最終章 真・案内人編 - 第3話「選択」
鎌は。
振り上げられたまま、止まっている。
刃先は、まだ届いていない。
咲は、“間にあるもの”を消すように、彼に一歩近づいた。
そして。
彼の肩にそっと触れる。
びくり、と彼の体が震えた。
極限まで小さくなっていた瞳孔がわずかに緩み、微かな光を取り戻している。
暴走は、今だけは止まっている。
だが、フールはまだ、鎌を下げていない。
咲の肩を掴んだ手も、そのまま固まっている。
「......なニ、してるノ」
声が、ほんの少しだけ、以前のフールへと戻っている。
拒絶でも、警告でもない。
その目に映るものは、戸惑いだった。
咲は、その問いに答えない。
まだ、フールの中に燻っている何かがあるような気がしていた。
代わりに、フールの背中へと腕を回す。
強くはない。
ただ。
“ここにいる”。
“逃げない”。
そう伝えるように。
「ッ......」
その瞬間。
鎌が、落ちた。
鉄塊を落としたような重い音が、壊れかけている不思議の国に反響する。
世界が、わずかに揺れた。
その直後。
今までに感じたことのない、ひどく静かで奇妙な空気へと変わる。
同時に、視線のような圧が肌に纏わりつく。
まるで。
この世界が、こちらを見ているかのように。
その時。
咲の肩から、圧が消えた。
肩を掴んでいた手が落ちる。
張りつめていた力が抜け、フールは咲にもたれかかった。
「......アリス」
“マイの”、が消えている。
再び呼ばれた、“アリス”という名。
今の彼が、ここまで壊れながらも待ち続けた存在の名。
咲はそれを否定しない。
ただ、黙って彼の言葉を待つ。
咲が知っている物語に登場するアリスは。
“それは違う”と。
“これはおかしい”と。
その世界の不条理に声を上げられる存在だ。
フールは震えていた。
自分よりも高い背。
なのに今は、とても小さく見える。
咲は悟る。
この存在は、縋れなかった。
案内人である限り、迷えなかった。
その時。
フールは力なくもたれたまま、口を開いた。
「......マイ、愚カ?」
かすれた声。
「物語......」
ぽつりと呟く。
言葉は、やはり不自然に途切れる。
「人間ガ、作ったモノ......」
過去を振り返るように続ける。
「......好キ、だっタ」
「......歪んでてモ、続キ......」
必死に言葉を探し、無理やり紡ぐ。
わずかな沈黙。
「なのニ......」
また、言葉が切れた。
不思議の国は、変わらず静かにこちらを見ている。
フールの引きつくような呼吸が、耳元に響く。
時折言葉を発しようと短い息が出ては、すぐに引かれる。
それでも、フールは続きを探すように唇を震わせた。
けれど。
出てきたのは言葉ではなく、苦しげな息だけだった。
咲は、ただ抱きしめ、その温度だけで伝える。
やがて。
フールの震えが、少しずつ収まっていく。
「......誰モ......」
「導いテ、くれなかっタ」
ぽつりと落ちた本音。
「マイハ、案内人......」
「......デモ」
彼は、ぐっと唇を噛み締める。
「マイを導くヒト......いなかっタ......」
咲はただ、彼を抱きしめる。
「......アリス」
その声は、初めて“導かれる側”の響きだった。
胸元で、熱が灯る。
顔のない、あのジョーカー。
その時。
咲の胸に、フレーダーの言葉が響いた。
“鍵は、閉じられているものを解く”
“ジョーカーは、二枚ある”
“......揃えば”
“閉じられているものは――”
咲はポケットから、カードを取り出した。
その瞬間。
フールの表情が変わる。
「......ア......」
彼の手が伸びる。
しかし、触れない距離で止まる。
「それヲ......」
やはり、続きは言わない。
フールはずっと、肝心なところで言葉を引いている。
沈黙や、声の代わりに息を吐き出すことが多い。
“言わない”のではない。
“言えない”のだと、咲は分かった。
助けてほしいとも。
選んでほしいとも。
そのカードをどう使えばいいのかも。
彼は、最後の一線を越えられない。
だから、ずっと待っていた。
待つしかなかった。
世界。
役割。
不条理。
全てを壊してでも、自分を導いてくれる存在を。
咲は、カードを見つめる。
このカードは世界を渡る鍵であり、彼にとっての救済にもなり得るもの。
光が、静かに脈打つ。
フールは動かない。
止めない。
逃げない。
咲の選択を、静かに待つ。
そして。
彼は選ばれる側として、ただそこに立ち尽くしていた。
【最終章 真・案内人編 - 第3話「選択」- 完 -】
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