ホーム臆病者の戦国観測記 ―白い火の本能寺―始 白い火の本能寺
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始 白い火の本能寺

油は、水より軽い。

 だが、こぼした時の始末は水の比ではなかった。

弥吉やきち手が止まってる」

 言われた瞬間、柄杓ひしゃくの縁から荏胡麻油えごまあぶらがひと筋こぼれた。

「わっ」

「わ、じゃない。布、そこ」

 店先の板へ落ちる前に、俺は左手の古布で受けた。鈍い金色の油が布へ染み、青臭い匂いがむっと立つ。朝から惜しいものを、と帳場ちょうばの千代が眉を寄せた。

「お父っつぁんに見つかったら、小言ひとつじゃ済まないよ」

「分かってる」

「分かってる人は、量りながら暦を睨まない」

 板壁に掛けた暦から、俺は目を逸らした。

 天正十年、六月一日。

 明日だ。

 織田信長が、明智光秀に討たれる。

 本能寺の変が起きる。

 六か月前までなら、俺にとって明日はただの六月二日だった。暑さが増し、油が傷まぬよう壺の口をよく拭き、雨が来そうなら荷へ油紙あぶらがみを掛ける。そういう一日でしかなかった。

 去年の冬、三日三晩の熱から目を覚ますまでは。

 目覚めた俺の中には、十八年分の弥吉の記憶と一緒に、現代日本で生きた、もう一人分の人生があった。

 入れ替わったわけではない。山崎屋やまざきやへ奉公に上がった日の心細さも、初めて大壺を割って宗兵衛そうべえさんに尻を叩かれた痛みも、熱を出した千代の枕元で夜を明かしたことも、今までどおり俺のものだった。

 そこへ、電灯や水道や自動車や、日本史の本を読んだ記憶が加わった。

 おかげで、身体には当たり前だった朝が、頭にとっては何もかも非常識になった。

 夜は暗い。水は重い。火はすぐ家を食う。道の端には馬の落とし物があり、刀を差した男と肩が触れそうになれば、こちらから泥へ降りた方がいい。

 もっとも最後のひとつは、前世があろうとなかろうと、俺は昔からよく知っていた。

「また怖い顔してる」

「油をこぼした俺より、千代の顔の方が怖い」

「じゃあ、もうひと匙こぼしてみる?」

「ごめんなさい」

 即座に謝ると、千代は満足そうに鼻を鳴らした。頬は白く、細い肩へ掛けた単衣ひとえが少し余っている。昔から身体が弱く、季節の変わり目には熱を出す。それでも、座ってできる勘定や小分けなら店の誰より正確だった。誰が前の代をまだ払っていないか、俺が忘れても千代は忘れない。

 店の奥から、宗兵衛さんの太い声が飛んだ。

「弥吉、本能寺へひと壺だ。昼までに持ってけ」

 柄杓を壺へ落としかけた。

「......本能寺?」

「耳まで止まったか。上様がお入りになって、昨日から人が増えてる。向こうの取次から、灯の油が足りんと使いが来た」

 千代が俺を見る。

 俺は、今度こそ一滴もこぼさないよう、両手で柄杓を握った。

 歴史の方から、うちへ注文を寄越してきた。

*

 油壺を担ぐ天秤棒てんびんぼうは、肩の同じ場所ばかりを責める。

 少し前へずらせば首へ食い込み、後ろへずらせば壺が揺れた。細い路地から広い通りへ出るたび、人、荷、牛馬の隙間を読んで歩く。身体は勝手にやってくれる。けれど前世の記憶を取り戻してから、俺は道の真ん中を歩く馬を以前より怖いと思うようになった。

 あんな大きな生き物に、信号も柵もない。

 荷駄にだ口取りくちとりに怒鳴られ、俺はすぐ脇へ寄った。軒先の影で反物たんものを広げる者、桶を担ぐ者、店先で銭を選り分ける者。その間を、二人組の武士がこちらを見もせず通っていく。腰の刀の鞘が天秤棒へ触れそうになり、俺は息を止めた。

