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第4章 処理者編 - 最終話「伸ばされる手」

「はぁ......っ......はぁ......っ......」

濡れた石畳に、咲の呼吸が乱れる。

漏れる声。
熱くなるばかりの息。
ふらつく足元。

優しかった彼は、主の忠実な“刃”として、咲を追跡している。

「嫌......っ......」

迫り来る恐怖に、咲の体が強張る。

帰還。
生存。

その可能性は、徐々に詰められていく距離のごとく、じわじわと削られていた。

「お願い......っ......誰か、助けて......っ......」

呼吸は浅くなり、喉と指先が冷えていく。

再び溢れた涙は視界を揺らし、足元を不安定にさせた。

縺れる足を必死に動かしながら、咲は願う。


―――帰りたい。


仕事から帰っていたあの時、密かに咲は願っていた。
退屈な日常を変えてくれる、ここではない何処かへ行きたいと。
口に出したわけではない。
しかし、全てがくすんで見えたあの時は、確かにそう思ったのだ。

この世界で生を終えるなど、当然望んでいない。
まだやり残したことは、たくさんある。

転職して。
それから恋人も欲しい。
そしてデートを重ねながら、何でもない日常を過ごして。
そのうち、プロポーズをされて。

そんな当たり障りのない平凡な幸せを、今は心から望んでいる。



その時、今までとは違う刺さるような視線に、背筋がぞわっと粟立つ。

反射的に咲は振り返ってしまった。

「......ぁ......」

この世界に降り立った時に感じた、住人の違和感。

鼻先を近づけたり、どこか人間らしくない動物的な行動をとっていた、あれ。

それが今、目に見える形で現れていた。

すでに表情がはっきり分かるほどに距離を詰めた先に、ペッツァートはいた。

獣の耳。
黒く長い爪。
不気味に揺れる尾。

子供の頃、何かの本で見たことがある。

満月の夜に変身する、西洋の怪物。

その姿はまるで、狼男のようだった。

体が毛で覆われているわけではない。
むしろ、ほとんど人の形をしている。

しかし、それが逆に。

あの優しかった彼が、明確に自分の命を狙っているのだと確信させるには、酷く残酷な姿として咲の目に映っていた。

まだ、全く違う見た目になってくれた方が良かったと思うほどに。

「っ......!!」

悲鳴が潰れたような声が、開いた口から漏れた。
咲が前を向いた瞬間、一瞬にして気配はすぐ後ろに迫る。

「......終わりですね」

低い声が、耳元で落ちる。

「ひ......っ」

引きつった声が、咲の喉の奥で消えた。
視界が更に涙で覆われ、まともに前が見えていない。

「......ここまで、よく持ちましたね」

静かなのに、愉悦を含んだ声。

「捕まえてしまうのが、少し惜しいほどです」

それは、“処理する者”の声ではなく、“狩りを楽しむ者”の色を帯びていた。

視界の端に、長く鋭い爪が映る。

「た......助け......」

緊張で喉までもが震え、上手く声が出ない。
わずかに見えていた爪が、目の前を覆うように伸ばされていく。

―――あぁ、もう、だめだ。

咲の足から力が抜けかける。

「......ですが――」

彼がその言葉の続きを言う前に。

唐突に、目の前の景色が切り裂かれるように開いた。

「えっ......!?」

まるで硝子を突き破るように現れた手。

「ッ......!?」

ペッツァートの動きが、ほんの一瞬止まる。

裂け目から咲に向かって手が伸びる。

敵意は感じない。

―――むしろ。

懐かしいような気配すらした。

咲の腕が掴まれる。

その手に引っ張られ、否応なしに咲は、裂けた空間の先へと吸い込まれていった。

ペッツァートの伸ばした指先が、空を掴む。

空間には、もう亀裂すらない。



すべての音が消える。



そこに残ったのは、濡れた石畳と、伸ばされたままの彼の手だけだった。

ゆっくりとその指先が、空をなぞる。

まるで、そこにまだ、咲の輪郭が残っているかのように。

「......なるほど」

小さく息を吐く。

怒りも、声を荒げることもない。
ただ、静かに目を細める。

「......戻ってしまいましたか」

その口元に浮かぶのは、微笑とも、獣が獲物を思い出す時の表情ともつかないものだった。

「......遊びすぎました、ね」

彼は指先についた雨粒を、舌でなぞるように拭い取る。

「......次からはもう少し、上手くいきましょう」

誰に向けたでもないその言葉が、静かな路地に溶けていく。

何に対して言った言葉なのかは、彼にしか分からない。

紳士の顔に戻ったペッツァートは、何事もなかったかのように、踵を返したのだった。










「......無事、か」

高い場所から、低い声が風に溶けた。

その言葉は。

―――誰の耳にも、届かない。




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Out-of-Page Märchen作者:桜桃
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「はぁ......っ......はぁ......っ......」

