたのが、たまたま彼であっただけ。

そして、ペッツァートにとっても、咲と過ごす時間は、穏やかで心躍るものとなっていた。

それが、雨によって流された。

香りも、積み重ねた時間も。

そして、芽生え始めていた、彼女に対しての感情。

「......」

ペッツァートは息を深く吸い込むと、彼女の走っていった方へと顔を上げた。

咲の足は止まらない。

「誰か......っ......」

今すぐ大きな声を上げて助けを呼びたい。

しかし、発しかけた声を、咲は飲み込まざるを得なかった。

今分かっている事実として、彼らは匂いに敏感だ。
人間としての匂いが表出した今、大きな声を出すことなど、自ら居場所を知らせることになりかねない。

声は出せない。
街の方へ行くことなど、論外。

助かる見込みが無に等しい絶望的な状況の中、咲はひたすら走った。

屋敷の門が見えてきたその時、遠くから静かで正確な歩調が迫ってきた。

靴の音から、走っているわけではないのが分かる。

その音から、余計な力を入れずとも、自分を捕らえることなど容易なのだと、分かってしまった。

「......やはり、こちらへ向かわれましたか」

声は穏やかだ。
だが、あの気遣いはない。

「人間の匂いは、残りやすいので」

淡々とした、観察の言葉。

咲は走りながらも、ペッツァートとの距離を見た。
嫌でも追ってきている姿が視界に入ってしまう。

彼は、まだ紳士の姿をしている。

けれど。

目だけは、すでに違っていた。

眠たげだったはずの視線は、金色の鋭い輝きを放ち、確実に追う者の色に変わっている。

咲は振り返らずに走った。

水たまりを踏み、冷たい飛沫が大きく跳ねる。
穏やかな気候なはずなのに、その飛沫だけが、やけに冷たく感じられた。

「......まだ、逃げられると思っているのですね」

確実に、近づいている気配がする。

「逃げることは、ごく普通の反応です」

その話し方から、彼は全く息を切らしていないことが窺えた。

「しかしそれは、処理の手間が増えるだけです」

怒りも、焦りもない。
ただの業務としての認識だった。

「......人間だと、判明した以上」

低く、静かに続ける。

「私があなたに向けていた感情も、ここで終わる、はずです」

曖昧な言葉。
それは、誰かに向けた言葉ではなく、自分に言い聞かせているようだった。

「......捕獲、します」

ペッツァートは揺らぎを残したまま、冷たく言い放つ。
咲は、思わず振り返ってしまった。

見てしまった。

彼の指先から、長く鋭い爪が伸びる。
明らかに人間の手ではないそれは、捕らえた獲物を逃さず引き裂くためのものとして存在していた。

そして、彼の目が一瞬ギラリと光り、咲を捉えた。

咲は、さらに速度を上げる。

涙が、声の代わりとなって溢れ出た。

それでも、背後との距離はわずかに、だが確実に縮まっていく。

背後から迫る気配は、“捕縛”を前提としたものへと変わりつつあった。





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