ホーム臆病者の戦国観測記 ―白い火の本能寺―承 薬の届かないところ
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承 薬の届かないところ

病人を寝かせる時、家の中から余計な音が消える。

 戸を立てる音は小さくなり、足は畳を選び、茶碗を置く指まで慎重になる。

 今世の俺は、それを知っていた。

 千代が熱を出すたび、山崎屋は何度も同じ静けさになった。お峰さんが寝具を整え、宗兵衛さんが落ち着きなく店と奥を往復し、俺が湯を運ぶ。身体は誰に言われなくても手順を覚えている。

 けれど今回は、何をしても、いつもの形へ戻らなかった。

「熱は?」

 お峰さんが千代の額へ手を当てる。

「ない。むしろ冷たいね」

「寒くはないよ」

 布団の中から千代が答えた。

 倒れたあと、すぐ意識は戻った。自分で水も飲んだ。言葉もはっきりしている。右手の冷えだけが残り、時々、声が遠くなる。

 俺が近くで聞いているのに、路地の向こうから話しかけられたように薄くなるのだ。

「粥は?」

「いらない」

「ひと口だけでも」

「食べたら、お母っつぁんが安心する?」

「する」

「じゃあ、三口」

 病人の方が譲った。

 お峰さんは泣きそうな顔を隠すように、薄い粥をよそいに立った。

 宗兵衛さんは医者を呼びに走っている。

 俺は枕元へ座り、千代の右手を布の上から包んだ。温めれば戻るかと思ったが、冷たさは布越しでも分かる。

「見張りすぎ」

「見てないと、また倒れる」

「見ても倒れる時は倒れるよ」

「縁起でもないことを言うな」

「私が言ってるんだからいいでしょ」

「よくない」

 千代は少し笑った。

 その笑いまで途中で遠ざかった。

「千代」

「聞こえてる」

「今、声が」

「私には普通」

 お互い黙る。

 前世の知識を探した。

 脳梗塞。神経。血の巡り。そんな言葉だけは浮かぶ。だが、症状から病名を当てられるほど、前世の俺は医学に詳しくない。右手が冷たい理由も、身体が軽く感じた理由も分からない。

 インターネットも救急車もない。

 知っている単語を並べても、千代は助からない。

「その顔、やめて」

「またか」

「また」

「どういう顔ならいい?」

「薬を煎じる時の顔」

「焦がさないよう必死なやつ?」

「そう。それなら少しは役に立つ」

 言い返す前に、表の戸が強く叩かれた。

 宗兵衛さんが連れてきた町医者の道庵どうあんは、小柄な老人だった。

 店へ来るのは初めてではない。千代の咳が長引いた時も、お峰さんが寝込んだ時も、薬箱を抱えてこの奥へ入った。俺は道を空け、道庵は挨拶も短く枕元へ座った。

「今日はどうした?」

 千代は、布団の中の右手へ目を落とした。

「右の手が遠い」

 道庵の眉が動く。

「痛むか?」

「いいえ」

「痺れは?」

「痺れとは少し違います。触られれば分かるけど、自分の手が向こうにあるような」

「向こうとは、どこだ?」

「それが分からないから困ってます」

 声は弱いが、千代は自分で話した。

 道庵は手首へ指を置いた。目を伏せ、しばらく動かない。反対の手も取る。もう一度、右へ戻る。

「脈がないのか?」

 宗兵衛さんが耐え切れず聞く。

「黙っておれ」

 道庵は低く言い、さらに長く指を置いた。

 千代の呼吸だけが聞こえる。

 やがて道庵は手を離し、顔色と目の動きを確かめ、胸の苦しさ、食べた物、眠り、便通を尋ねた。千代は一つずつ答えた。

「疲れが重なったのだろう。まず身体を休ませる。薬を出す」

「治るんですか?」

 道庵の目が、俺へ移った。

「治すために飲ませる」

 治る、とは言わなかった。

 それでも、できることがあるだけでありがたかった。

 紙へ包まれた薬を受け取り、土鍋で煎じる。火を強くしすぎず、弱くしすぎず、湯気が細く続くところへ炭を寄せる。焦げた本能寺を見てから、火へ顔を近づけるのが嫌になっていた。

