第5章 観測者編 - 第1話「序曲」
気がつけば、城の前に立っていた。
刺々しい蔓が、城に這い上がるようにして絡みついている。
周りには城壁。
空は薄暗く、空気は冷たい。
人の気配はない。
けれど、完全な廃墟とも違い、崩れ落ちた跡も焼けた痕もない。
ただ、時間だけが抜け落ちたように、城はそこに置かれている。
「......フール......」
当然、声は届かない。
空間が裂け、手が伸ばされることもない。
「あなたは......私に何を求めてるの......?」
返事はない。
あの別れ際。
最後に見えた、フールの表情。
笑っていた。
なのに。
いつもの瞬きのない目だけは、揺れているように見えた。
「......わかんない......」
思わず俯き、小さく息を吐いた。
その時、冷たい風が吹く。
周りの木々の葉が擦れ、ザァザァと乾いた音が響いた。
「っ......寒い......」
他の世界は、まだもう少し“温度”があった。
温かさだけの意味ではない。
住人。
生き物。
自然。
そういった温度が、少なからずあった。
けれど、この場所は違う。
凍えるほどではないが、異様な寒さと冷たさ。
冬の空気や冷蔵庫の冷気のような、凍てつく寒さではない。
しかし。
自分の中からじわじわと温度が吸われていくような。
ゆっくりと血の気が引いていくような。
そういった部類の寒さと、この世界自体の熱が冷めきっているような、そんな冷たさだった。
目の前にそびえる城へと視線を上げる。
刺々しい蔓は、確かに城に巻き付いていた。
しかしドアや窓を見ると、誰かが出入りしているのではないかと思うほど、そこだけ蔓が剥ぎ取られているように見える。
「......誰か、住んでるの......?」
あの城の中が、安全かどうかは分からない。
しかし、ずっとここに立っていれば、体を駄目にしそうだ。
ひとまず、城壁沿いであれば、まだ何かあっても逃げやすいだろう。
そうして、石畳を踏み出した時。
「......?」
その時、肌にピリッとした感覚を覚える。
何かが当たったわけでも、怪我をしていたわけでもない。
しかし、粟立つ背筋が、雄弁に語っていた。
―――誰かに、見られていると。
そう思った瞬間、咲の顔から本当の意味で血の気が引いた。
「まさか、ペッツァート......?」
この世界まで追いかけて来たのかと、恐怖から咲の体がすくんだ。
足を引いた瞬間。
城壁の影から、男が姿を現した。
褐色の肌に黒い髪。
暗い紫の外套。
その暗色の中で、翡翠色の瞳が異様に目を引いた。
人の形をしているが、やはり今まで会った者と同様に、どこか人間とは違う。
頭には、後頭部に向かってうねる角があった。
腕を組み、静かに立つその姿は、咲を驚かせることも、追い払うこともしなかった。
「......とうとう、来たか」
独り言のような声。
それでも、確かに咲へと向けられている。
男は小さく息を吐いた。
「......不憫、だな」
同情とも、諦めともつかない声。
この場所に来た理由を、咲が説明する前から、男はすべて分かっているようだった。
「騒ぐな。何もしない」
淡々と告げる。
咲は、わずかに視線を下げた。
「......そうやって安心させて、殺そうとしてきた人もいました」
握っている拳に、思わず力が入る。
優しい顔と甘い言葉で覆われた猛毒。
隠す気もなく向けられた猛毒。
香りとともに消えた、平穏な時間と慈愛。
これだけのことを経験してきた咲の精神は、初めて会った者を簡単に信頼できるはずがない。
「......そうだな」
男の視線がわずかに下がった。
「だが、俺は違う」
咲は距離を保ったまま、視線だけを男に向けた。
「俺は、お前に何もしない」
翡翠色の瞳が、咲をまっすぐに見た。
「言葉通りの意味だ」
ほとんど変わらない顔で、男は続ける。
「俺は、お前に指一本触れない」
言葉は冷たい。
それなのに、不快感はなかった。
なぜかは分からない。
相手は知らない男で、初めて会ったはずだ。
なのに。
なぜか“信頼してもいい”と思えてしまう。
そんな、不思議な瞳をしていた。
しかし、そんな思いを振り払うように、咲は一度だけ首を小さく振る。
それだって、何かの計画かもしれない。
「......でも、危険な時くらいは、助けて欲しいんですけど」
純粋な願い。
男の眉間に皺が寄る。
「人間は、図々しい」
呆れたように短く息を吐く。
「異形を見れば“近づくな”と言い、自らに危険が迫れば“助けろ”と言う」
わずかに首の向きを落とす。
その表情には影が差し、憂いを帯びていた。
「......ただ、生きたいだけです」
俯いたまま、ぽそりと呟く。
その瞬間。
男の瞳が、揺れた。
「......」
しばらく、ふたりの間に沈黙が続く。
男は一度目を伏せると、再び咲へと視線を向けた。
「......観測させてもらう」
男はそう告げると、一定の距離を保ったまま、咲の後ろへとついた。
男はそれ以上、何も言わない。
近づかない。
しかし、突き放されたわけでもなく、今のところ敵意は感じない。
何より、ほんの少しだけ、心細さが薄れた。
救済してくれる保証はない。
ただ、同じ空間にいることだけを許している。
それが。
この世界で、最初に与えられた関係だった。
【第5章 観測者編 - 第1話「序曲」- 完 -】
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