 何事もなく過ぎてから、ようやく吐く。

 こんな俺が合戦を見に行こうというのだから、我ながらどうかしている。

 いや、行くつもりはない。そこは大事だ。

 本能寺へ配達はする。だが、明日の明け方、俺の身体は山崎屋の物置に置いておく。

 遠くを見る。

 どうしてそんなことができるのかは、今も分からない。去年の冬に前世を思い出してから、自分に備わった妙な感覚を試すうち、できることとできないことだけは分かってきた。

 俺が見られるのは、今、この時の、場所だ。

 名を念じても人は探せない。知らない場所も見えない。けれど、自分の足で歩き、曲がり角や門の位置まで身体へ入った場所なら、意識をそこへ置き、その地点から見聞きできる。

 本能寺は、よく知っている。

 山崎屋は大山崎おおやまざきから入る油を小分けし、町家や寺へ売っている。本能寺も数ある得意先のひとつで、俺は何年も勝手口へ壺を運んだ。堀の外を回り、取次とりつぎに声を掛け、荷を置く内庭までなら、目を閉じても歩ける。

 北は六角ろっかく、南は蛸薬師たこやくし東は西洞院にしのとういん、西は油小路あぶらのこうじ通りに囲まれた寺域へ近づくにつれ、いつもより人が多くなった。

 門前には供の者や荷が集まり、寺というより城の入口に見える。堀の石垣は、以前からそこにある。だが警固の視線が加わると、同じ石までこちらを見張っているようだった。

「山崎屋、灯の油をお持ちしました」

 取次に声を掛けると、顔なじみの男が慌ただしく手招きした。

「遅い。こっちだ。今日は客が多い」

「これでも飛んできました」

「壺を割らずに飛べるようになったら褒めてやる」

 軽口に救われて門をくぐる。

 勝手口の先では、僧も奉公人も小走りだった。器を運ぶ者、湯を用意する者、客を案内する者。俺は邪魔にならぬよう壁際を進み、決まった置き場へ壺を下ろした。肩から棒を外した瞬間、押されていた骨がじんと脈を打つ。

 その時、内庭の向こうで人の流れが割れた。

 誰も大声で名を呼ばない。だが皆が同じ方へ頭を下げた。

 初夏の明るさの中を、ひとりの男が廊下へ出てくる。遠い。顔までは分からない。白っぽい小袖こそでに、細い身体。周囲の人間が息を合わせて動く、その中心だけが、妙に静かだった。

 織田信長。

 そう思った途端、前世の俺が胸の奥で立ち上がった。

 本物だ。

 桶狭間も、比叡山も、長篠も、安土城も、その身体の向こうにある。写真も映像も残っていない男が、今、俺と同じ日の光を浴びて歩いている。

 一歩、近づきかけた。

 すぐに刀を差した近習きんじゅの横顔がこちらへ向く。

 俺は油壺より素早く頭を下げた。

 危ない。

 何をしている。見るなら遠くからと決めただろう。

 存在の気配を薄くすることはできても、俺は透明ではない。目の前へ出れば見える。ぶつかれば相手はぶつかったと分かる。上様を見たい一心で近習へ突っ込む油屋の奉公人など、どう扱われても文句は言えない。

 空になった壺を担ぎ、俺は来た道を戻った。

 背中へ本能寺の壁を感じながら、明日の夜明け前までは、もう近づかないと誓った。

*

 日が落ちると、山崎屋は油を売る店から、油を火へ変える家になった。

 店の油皿あぶらざら灯心とうしんを浸し、千代が火を移す。小さな炎が一度だけ青く縮み、それから黄色く立った。板壁に俺と千代の影が揺れる。油皿ひとつで照らせる範囲は狭い。そこから外れれば、同じ部屋の隅さえ黒く沈んだ。

