ホーム臆病者の戦国観測記 ―白い火の本能寺―起 千代のいない店
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起 千代のいない店

本能寺が焼けて四日目にも、油は売れた。

 むしろ、よく売れた。

 日が落ちれば町は暗い。夜道が怖いからと火を消してしまえる家ばかりではないし、騒ぎが続く時ほど、戸の内で手元を照らしたい者は多い。だから山崎屋は店の戸を半分だけ外し、残り半分を立てたまま商いをしていた。

 開けたい宗兵衛さんと、閉めたいお峰さんが折り合った結果である。

「火事のあとに油を売るのも、妙な心持ちだな」

 宗兵衛さんが量りの皿を睨みながら言った。

「売らなきゃ、みんな暗いままですよ」

 俺は壺の口を拭いた。荏胡麻油の青い匂いが指へ移る。

「売れば燃える」

「売らなくても火は出ます」

「おまえは口だけ一人前になったな」

「元からですよ」

 俺が言った。

「そうね。口だけは前から立派」

 帳場から千代が言うと、宗兵衛さんは娘の方を見た。

「おまえは休んでいろと言っただろう」

「座ってます」

「帳面を持たずに座れ」

「それは休むんじゃなくて、暇になるだけ」

 千代は膝の上の帳面へ視線を戻した。

 背中に丸めた布を入れ、柱へ寄りかかっている。顔色はいつもより白い。いつも、と比べられる程度には、千代は昔からよく寝込んだ。季節が変わるたび熱を出し、咳が長引き、俺が元気に走り回っていた頃も、一人だけ縁側から見ていることがあった。