濡れた石畳に、咲の呼吸が乱れる。

漏れる声。
熱くなるばかりの息。
ふらつく足元。

優しかった彼は、主の忠実な“刃”として、咲を追跡している。

「嫌......っ......」

迫り来る恐怖に、咲の体が強張る。

帰還。
生存。

その可能性は、徐々に詰められていく距離のごとく、じわじわと削られていた。

「お願い......っ......誰か、助けて......っ......」

呼吸は浅くなり、喉と指先が冷えていく。

再び溢れた涙は視界を揺らし、足元を不安定にさせた。

縺れる足を必死に動かしながら、咲は願う。


―――帰りたい。


仕事から帰っていたあの時、密かに咲は願っていた。
退屈な日常を変えてくれる、ここではない何処かへ行きたいと。
口に出したわけではない。
しかし、全てがくすんで見えたあの時は、確かにそう思ったのだ。

この世界で生を終えるなど、当然望んでいない。
まだやり残したことは、たくさんある。

転職して。
それから恋人も欲しい。
そしてデートを重ねながら、何でもない日常を過ごして。
そのうち、プロポーズをされて。

そんな当たり障りのない平凡な幸せを、今は心から望んでいる。



その時、今までとは違う刺さるような視線に、背筋がぞわっと粟立つ。

反射的に咲は振り返ってしまった。

「......ぁ......」

この世界に降り立った時に感じた、住人の違和感。

鼻先を近づけたり、どこか人間らしくない動物的な行動をとっていた、あれ。

それが今、目に見える形で現れていた。

すでに表情がはっきり分かるほどに距離を詰めた先に、ペッツァートはいた。

獣の耳。
黒く長い爪。
不気味に揺れる尾。

子供の頃、何かの本で見たことがある。

満月の夜に変身する、西洋の怪物。

その姿はまるで、狼男のようだった。

体が毛で覆われているわけではない。
むしろ、ほとんど人の形をしている。

しかし、それが逆に。

あの優しかった彼が、明確に自分の命を狙っているのだと確信させるには、酷く残酷な姿として咲の目に映っていた。

まだ、全く違う見た目になってくれた方が良かったと思うほどに。

「っ......!!」

悲鳴が潰れたような声が、開いた口から漏れた。
咲が前を向いた瞬間、一瞬にして気配はすぐ後ろに迫る。

「......終わりですね」

低い声が、耳元で落ちる。

「ひ......っ」

引きつった声が、咲の喉の奥で消えた。
視界が更に涙で覆われ、まともに前が見えていない。

「......ここまで、よく持ちましたね」

静かなのに、愉悦を含んだ声。

「捕まえてしまうのが、少し惜しいほどです」

それは、“処理する者”の声ではなく、“狩りを楽しむ者”の色を帯びていた。

視界の端に、長く鋭い爪が映る。

「た......助け......」

緊張で喉までもが震え、上手く声が出ない。
わずかに見えていた爪が、目の前を覆うように伸ばされていく。

―――あぁ、もう、だめだ。

咲の足から力が抜けかける。

「......ですが――」

彼がその言葉の続きを言う前に。

唐突に、目の前の景色が切り裂かれるように開いた。

「えっ......!?」

まるで硝子を突き破るように現れた手。

「ッ......!?」

ペッツァートの動きが、ほんの一瞬止まる。

裂け目から咲に向かって手が伸びる。

敵意は感じない。

―――むしろ。

懐かしいような気配すらした。

咲の腕が掴まれる。

その手に引っ張られ、否応なしに咲は、裂けた空間の先へと吸い込まれていった。

ペッツァートの伸ばした指先が、空を掴む。

空間には、もう亀裂すらない。



すべての音が消える。



そこに残ったのは、濡れた石畳と、伸ばされたままの彼の手だけだった。

ゆっくりとその指先が、空をなぞる。

まるで、そこにまだ、咲の輪郭が残っているかのように。

「......なるほど」

小さく息を吐く。

怒りも、声を荒げることもない。
ただ、静かに目を細める。

「......戻ってしまいましたか」

その口元に浮かぶのは、微笑とも、獣が獲物を思い出す時の表情ともつかないものだった。

「......遊びすぎました、ね」

彼は指先についた雨粒を、舌でなぞるように拭い取る。

「......次からはもう少し、上手くいきましょう」

誰に向けたでもないその言葉が、静かな路地に溶けていく。

何に対して言った言葉なのかは、彼にしか分からない。

紳士の顔に戻ったペッツァートは、何事もなかったかのように、踵を返したのだった。










「......無事、か」

高い場所から、低い声が風に溶けた。

その言葉は。

―――誰の耳にも、届かない。




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Out-of-Page Märchen作者:桜桃
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