 前世では指一本で部屋中が明るくなった。

 思い出してしまえば、この灯の頼りなさは恐ろしい。だが今世の俺は、火を大きくすれば明るさより先に危険が増すことも知っていた。

「芯、出しすぎ」

 帳面から顔も上げずに千代が言う。

 慌てて灯心を戻すと、炎が低くなった。すすの匂いが鼻へ残る。

「今日のあんた、おかしいよ」

「いつもだろ」

「いつもより」

「ひどいな」

 千代は帳面を閉じた。乾いた音が、静かな店に響いた。

「本能寺で何か見た?」

 心臓が跳ねた。

「どうして分かる?」

「帰ってきてから、ずっと西を気にしてる。さっきも火を見ながら、火じゃないものを見てた」

 昔から、千代はこういうところがある。身体は弱いくせに、人の顔色を読む時だけは誰より素早い。

「明け方に、見たいものがある」

 俺は結局、それだけ言った。

「どこで見るの?」

「ここで」

「ここ?」

「外へは出ない。絶対」

 千代は目を細めた。説明になっていないと顔に書いてある。

「夜道へ行くつもりなら、お父っつぁんを起こすよ」

「行かないって。俺がそんな度胸あるように見えるか?」

「ないね」

 即答だった。

「そこまで言い切る?」

「なら安心」

 千代は立ち上がった。急に動いたせいか、二度、小さく咳をする。俺が手を出す前に、自分で帳場へ手をついて息を整えた。

「平気」

「何も言ってない」

「言う顔をした」

 それから彼女は、店の戸板、火の始末、油壺の蓋を順に指差した。

「見たいものを見る前に、こっちを見て。火は落とした? 裏の戸は? 水甕みずがめは満ちてる?」

「はいはい」

「返事は一度」

「はい」

 宗兵衛さんより細かい。

 けれど、ひとつずつ確かめていくうちに、胸の騒ぎは少しだけ収まった。

 明日、天下の形が変わる。

 それでも今夜は、油壺の蓋を閉め、火を落とし、戸を立てなければならない。

 それが俺の人生だった。

*

 鶏が鳴くより前に目が覚めた。

 物置の床は、夜気を吸って冷たかった。俺は畳んだむしろの上へ座り、戸の隙間に耳を澄ます。家の中は眠っている。遠くで犬が一度吠え、それきりになった。

 今だろうか。

 正確な時刻までは覚えていない。未明。早朝。夜明け前。その程度だ。

 天正十年六月二日だけは、間違いない。

「ちょっとだけだ」

 誰にともなく言う。

「危なくなったら、すぐ止める」

 俺の身体はここにある。兵が来ても、刀が届いても、それは本能寺の話だ。

 そう言い聞かせ、目を閉じた。

 意識を、西へ置く。

 何度も通った油小路。蛸薬師から本能寺の外壁を見上げる場所。堀の石組み。門へ続く道。

 暗闇の中で、別の景色が開いた。

 最初に聞こえたのは足音だった。

 ひとつではない。乾いた土を踏む草鞋わらじの音、甲冑かっちゅう小札こざねが擦れる音、抑えられた馬の鼻息。夜の通りを埋めるほどの人間が、声を殺して動いている。

 旗は暗くて読めない。俺は視点を通り沿いへ滑らせた。動かせるのは、本能寺を中心にしたこの一帯だけだ。兵の列を遡って光秀を探すことはできない。そもそも顔を知らない男を、名だけで見つけられるはずもなかった。