 けれど寝床にいる時以外は、弱い者の顔をしたがらない。

「弥吉」

「はい」

「返事だけしてないで、そこの人へ釣りを渡して。二文にもん多い」

 客のてのひらを見ると、なるほど二文多い。

「あ」

「ほらね。私が寝たら、店が痩せる」

「弥吉の給金から引けばいい」

 宗兵衛さんが言い、客まで笑った。

 俺は笑えなかった。

 千代は勘定を間違えない。忘れもしない。なのに、帳面の端を押さえる右手が、さっきから何度も滑っていた。

 風もないのに紙がめくれる。千代が押さえ直す。また指が外れる。

 本人は気づいていないようだった。

 客が帰ると、外の話し声が店の中まで転がり込んだ。

 明智の軍がどうした。上様は生きている。いや、死んだ。御子息も危ない。どこそこの道を兵が通った。

 誰もが別のことを言い、誰もが自分だけは確かな筋から聞いた顔をしている。

 俺は壺の蓋だけを見た。

 本能寺の白い火は、誰にも話していない。

 あれが何だったのかも調べていない。

 目を閉じて本能寺を見れば、何か残っているかもしれない。白い火が消した跡。生き残った誰か。人ではない何か。

 考えるたび、床を這う白さがまぶたの裏へ戻ってくる。

 だから、見なかった。

 本物の歴史は見た。十分だ。俺は油屋の奉公人で、武士でも陰陽師おんみょうじでもない。知らなくていいことへ近づかないのは、臆病ではなく賢さである。

 たぶん。

「また火じゃないものを見てる」

 千代の声に顔を上げた。

「見てない」

「見てない顔じゃない」

「顔で見たかどうか分かるのか?」

「あんたは分かりやすいから」

 言い返そうとして、やめた。

 千代の右手が帳面から落ちていた。

 だらりと畳へ置かれた手を、左手で拾い上げる。まるで自分の手ではないものを動かすような仕草だった。

「千代」

「何?」

「その手」

「痺れただけ」

「いつから?」

「朝から、少し」

「朝から?」

 声が大きくなった。

 千代は嫌そうに眉を寄せる。

「大声を出さないで。お母っつぁんが来る」

「来てもらえ。休め」

「痺れくらいで」

「右手で紙も押さえられてない」

 千代が口を閉じた。

 気づいていなかったのではない。気づかないふりをしていたらしい。

 俺は帳場の前へ膝をつき、右手を取った。

「冷たっ」

 思わず放しかけた。

 左手は、初夏の蒸し暑さに合った温度だった。右手だけが、井戸の底から引き上げた石のように冷たい。手首から先へ血が通っていないのではないかと疑うほどだ。

「痛いか?」

「痛くない」

「何本触ってる?」

 指を二本、掌へ押し当てた。

「二本」

「じゃあ、分かるんだな?」

「分かるよ。遠いだけ」

「遠い?」

 千代は、自分で言った言葉を考えるように目を伏せた。

「右だけ、身体の向こうにあるみたい。触られてるのは分かるけど、ここじゃない感じ」

「なんだ、それ?」

「分からないから、黙ってた」

「分からないことほど言えよ」

「あんたが、その顔をするから嫌」

「どの顔だ?」

「今にも私が死ぬみたいな顔」

 胸の奥を掴まれた。

「しない」

「してる」

「してない」

「してるよ」

 千代はため息をつき、右手を俺から引こうとした。

 引けなかった。

 肩は動いた。袖も揺れた。それなのに、手だけが俺の掌へ置かれたまま、遅れてついてくる。

 一瞬だった。

 見間違いかと思う間に、指が動き、千代は手を胸元へ戻した。

「今の、何だ?」

「何が?」

「手が」

 千代の目が、俺の肩越しへ向いた。

「弥吉」

「おい、千代?」

「お母っつぁんを、呼んで」

 声から力が抜けた。

 立とうとした千代の膝が崩れる。

 俺は帳場へ身を乗り出し、倒れてくる身体を抱えた。細い肩が胸へ当たる。頭を柱へ打たせずに済んだのは、今世の身体が先に動いたからだ。

「お峰さん! 宗兵衛さん、来て!」

 店の奥へ怒鳴る。

 腕の中の千代は目を開けている。息もある。けれど返事をしない。

 抱き上げようとして、ぞっとした。

 軽い。

 病弱で痩せているからではない。熱を出した千代を寝床へ運んだことは、これまでにもある。その時の重さを、腕も腰も覚えている。

 今は、その半分しか抱えていないようだった。

 見れば、ちゃんと全身がある。

 髪も、肩も、冷えた右手も、草履の脱げた足も。

 全部そこに見えるのに、重さだけが足りない。

 お峰さんが駆けてきた。宗兵衛さんが客を押しのける。二人の声が飛び交う中で、俺は千代を抱いたまま動けなかった。

 本能寺の白い火が、頭をよぎる。

 違う。

 あれとは違う。

 白い光もない。煙もない。千代はここにいる。

 それなのに、握った手の奥に、誰もいない場所があった。
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臆病者の戦国観測記 ―白い火の本能寺―作者:ツナマヨ
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本能寺が焼けて四日目にも、油は売れた。

 むしろ、よく売れた。

 日が落ちれば町は暗い。夜道が怖いからと火を消してしまえる家ばかりではないし、騒ぎが続く時ほど、戸の内で手元を照らしたい者は多い。だから山崎屋は店の戸を半分だけ外し、残り半分を立てたまま商いをしていた。

 開けたい宗兵衛さんと、閉めたいお峰さんが折り合った結果である。

「火事のあとに油を売るのも、妙な心持ちだな」

 宗兵衛さんが量りの皿を睨みながら言った。

「売らなきゃ、みんな暗いままですよ」

 俺は壺の口を拭いた。荏胡麻油の青い匂いが指へ移る。

「売れば燃える」

「売らなくても火は出ます」

「おまえは口だけ一人前になったな」

「元からですよ」

 俺が言った。

「そうね。口だけは前から立派」

 帳場から千代が言うと、宗兵衛さんは娘の方を見た。

「おまえは休んでいろと言っただろう」

「座ってます」

「帳面を持たずに座れ」

「それは休むんじゃなくて、暇になるだけ」

 千代は膝の上の帳面へ視線を戻した。

 背中に丸めた布を入れ、柱へ寄りかかっている。顔色はいつもより白い。いつも、と比べられる程度には、千代は昔からよく寝込んだ。季節が変わるたび熱を出し、咳が長引き、俺が元気に走り回っていた頃も、一人だけ縁側から見ていることがあった。