 だが、千代が言ったとおり、焦がさないことだけを考えると余計なものは少し遠のいた。

 薬の匂いは、苦さを先に鼻へ入れてくる。

 冷ました椀を持っていくと、千代は自分で起きようとした。

「俺が持つ」

「こぼす」

「病人にまで信用されてないのか?」

「油をこぼす人だから」

 右手は使えず、左手だけで椀を持とうとする。俺が底を支えた。

 一口飲んだ千代の顔が、ひどく歪んだ。

「苦い?」

「おいしい」

「嘘をつけ」

「あんたも飲む?」

「病気じゃないから遠慮する」

「卑怯者」

「知ってる」

 千代は、約束した三口より多く飲んだ。

 その夜まで、俺たちは薬が効くのを待った。

 待つことも手当てのうちなのだと、道庵は言った。

 千代の息は穏やかになった。右手の指も少し動くようになった。お峰さんはようやく横になり、宗兵衛さんも店の板間へ寝た。

 俺だけが眠れなかった。

「あんたも寝なよ」

 千代は目を閉じたまま言った。

「寝てる」

「返事する寝た人がいる?」

「今から寝る」

「そこにいたら、お母っつぁんが休めない」

 言われて、俺は部屋を出た。

 店側の板間へ座り、壁へ背を預ける。千代の部屋は壁と戸の向こうだ。俺が十歳で山崎屋へ来た頃から、何度も出入りしている。梁の位置も、寝具を敷く場所も、戸を開けた時に見える小さな棚も知っていた。

