最終章 真・案内人編 - 最終話「出会い - Out-of-Page Märchen -」
―――目を開けると、見慣れた天井があった。
白い壁。
薄いカーテン。
枕元に置きっぱなしのスマホ。
咲は、しばらく瞬きもできずに天井を見つめていた。
長い夢を見ていたような気がする。
けれど、夢ではない。
胸の奥には、まだ確かな温度が残っている。
カードを握っていた、指先の感覚も。
霧の森の冷たさも。
甘い毒も。
海の匂いも。
雨に濡れた、獣の気配も。
いばらの城で聞いた、低い声も。
そして。
『......必ズ』
『迎えニ、行くヨ』
最後に耳元で落とされた、あの約束も。
咲は、枕元のスマホを手に取る。
あの世界に落ちてから、かなりの時間を過ごしていたはずだ。
日付を確認すると、あの日の、翌日。
半日も経っていなかった。
「嘘でしょ......」
実質、半日のうちに世界を何個も渡ったことになる。
「...ふふっ」
自然と口角が上がり、笑みがこぼれる。
「いや、濃すぎでしょ」
部屋に、咲の声だけが浮く。
あちらの世界では、常にとは言わなくても、誰かしらがそばにいた。
咲が何かを言えば、必ず声が返ってきた。
今、咲の声を聞くものは、誰もいない。
その事実が、今はとても寂しかった。
咲は、布団の中でぎゅっと目を閉じる。
起きなければならない。
仕事に行かなければならない。
そう思った瞬間、胸の奥が静かに軋んだ。
あの世界に落ちる前の仕事帰り。
転職しようかと考えていた。
このまま続けるべきか。
次を決めてから辞めるべきか。
普通なら、きっとそうするべきなのだろう。
けれど。
「......無理」
仕事の疲労に重ね、色々ありすぎた。
少しの間、休みたい。
以前は限界まで頑張りすぎていた。
今度は、「生きるため」に休む。
そう思えた自分に、心の中で小さく拍手をした。
数日後、咲は仕事を辞めた。
手続き。
失業保険。
生活。
考えなければならないことは、山ほどある。
そんな中でも。
“彼”との再会を願わなかった日は、1日もなかった。
とある日。
その日は気分転換のつもりで、近所のデパートへ向かった。
平日の館内は、休日ほど混んではいない。
目の前に広がる“普通さ”に、泣きそうになった。
帰ってこられた。
帰りたいと、生きたいと願った世界に。
咲は何も買う予定のないまま、上の階へ向かう。
そこで、ふと足が止まった。
吹き抜け近くの広場に、小さな特設ステージが作られている。
看板が置かれている。
けれど、まだ距離があり、文字までは確認できない。
しかし。
トランプを模した装飾だけは、見えていた。
その中に一枚だけ。
顔のないジョーカーがあった。
咲の胸が跳ねる。
笑っているわけでも、怒っているわけでもない。
ただ、顔だけが黒く塗りつぶされた道化。
あの世界で、咲がずっと持っていたカードと、まったく同じ意匠だった。
吸い寄せられるように、咲はステージへ近づいた。
まさか。
デパートの放送や周りの話し声など、今の咲には届いていない。
ただ、咲の期待に反応するように、自身の鼓動の音だけが、やけにうるさく響いていた。
その時。
「君」
背後から、声がした。
咲は、息を止めて振り返る。
そこに。
赤と黒のジェスター衣装を纏った青年が立っていた。
片足に重心を預け、ほんの少し首を傾げている。
咲の目頭が熱くなる。
初めて境界で出会ったあの日と、同じ立ち方。
けれど、髪は赤い。
頬には、ダイヤとハートのマーク。
あの暴走の痕跡を残したまま、それでも表情はひどく穏やかだった。
彼は、咲を見て言った。
「迷子だね」
あの世界で聞いた時よりも、ずっと自然な、人間の言葉だった。
咲の瞳が揺れる。
数秒の沈黙。
彼はゆっくりと近づき、ふっと笑った。
「冗談だよ」
少しだけ、いたずらに。
けれど。
その目は泣き出しそうなほど、優しかった。
「......よかった」
彼は深く息を吐く。
「ちゃんと、会えた」
人間の言葉として聞こえる。
それでも、あの独特な言葉の切り方だけは残っていた。
咲の喉が詰まる。
“迎えに行く”。
そう言った約束を、彼は本当に果たしてくれた。
「フー、ル......?」
名を呼ぶと、彼の目が細くなる。
「うん」
それだけで、咲はもう駄目だった。
泣かないつもりだったのに、目の奥が熱くなる。
でも、まだ泣きたくない。