 けれど寝床にいる時以外は、弱い者の顔をしたがらない。

「弥吉」

「はい」

「返事だけしてないで、そこの人へ釣りを渡して。二文にもん多い」

 客のてのひらを見ると、なるほど二文多い。

「あ」

「ほらね。私が寝たら、店が痩せる」

「弥吉の給金から引けばいい」

 宗兵衛さんが言い、客まで笑った。

 俺は笑えなかった。

 千代は勘定を間違えない。忘れもしない。なのに、帳面の端を押さえる右手が、さっきから何度も滑っていた。

 風もないのに紙がめくれる。千代が押さえ直す。また指が外れる。

 本人は気づいていないようだった。

 客が帰ると、外の話し声が店の中まで転がり込んだ。

 明智の軍がどうした。上様は生きている。いや、死んだ。御子息も危ない。どこそこの道を兵が通った。

 誰もが別のことを言い、誰もが自分だけは確かな筋から聞いた顔をしている。

 俺は壺の蓋だけを見た。

 本能寺の白い火は、誰にも話していない。

 あれが何だったのかも調べていない。

 目を閉じて本能寺を見れば、何か残っているかもしれない。白い火が消した跡。生き残った誰か。人ではない何か。

 考えるたび、床を這う白さがまぶたの裏へ戻ってくる。

 だから、見なかった。

 本物の歴史は見た。十分だ。俺は油屋の奉公人で、武士でも陰陽師おんみょうじでもない。知らなくていいことへ近づかないのは、臆病ではなく賢さである。

 たぶん。

「また火じゃないものを見てる」

 千代の声に顔を上げた。

「見てない」

「見てない顔じゃない」

「顔で見たかどうか分かるのか?」

「あんたは分かりやすいから」

 言い返そうとして、やめた。

 千代の右手が帳面から落ちていた。

 だらりと畳へ置かれた手を、左手で拾い上げる。まるで自分の手ではないものを動かすような仕草だった。

「千代」

「何?」

「その手」

「痺れただけ」

「いつから?」

「朝から、少し」

「朝から?」

 声が大きくなった。

 千代は嫌そうに眉を寄せる。

「大声を出さないで。お母っつぁんが来る」

「来てもらえ。休め」

「痺れくらいで」

「右手で紙も押さえられてない」

 千代が口を閉じた。

 気づいていなかったのではない。気づかないふりをしていたらしい。

 俺は帳場の前へ膝をつき、右手を取った。

「冷たっ」

 思わず放しかけた。

 左手は、初夏の蒸し暑さに合った温度だった。右手だけが、井戸の底から引き上げた石のように冷たい。手首から先へ血が通っていないのではないかと疑うほどだ。

「痛いか?」

「痛くない」

「何本触ってる?」

 指を二本、掌へ押し当てた。

「二本」

「じゃあ、分かるんだな?」

「分かるよ。遠いだけ」

「遠い?」

 千代は、自分で言った言葉を考えるように目を伏せた。

「右だけ、身体の向こうにあるみたい。触られてるのは分かるけど、ここじゃない感じ」

「なんだ、それ?」

「分からないから、黙ってた」

「分からないことほど言えよ」

「あんたが、その顔をするから嫌」

「どの顔だ?」

「今にも私が死ぬみたいな顔」

 胸の奥を掴まれた。

「しない」

「してる」

「してない」

「してるよ」

 千代はため息をつき、右手を俺から引こうとした。

 引けなかった。

 肩は動いた。袖も揺れた。それなのに、手だけが俺の掌へ置かれたまま、遅れてついてくる。

 一瞬だった。

 見間違いかと思う間に、指が動き、千代は手を胸元へ戻した。

「今の、何だ?」

「何が?」

「手が」

 千代の目が、俺の肩越しへ向いた。

「弥吉」

「おい、千代?」

「お母っつぁんを、呼んで」

 声から力が抜けた。

 立とうとした千代の膝が崩れる。

 俺は帳場へ身を乗り出し、倒れてくる身体を抱えた。細い肩が胸へ当たる。頭を柱へ打たせずに済んだのは、今世の身体が先に動いたからだ。

「お峰さん! 宗兵衛さん、来て!」

 店の奥へ怒鳴る。

 腕の中の千代は目を開けている。息もある。けれど返事をしない。

 抱き上げようとして、ぞっとした。

 軽い。

 病弱で痩せているからではない。熱を出した千代を寝床へ運んだことは、これまでにもある。その時の重さを、腕も腰も覚えている。

 今は、その半分しか抱えていないようだった。

 見れば、ちゃんと全身がある。

 髪も、肩も、冷えた右手も、草履の脱げた足も。

 全部そこに見えるのに、重さだけが足りない。

 お峰さんが駆けてきた。宗兵衛さんが客を押しのける。二人の声が飛び交う中で、俺は千代を抱いたまま動けなかった。

 本能寺の白い火が、頭をよぎる。

 違う。

 あれとは違う。

 白い光もない。煙もない。千代はここにいる。

 それなのに、握った手の奥に、誰もいない場所があった。
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