 見に行けば、また千代に追い出される。

 なら、意識だけを部屋へ置けばいい。

 本能寺以来、使わないと決めていた力へ手を伸ばした。

「千代を見るだけだ」

 歴史ではない。

 言い訳をして、目を閉じる。

 意識を、壁の向こうの部屋へ置いた。

 暗い室内が見える。

 灯は落としてある。戸の隙間から入る店側の火が、床へ細い筋を作っていた。寝具が盛り上がり、千代の顔が横を向いている。

 静かな呼吸音。

 俺は安心しかけた。

 千代の右肩が消えた。

 布団は、そこにある。

 身体が下にある形へ沈んでいる。袖も、右手を覆った布も見える。なのに肩から胸へかけてだけ、向こうの畳が透けていた。

 透けたのではない。

 最初から、そこに何もないように見えた。

 呼吸音は続いている。

「千代!」

 声を出した途端、現実の身体の口が動き、観測が揺れた。

 俺は目を開けて立ち上がり、戸へ肩をぶつけながら部屋へ入った。

 千代はいる。

 右肩も、胸もある。寝具の上から触れば、身体の形が分かる。

「何?」

 薄く目を開けた。

「今、消えた」

「誰が?」

「千代が」

「私、ここにいるよ」

「分かってる。でも」

 説明できない。

 千代の左手が、俺の袖を掴んだ。

「弥吉」

「いる」

「違う。あんた、さっきここにいなかったのに、見てたでしょう」

 息が止まった。

「......どうして分かった?」

「それが、私にも分からない」

 千代は自分の右手を見た。

「身体の半分が遠くなると、あんたの目だけが近くにあるのが分かる」

 もう一度、意識を千代の部屋へ置いた。

 今度は、千代の全身が薄くなった。

 寝具の輪郭が透け、畳が見える。呼吸音は耳元にある。左手が俺の袖を掴んでいる感触も、現実の身体には残っている。

 それでも、観測している場所には千代がいなかった。

 俺はすぐに目を戻した。

「お峰さんを起こす」

「せっかく寝たのに」

「道庵も呼ぶ」

「夜中だよ」

「知るか」

「小心者のくせに、こういう時だけ強引」

「小心者だからだよ」

 失うのが怖い。

 それを口にする代わりに、俺は宗兵衛さんを起こした。

*

 道庵は、夜が白む前にもう一度来た。

 脈を取り、千代の顔を見て、冷えた手を両掌で包んだ。薬の包みを見直し、煎じ方を俺へ確かめた。

「間違えてません」

「責めているのではない」

「じゃあ、何が悪いんです?」

 道庵は答えなかった。

 長い沈黙のあと、薬箱の蓋を閉じた。

「わしの見立ての外だ」

 宗兵衛さんの顔から血の気が引く。

「見放すのか?」

「見放すなら、外とは言わん。分からぬものへ、分かった顔で薬を重ねる方が危ない」

 道庵は俺たちを順に見た。

薬種やくしゅの筋に、妙なことを見分ける男がいる。医者ではない。呼べば、余計に怖い話をするかもしれん」

「助かるなら呼んでくれ」

 宗兵衛さんが即座に言った。

 千代は目を閉じたまま、小さく頷いた。

 俺だけが聞いた。

「どんな男です?」

御影みかげという」

 知らない名だった。

 それなのに、背中が冷えた。

 道庵が使いを出し、昼を過ぎた頃、山崎屋の戸口へ一人の男が立った。

 煤けた旅装に、薬包やくほうを入れるには小さすぎる革袋。武士のようにも商人のようにも見えない。年は三十をいくらか越えたほどだろう。目立つ顔ではないのに、一度見たら視線を外しにくかった。

御影甚内みかげじんないだ」

 男は名乗り、俺を見た。

 千代のいる奥を見もしなかった。

「病人を見る前に、話がある」

「誰と?」

「娘が寝具を残して消えた、と言った者だ。おまえだな」

 道庵から聞いたのだと分かっていても、逃げる場所を探した。

 戸口は、甚内の背中に塞がれていた。
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臆病者の戦国観測記 ―白い火の本能寺―作者:ツナマヨ
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病人を寝かせる時、家の中から余計な音が消える。

 戸を立てる音は小さくなり、足は畳を選び、茶碗を置く指まで慎重になる。

 今世の俺は、それを知っていた。

 千代が熱を出すたび、山崎屋は何度も同じ静けさになった。お峰さんが寝具を整え、宗兵衛さんが落ち着きなく店と奥を往復し、俺が湯を運ぶ。身体は誰に言われなくても手順を覚えている。

 けれど今回は、何をしても、いつもの形へ戻らなかった。

「熱は?」

 お峰さんが千代の額へ手を当てる。

「ない。むしろ冷たいね」

「寒くはないよ」

 布団の中から千代が答えた。

 倒れたあと、すぐ意識は戻った。自分で水も飲んだ。言葉もはっきりしている。右手の冷えだけが残り、時々、声が遠くなる。

 俺が近くで聞いているのに、路地の向こうから話しかけられたように薄くなるのだ。

「粥は?」

「いらない」

「ひと口だけでも」

「食べたら、お母っつぁんが安心する?」

「する」

「じゃあ、三口」

 病人の方が譲った。

 お峰さんは泣きそうな顔を隠すように、薄い粥をよそいに立った。

 宗兵衛さんは医者を呼びに走っている。

 俺は枕元へ座り、千代の右手を布の上から包んだ。温めれば戻るかと思ったが、冷たさは布越しでも分かる。

「見張りすぎ」

「見てないと、また倒れる」

「見ても倒れる時は倒れるよ」

「縁起でもないことを言うな」

「私が言ってるんだからいいでしょ」

「よくない」

 千代は少し笑った。

 その笑いまで途中で遠ざかった。

「千代」

「聞こえてる」

「今、声が」

「私には普通」

 お互い黙る。

 前世の知識を探した。

 脳梗塞。神経。血の巡り。そんな言葉だけは浮かぶ。だが、症状から病名を当てられるほど、前世の俺は医学に詳しくない。右手が冷たい理由も、身体が軽く感じた理由も分からない。