咲はごまかすように、看板へ視線を向ける。
「顔がないジョーカーにしたのは、なんで?」
そう言うと、フールは少しだけ肩をすくめる。
「最初、笑ってる顔にしようかなって、思った」
フールも看板へと目を向ける。
「でも、それだと」
一拍。
「......見る人に、“笑え”って、言ってるみたい」
咲は、何も言えなかった。
フールは、顔のないジョーカーを見上げたまま続ける。
「もちろん、楽しいなら、笑ってほしい」
フールはどこからかトランプを取り出す。
「......でも」
一番上の一枚を捲る。
そこにも、顔のないジョーカーがあった。
「笑いたくない時に、笑ってほしくない」
その声は。
かつて、役割に縫われていた彼のものではなかった。
「したくないことは、してほしくない」
咲は胸元を押さえる。
「そっか」
顔のないジョーカー。
それは。
不気味な印ではなく、見る人が自由に表情を置ける、優しい余白だった。
フールは咲へ向き直る。
「今日のショー、見てる人に、手伝ってもらうところが多いから......」
そう言って、手を差し出した。
「......よかったら、ショーを、手伝ってほしい」
咲は差し出された手を見る。
ここは、ただのデパートだ。
隣では子供が風船を持って歩き、遠くではセールの案内が流れている。
それなのに。
この距離だけが、あの世界の続きみたいだった。
咲は、ゆっくりと手を取った。
「私、なんにもできないよ」
拒絶ではない。
それでもいいかと差し出した、軽い弱音だった。
「大丈夫、立ってるだけ」
安心させる声。
「私、変な人にならない?」
そうは言っても、やはり心配だった。
「変なの、マイだから、平気」
また、笑う。
釣られて咲も笑った。
咲の指先が触れた瞬間、フールの指がほんの少しだけ絡む。
けれど、すぐには握り込まない。
待っている。
今度は、咲の意思を。
咲が自分から握り返すと、フールはわずかに目を逸らした。
白塗りの下の肌が、みるみる熱を帯びていく。
唇を結び、照れたように。
本当に、困ったように。
「......そんな顔、するんだね」
思わず言ってしまった。
白い顔が紅潮した結果、フールの顔はすっかりピンク色に染まっていた。
「血、今は仕事しないでほしい」
拗ねた声。
「血が仕事放棄したら死んじゃうよ」
咲がくすっと笑うと、フールも釣られて笑った。
ひとしきり笑うと、彼の視線が、咲の唇へ落ちた。
「...約束」
ぽそりと呟く。
咲は細めていた目を開き、フールに視線を合わせた。
「“まだ言わないで”って言った、あれ」
不思議の国で、最後に彼としたやりとり。
咲がフールに名前を渡そうとして、止められたあの時の話だった。
やっと、この時が来た。
「......名前」
一拍。
「教えてくれる......?」
とうとう、咲の目が潤む。
あの世界では、必要なかった。
案内人に、迷子の名前は。
アリスに、それ以上の名は。
けれど、今は違う。
咲は彼を見つめた。
「......咲、だよ」
唇が震える。
フールは、息を止める。
「さ、く......」
たった二文字。
その名前を、壊れ物を扱うように、ゆっくりと舌の上に乗せる。
迷子でもない。
アリスでもない。
初めて彼が、自分の意思で受け取った、彼女自身の名前だった。
そして―――
あの世界では見せなかった顔で、フールは本当に嬉しそうに笑った。
ステージの音楽が鳴り始める。
「時間、だね」
フールは咲の手を取ったまま、一歩、舞台の方へ進む。
「それじゃあ、行こうか」
咲も、その隣へ足を踏み出す。
ステージに上がる直前。
「もう、案内人じゃないけど......」
彼は前を向いたまま、少しだけ笑う。
「......君を―――」
一拍。
「咲を必ず、導くよ」
そして。
もう一度、咲の名前を大切そうに呼んだ。
「咲」
ふわりと笑う。
「これから、よろしくね」
これから。
それが、何に対しての言葉なのか。
誰にも、まだ分からない。
舞台の幕が上がる。
拍手が起こる。
日常の光の中で、ページの外から来た彼が笑っている。
その先は―――
咲と、彼だけが知る
―――ページの外の、物語。
【最終章 真・案内人編 - 最終話「出会い - Out-of-Page Märchen -」- 完 -】
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