 壁の向こうも見えない。

 だから、門と路地と、兵の動きを追う。

 槍の穂が、わずかな空の明るさを返した。列の一部が西へ、一部が北へ回る。誰かが短く命じたが、他の足音に潰れて聞き取れない。

 本当に来た。

 明智光秀だ。

 胸が熱くなった。

 教科書の一行が、足音を立てている。

 次の瞬間、門の方で誰何すいかする声が上がった。

 返事は聞こえなかった。

 代わりに、鉄砲が鳴った。

 視界が白く弾け、少し遅れて腹へ響くような音が来る。もちろん、音が届いたのは本能寺へ置いた意識だけだ。物置の俺の身体へ衝撃は届かない。

 それでも肩が跳ねた。

 怒号。駆け出す足音。門前で人がぶつかり、倒れ、後ろから来た者が乗り越える。歴史絵巻の整った軍列など、どこにもなかった。

「待て」

 俺は誰にも届かない声を出した。

 歴史通りだ。

 これだ。これが本能寺の変だ。

 そのはずなのに。

 門脇で倒れた男が喉を押さえ、指の間から血を溢れさせるのを見た途端、胸の熱が冷えた。

 これは、知っている話ではない。

 今、人が死んだ。

*

 一度、観測を切った。

 物置の暗闇が戻る。俺は膝に手を置き、息を整えようとした。

 止めろ。

 もう十分だ。襲撃は始まった。史実通り、明智勢が本能寺を囲んだ。それを見たかったのだろう。なら、見た。

 ここで終わればいい。

 けれど、目を閉じたままの頭に、別の声がした。

 信長の最期は。

 本当に、どうだった。

 怖い。見たくない。

 それでも、本物の歴史は見たい。

「馬鹿だな、俺」

 今度は、内庭を思う。

 勝手口を入り、油壺を下ろす場所。井戸。低い庇。廊下へ上がる段。昨日、信長らしい男を見た向こう側。

 景色が切り替わった。

 内庭には、すでに兵が入り込んでいた。

 開いた戸から、寺の者が飛び出してくる。裸足の男が庭で転び、その横を槍を持った若者が逆に奥へ走った。弓弦ゆみづるが鳴る。矢がひさしへ突き立つ。鉄砲の音は壁に挟まれて、外より鋭く耳を刺した。

 視点を廊下沿いへ動かす。

 壁の中は見えない。閉じた戸の向こうも分からない。開いた場所から開いた場所へ、俺は目だけを這わせた。

 人がひとり、廊下へ倒れた。

 足が血を踏み、滑る。

 誰かが何か叫んだ。名か、命令か、助けを求めたのか。銃声と材木の割れる音に埋もれ、意味にならない。

 奥の廊下に、弓を持つ男がいた。

 昼に見た白っぽい小袖は、片袖が赤く濡れている。近習たちが男の前へ出ようとし、男はそれを押し退けるように弓を引いた。放たれた矢の先は、柱に隠れて見えなかった。

 顔は煙と距離で分からない。

 だが、周りの人間の動きが、その男を中心にしていた。

「信長......」

 俺の声は、物置の闇にしか落ちない。

 男が弓を捨てた。近くの者から長い武器を取る。敵が廊下へ上がる。二人、三人がぶつかり、噛み合った刃が火花を散らした。

 信長は魔王だった、という呼び名を前世の俺は知っている。

 だが目の前にいるのは、血を流し、息を切らし、槍を振るひとりの人間だった。

 その男が奥へ退く。

 近習が戸を閉じようとする。別の場所から炎が上がった。

 最初は普通の火だった。

 赤く揺れ、黒い煙を吐き、乾いた木へ舌を伸ばす。油皿の火を毎晩見ている俺には分かる。大きさは違っても、同じ火だ。

 煙が廊下を隠していく。

 もう見えない。

 終わりだ。

 そう思った時、奥の戸が、炎の向こうで半ば開いた。

 白いものが見えた。

*

 火、だと思った。

 だが、それは揺れなかった。

 白い光が、細い水のように床を這っている。上へ燃え移らず、煙も出さない。周囲では赤い火が柱を舐め、はりから火の粉を落としているのに、その白だけは風とも熱とも別の決まりで動いていた。