 インターネットも救急車もない。

 知っている単語を並べても、千代は助からない。

「その顔、やめて」

「またか」

「また」

「どういう顔ならいい?」

「薬を煎じる時の顔」

「焦がさないよう必死なやつ?」

「そう。それなら少しは役に立つ」

 言い返す前に、表の戸が強く叩かれた。

 宗兵衛さんが連れてきた町医者の道庵どうあんは、小柄な老人だった。

 店へ来るのは初めてではない。千代の咳が長引いた時も、お峰さんが寝込んだ時も、薬箱を抱えてこの奥へ入った。俺は道を空け、道庵は挨拶も短く枕元へ座った。

「今日はどうした?」

 千代は、布団の中の右手へ目を落とした。

「右の手が遠い」

 道庵の眉が動く。

「痛むか?」

「いいえ」

「痺れは?」

「痺れとは少し違います。触られれば分かるけど、自分の手が向こうにあるような」

「向こうとは、どこだ?」

「それが分からないから困ってます」

 声は弱いが、千代は自分で話した。

 道庵は手首へ指を置いた。目を伏せ、しばらく動かない。反対の手も取る。もう一度、右へ戻る。

「脈がないのか?」

 宗兵衛さんが耐え切れず聞く。

「黙っておれ」

 道庵は低く言い、さらに長く指を置いた。

 千代の呼吸だけが聞こえる。

 やがて道庵は手を離し、顔色と目の動きを確かめ、胸の苦しさ、食べた物、眠り、便通を尋ねた。千代は一つずつ答えた。

「疲れが重なったのだろう。まず身体を休ませる。薬を出す」

「治るんですか?」

 道庵の目が、俺へ移った。

「治すために飲ませる」

 治る、とは言わなかった。

 それでも、できることがあるだけでありがたかった。

 紙へ包まれた薬を受け取り、土鍋で煎じる。火を強くしすぎず、弱くしすぎず、湯気が細く続くところへ炭を寄せる。焦げた本能寺を見てから、火へ顔を近づけるのが嫌になっていた。

 だが、千代が言ったとおり、焦がさないことだけを考えると余計なものは少し遠のいた。

 薬の匂いは、苦さを先に鼻へ入れてくる。

 冷ました椀を持っていくと、千代は自分で起きようとした。

「俺が持つ」

「こぼす」

「病人にまで信用されてないのか?」

「油をこぼす人だから」

 右手は使えず、左手だけで椀を持とうとする。俺が底を支えた。

 一口飲んだ千代の顔が、ひどく歪んだ。

「苦い?」

「おいしい」

「嘘をつけ」

「あんたも飲む?」

「病気じゃないから遠慮する」

「卑怯者」

「知ってる」

 千代は、約束した三口より多く飲んだ。

 その夜まで、俺たちは薬が効くのを待った。

 待つことも手当てのうちなのだと、道庵は言った。

 千代の息は穏やかになった。右手の指も少し動くようになった。お峰さんはようやく横になり、宗兵衛さんも店の板間へ寝た。

 俺だけが眠れなかった。

「あんたも寝なよ」

 千代は目を閉じたまま言った。

「寝てる」

「返事する寝た人がいる?」

「今から寝る」

「そこにいたら、お母っつぁんが休めない」

 言われて、俺は部屋を出た。

 店側の板間へ座り、壁へ背を預ける。千代の部屋は壁と戸の向こうだ。俺が十歳で山崎屋へ来た頃から、何度も出入りしている。梁の位置も、寝具を敷く場所も、戸を開けた時に見える小さな棚も知っていた。

