転 内にいる者、外にいる目
御影甚内は、俺が「寝具を残して消えた千代」を見たと知っていた。
道庵から聞いたのだ。遠くを見る力まで知られたわけではない。
それでも、知られて困る理由を、俺はうまく説明できなかった。
この力で盗みをしたこともない。誰かの寝所を面白半分で覗いたこともない。本能寺を見たのだって、誰にも迷惑はかけていない。たぶん。
それでも、身体が先に逃げろと言った。
知らない男が、知られるはずのないことを知っている。それだけで十分だった。
「弥吉」
奥から千代の声がした。
弱いが、俺を呼ぶ声だった。
逃げ道を探していた足が止まる。
甚内はそれを見て、戸口から半歩退いた。
「逃げたいなら逃げてもいい。ただし、あの娘の話は先に聞け」
「脅してるじゃないですか?」
「脅すなら、逃げてもいいとは言わん」
「逃げたら千代を助けないって意味でしょう?」
「助けられるかどうか、まだ見てもいない」
腹の立つほど平らな声だった。
宗兵衛さんが奥から顔を出す。
「弥吉、何をしてる? 早く入ってもらえ」
俺は甚内から目を離さないまま道を空けた。
存在の気配を消す。
無意識にやった。
目の前にいる以上、見えなくなるわけではない。それでも、自分がそこにいるという感じを薄くすると、少しだけ息がしやすい。
こんな男を千代の部屋へ入れていいのか。
だが、道庵が連れてきた。宗兵衛さんもお峰さんもいる。何より、千代本人が入れろと言っている。
俺は甚内の後ろへついた。
*
「御影とは、何をしている家なんです?」
お峰さんの指が、千代の布団の端を強く握った。
千代の枕元へ座る前に、甚内は全員を見回した。
「人の世の裏へ、はみ出したものを扱う」
宗兵衛さんが顔をしかめた。
「祈祷師か?」
「違う」
「では、何をする」
「分ける」
それだけ言って、甚内は千代へ向き直った。
「娘。名は?」
「千代です」
「自分で答えられるな。俺がおまえへ触れてもいいか?」
千代が、少し意外そうな顔をした。
「聞くんですね」
「聞けない時は家人へ聞く。聞けるなら本人へ聞く」
「いいです」
甚内は右手、左手の順に触れた。手首、肘、肩。道庵の脈診とは違い、指を置いてすぐ離す。重さを量るように腕を少し持ち上げ、布団へ戻した。
「右はいつから遠い?」
「昨日から」
「身体が弱いのは?」
「昔から」
「同じ感じか?」
「違います。いつもは身体が重い。今は、軽くて、遠い」
「見えるものは?」
「変わりません」
「聞こえるものは?」
「時々、みんなの声が水の底みたいになります」
甚内は頷き、革袋から細い糸と小さな椀を二つ出した。
椀の一つを千代の枕元、もう一つを部屋の外へ置く。どちらにも水を注ぎ、糸を閾の上へ渡した。
「それで分かるんですか?」
俺は二つの椀を見比べた。
「分かるのではない。分かるために見る」
甚内は灯を少し動かした。千代の影が壁へ伸びる。左肩から頭までは黒い。右腕の影だけが、灯の揺れより遅れて動いた。
俺にも見えた。
「千代」
「動いてないよ」
「影が」
「静かにしろ」
甚内に止められた。
枕元の水面が、細かく震えている。
部屋の外の椀は静かだった。
千代の右肩が薄くなる。
甚内の指が影を追う。触れてはいない。見て、呼吸を数え、二つの水面と糸を交互に確かめる。
「弥吉、おまえは外へ出ろ」
「どうして俺だけ外へ出るんです?」
「見られていると寄るものがある。離れるものもある。現状では判別できん」
「俺は邪魔してませんよ」
「邪魔かどうかを決めるために出ろ」
「弥吉」
千代にも呼ばれた。
「大丈夫。お父っつぁんもお母っつぁんもいる」
俺は甚内を睨んだ。
睨んでも怖くないわけではない。怖いから睨むのだ。
「妙なことをしたら、道庵を呼びますよ」
「医者を脅しに使うな」
甚内は相手にしなかった。
廊下へ出され、戸が閉じる。
壁越しには見えない。
聞こえるのは、甚内が千代へ短い質問をする声だけだ。何をしているか分からない。刃物を出しても、俺には見えない。
宗兵衛さんとお峰さんが一緒だ。大丈夫だ。
そう言い聞かせても、閉じた戸の向こうで何が起きているのか分からない。
俺は廊下の隅へ座り、目を閉じた。
千代の部屋は知っている。
身体は外。意識を内へ置く。
景色が開く。
甚内は千代の右手を持ち上げ、掌を灯へ向けていた。刃物はない。宗兵衛さんは甚内の背後、お峰さんは千代の左側にいる。