 床に落ちた血の縁へ触れる。

 血が乾くのではなく、色を失った。

 白い火が奥へ伸びる。

 人の脚が見えた。

 座っているのか、倒れているのか分からない。白い小袖の裾。その手前に、折れた弓。昼に見た男と同じだと、頭が勝手に結びつけた。

 呼びかける声がした気がした。

 だが赤い火の爆ぜる音と、外の怒号が重なり、言葉にはならなかった。

 白い火が小袖へ触れた。

 燃え上がらない。

 輪郭が、薄くなった。

 布も、手も、その向こうの床も、白い光へ溶けるように見えなくなる。灰が舞わない。煙が増えない。ただ、そこにあったものだけが欠けていく。

 前世の記憶が、遅れてひとつ浮かんだ。

 信長の遺体は、見つからなかった。

 そういう話を、読んだことがある。

 どの史料だったか。どこまで確かなのか。覚えていない。首を持ち去ったという伝説も、誰かが埋めたという説もあった気がする。

 でも、もし。

 見つからなかったのではなく。

 残らなかったのだとしたら。

「......そっちは、教科書に載ってない」

 声が震えた。

 白い火が、奥の戸口を越えて廊下へ一本伸びた。

 俺の目はそこにない。身体は遠い山崎屋にある。分かっている。触れられるはずがない。

 それでも俺は逃げた。

 観測を、叩き切るように止めた。

*

「弥吉」

 肩を掴まれた。

 喉から声が漏れ、俺は筵の上で転びかけた。

「しっ。みんな起きる」

 千代だった。

 物置の闇の中、寝間着ねまきの上へ薄いものを羽織っている。いつからいたのか分からない。

「な、なんで?」

「外がうるさいから起きた。あんたを呼んでも返事がないから、見に来た」

 観測している間、身体の周りへ注意が回らなくなる。知っていたことなのに、肩へ手を置かれるまで気づかなかった。

 安全な場所から見ている。

 その言葉の、安全が急に薄くなる。

「何を見てたの?」

 答えられなかった。

 千代の手が俺の額へ触れる。

「熱はない。でも、ひどい顔」

 その手は温かかった。

 白い火が触れたものは、色も灰も残さなかった。

 俺は反射的に千代の手首を掴んだ。

「ちょっと、痛い」

「あ、ごめん」

 すぐ放す。千代は怒る代わりに、暗がりで俺をじっと見た。

 遠くで、誰かが火事だと叫んだ。

 今度は俺にも、現実の耳で聞こえた。

「西だ」

 俺は立ち上がった。膝が一度ふらつく。

「本能寺が燃えてる」

「見たの?」

「......見た」

 千代は、それ以上を聞かなかった。

 代わりに物置の油壺を見回した。

「お父っつぁんを起こす。油は奥へ寄せる。水甕を確かめて。火がこっちへ来るかもしれない」

 その声に迷いはなかった。

「弥吉」

「分かってる」

「分かってる人は動く」

 朝と同じことを言われた。

 俺は物置を飛び出した。

 宗兵衛さんとお峰さんを起こし、戸を開け、近所の様子を確かめる。井戸へ走り、水桶を満たす。往復するうち、肩へ食い込む重さが、遠くへ行っていた俺の意識を身体へ引き戻した。

 水は重い。

 油は燃える。

 千代は生きている。

 今は、それでよかった。

*

 夜が明ける頃には、町の噂は煙より速く流れていた。

 明智日向守あけちひゅうがのかみ謀反むほんした。

 上様は本能寺を脱した。

 いや、お果てになった。

 御子息のいる妙覚寺みょうかくじも危ない。

 裏切った者はほかにもいる。

 誰かが持ち込む話を、次の誰かが別の形で持ち出していく。宗兵衛さんは店を閉めるか開けるかで迷い、結局、半分だけ戸を開けた。油が要る家もある。火が怖くて油どころではない家もある。