 見に行けば、また千代に追い出される。

 なら、意識だけを部屋へ置けばいい。

 本能寺以来、使わないと決めていた力へ手を伸ばした。

「千代を見るだけだ」

 歴史ではない。

 言い訳をして、目を閉じる。

 意識を、壁の向こうの部屋へ置いた。

 暗い室内が見える。

 灯は落としてある。戸の隙間から入る店側の火が、床へ細い筋を作っていた。寝具が盛り上がり、千代の顔が横を向いている。

 静かな呼吸音。

 俺は安心しかけた。

 千代の右肩が消えた。

 布団は、そこにある。

 身体が下にある形へ沈んでいる。袖も、右手を覆った布も見える。なのに肩から胸へかけてだけ、向こうの畳が透けていた。

 透けたのではない。

 最初から、そこに何もないように見えた。

 呼吸音は続いている。

「千代!」

 声を出した途端、現実の身体の口が動き、観測が揺れた。

 俺は目を開けて立ち上がり、戸へ肩をぶつけながら部屋へ入った。

 千代はいる。

 右肩も、胸もある。寝具の上から触れば、身体の形が分かる。

「何?」

 薄く目を開けた。

「今、消えた」

「誰が?」

「千代が」

「私、ここにいるよ」

「分かってる。でも」

 説明できない。

 千代の左手が、俺の袖を掴んだ。

「弥吉」

「いる」

「違う。あんた、さっきここにいなかったのに、見てたでしょう」

 息が止まった。

「......どうして分かった?」

「それが、私にも分からない」

 千代は自分の右手を見た。

「身体の半分が遠くなると、あんたの目だけが近くにあるのが分かる」

 もう一度、意識を千代の部屋へ置いた。

 今度は、千代の全身が薄くなった。

 寝具の輪郭が透け、畳が見える。呼吸音は耳元にある。左手が俺の袖を掴んでいる感触も、現実の身体には残っている。

 それでも、観測している場所には千代がいなかった。

 俺はすぐに目を戻した。

「お峰さんを起こす」

「せっかく寝たのに」

「道庵も呼ぶ」

「夜中だよ」

「知るか」

「小心者のくせに、こういう時だけ強引」

「小心者だからだよ」

 失うのが怖い。

 それを口にする代わりに、俺は宗兵衛さんを起こした。

*

 道庵は、夜が白む前にもう一度来た。

 脈を取り、千代の顔を見て、冷えた手を両掌で包んだ。薬の包みを見直し、煎じ方を俺へ確かめた。

「間違えてません」

「責めているのではない」

「じゃあ、何が悪いんです?」

 道庵は答えなかった。

 長い沈黙のあと、薬箱の蓋を閉じた。

「わしの見立ての外だ」

 宗兵衛さんの顔から血の気が引く。

「見放すのか?」

「見放すなら、外とは言わん。分からぬものへ、分かった顔で薬を重ねる方が危ない」

 道庵は俺たちを順に見た。

薬種やくしゅの筋に、妙なことを見分ける男がいる。医者ではない。呼べば、余計に怖い話をするかもしれん」

「助かるなら呼んでくれ」

 宗兵衛さんが即座に言った。

 千代は目を閉じたまま、小さく頷いた。

 俺だけが聞いた。

「どんな男です?」

御影みかげという」

 知らない名だった。

 それなのに、背中が冷えた。

 道庵が使いを出し、昼を過ぎた頃、山崎屋の戸口へ一人の男が立った。

 煤けた旅装に、薬包やくほうを入れるには小さすぎる革袋。武士のようにも商人のようにも見えない。年は三十をいくらか越えたほどだろう。目立つ顔ではないのに、一度見たら視線を外しにくかった。

御影甚内みかげじんないだ」

 男は名乗り、俺を見た。

 千代のいる奥を見もしなかった。

「病人を見る前に、話がある」

「誰と?」

「娘が寝具を残して消えた、と言った者だ。おまえだな」

 道庵から聞いたのだと分かっていても、逃げる場所を探した。

 戸口は、甚内の背中に塞がれていた。
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