俺は息を吐いた。
次の瞬間、甚内がこちらを見た。
目が合った。
そんなはずはない。
俺の意識は空中に姿を持っているわけではない。見える形などない。今まで誰にも気づかれなかった。
甚内は、俺が視点を置いた場所へ正確に顔を向けた。
「そこか」
小さく言う。
俺は視点を動かした。
甚内の目も追った。
「中に意識がある。だが、その主は外にいる」
観測を切った。
廊下へ戻った意識に、足音が近づく。
戸が開き、甚内が俺を見下ろした。
「覗き見の礼儀は教わらなかったか?」
「千代へ何かしないか見てただけです」
「何もしていないのは見えただろう?」
「どうして分かったんです?」
「おまえは、内と外を同時に踏んだ」
「踏んでませんよ。座ってただけです」
「身体はな」
甚内の目に、初めて熱が宿った。
喜びではない。獲物を見る目とも違う。難しい勘定の解き方を見つけた千代に似た目だった。
「場所へ意識を置いて、そこから見るのか?」
「答える義理はないでしょう」
「名で人を追えるか?」
「追えません」
答えてから、しまったと思った。
「壁の向こうは?」
「見えません」
「過去は?」
「見えません」
「嘘を見分けるか?」
「見たものの意味だって分かりません」
本能寺の白い火が浮かぶ。
甚内は俺の顔を見て、質問を止めた。
「役に立つ目だ」
「貸しません」
「まだ借りたいと言っていない」
それが、もっと怖かった。
*
全員が千代の部屋へ戻った。
甚内は椀を片づけず、閾の糸だけを指で弾いた。
「病ではない、と言うつもりはない」
宗兵衛さんが身を乗り出す。
「この娘の弱さと、今起きていることは、おそらく別だ」
「病ではないのか?」
「病かもしれん。薬も間違っていない。ただ、届く身体が半分ここにいない」
「ここにいる。見れば分かる」
俺は、布団の上にある千代の全身を見た。
「見えるものだけが全部なら、部屋に置いたおまえの意識へ俺が気づくこともなかった」
返せなかった。
甚内は千代の影を指す。
「影と椀の揺れが、内と外で揃わん。脈はここにある。だが重さは外へ落ちる」
少し間を置いた。
「娘の一部が、どちらにいるか決めかねている」
「何でそんなことになるんです?」
「原因は判然とせん」
甚内は千代を見る。
「だが、今ある差は分かる。現世の内と外だ」
「その差が分かれば、治せるんですか?」
お峰さんの声が震えた。
甚内はすぐには答えなかった。
「御影には、ものを分ける業がある。正しく見分けられれば、元の所属へ戻せる」
甚内は言葉を継いだ。
「ただし、弱い身体を強くはできん。病も薬なしには消せん」
甚内は千代の右手から目を離さない。
「娘に元から属しているものを、こちらへ戻す。それだけだ」
「外へ引く原因は?」
千代は冷えた右手を胸元へ引き寄せた。
「今は見えん」
「戻せば助かる?」
「今夜は」
「その先は?」
「またずれるかもしれない」
千代は目を閉じた。
怖いはずなのに、泣かなかった。
俺は代わりに泣きそうだった。
「やってください」
「弥吉」
「だって、ほかに」
「あんたが決めることじゃない」
弱い声だったが、きっぱりしていた。
千代は甚内を見た。
「私が頼みます。戻してください」
甚内が頷く。
「分かった」
「代わりに何を?」
甚内は少しだけ口元を緩めた。
「しっかりした娘だ。今は何も取らん」
「今は?」
「まず戻す。話は、生きて朝を迎えてからだ」
その言葉が終わる前に、千代の身体が揺れた。
布団が沈んだのではない。
輪郭が、右側から薄くなる。
今度は肉眼でも見えた。
お峰さんが悲鳴を飲み込み、宗兵衛さんが娘の肩へ手を伸ばす。その手が、そこにあるはずの袖をすり抜けた。
「触るな」
甚内が制した。
俺は立ち上がったが、何をすればいいか分からない。
「弥吉」
甚内の視線が、千代から俺へ移る。
「おまえの目を貸せ」
「何を見れば?」
「この部屋だ。娘がどこまで外へ落ちるか、見たまま言え」
「それで助けられるんですか?」
「俺は境を分ける。おまえは境を見ろ」
逃げたいと思った。
知らないことへ首を突っ込むなと、本能寺で学んだばかりだった。
だが千代の左手が、布団の上を探るように動いた。
俺はその手を取った。
「見る。だから、戻してくれ」
声が震えた。