 千代は帳場に座り、近所へ回す水桶と、持ち出せる銭と、奥へ寄せた壺の数を確かめていた。

「千代、休んでろ」

 お峰さんに言われると、千代は一度だけ咳をしてから首を振った。

「座ってる方が楽。それに弥吉へ任せたら、壺が一つ減る」

「今朝の一滴をまだ言うか?」

「一滴で済んだのは、誰のおかげ?」

「千代さまのおかげです」

 いつものやり取りだった。

 それがありがたかった。

 俺は空の水桶を持って外へ出た。

 西の空へ、黒い煙が上がっている。あの下で何人が死んだのか、俺は知らない。光秀がどこにいたかも、何を思っていたかも分からない。信長が最後に何を言ったかも聞き取れなかった。

 見たのに、分からないことばかりだった。

 ただ、白い火だけは覚えている。

 後世の本には、本能寺が燃え、信長が死んだと書かれる。

 それは間違っていない。

 間違っていないが、全部でもない。

 たった一行の歴史の中に、油の匂いがあり、鉄砲の音があり、喉から血を流す名も知らない男がいた。記録に残らない火が、記録に残らない何かを焼いた。

 そして、その朝にも、俺は水を汲んでいる。

 井戸端にはすでに何人も並んでいた。皆、煙を気にしながら、自分の家の桶を手放さない。

 俺も列の最後へついた。

 本物の歴史を見たかった。

 見た。

 だからもう、面白半分では見ない。

 二度と見ない、とまでは言えなかった。そこまで自分を信じられるほど、俺は強くも立派でもない。

 ただ次に目を閉じる時は、逃げる場所を先に確かめようと思う。

「弥吉! 順が来たよ!」

 店先から千代の声が飛ぶ。

「今行く!」

 俺は桶を両手で持ち上げた。

 歴史の一行より、ずっと重かった。

 あの朝は、歴史から逃げれば日常へ帰れるのだと思っていた。
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臆病者の戦国観測記 ―白い火の本能寺―作者:ツナマヨ
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始 白い火の本能寺

油は、水より軽い。

 だが、こぼした時の始末は水の比ではなかった。

弥吉やきち手が止まってる」

 言われた瞬間、柄杓ひしゃくの縁から荏胡麻油えごまあぶらがひと筋こぼれた。

「わっ」

「わ、じゃない。布、そこ」

 店先の板へ落ちる前に、俺は左手の古布で受けた。鈍い金色の油が布へ染み、青臭い匂いがむっと立つ。朝から惜しいものを、と帳場ちょうばの千代が眉を寄せた。

「お父っつぁんに見つかったら、小言ひとつじゃ済まないよ」

「分かってる」

「分かってる人は、量りながら暦を睨まない」

 板壁に掛けた暦から、俺は目を逸らした。

 天正十年、六月一日。

 明日だ。

 織田信長が、明智光秀に討たれる。

 本能寺の変が起きる。

 六か月前までなら、俺にとって明日はただの六月二日だった。暑さが増し、油が傷まぬよう壺の口をよく拭き、雨が来そうなら荷へ油紙あぶらがみを掛ける。そういう一日でしかなかった。

 去年の冬、三日三晩の熱から目を覚ますまでは。

 目覚めた俺の中には、十八年分の弥吉の記憶と一緒に、現代日本で生きた、もう一人分の人生があった。

 入れ替わったわけではない。山崎屋やまざきやへ奉公に上がった日の心細さも、初めて大壺を割って宗兵衛そうべえさんに尻を叩かれた痛みも、熱を出した千代の枕元で夜を明かしたことも、今までどおり俺のものだった。

 そこへ、電灯や水道や自動車や、日本史の本を読んだ記憶が加わった。

 おかげで、身体には当たり前だった朝が、頭にとっては何もかも非常識になった。

 夜は暗い。水は重い。火はすぐ家を食う。道の端には馬の落とし物があり、刀を差した男と肩が触れそうになれば、こちらから泥へ降りた方がいい。

 もっとも最後のひとつは、前世があろうとなかろうと、俺は昔からよく知っていた。

「また怖い顔してる」

「油をこぼした俺より、千代の顔の方が怖い」

「じゃあ、もうひと匙こぼしてみる?」

「ごめんなさい」

 即座に謝ると、千代は満足そうに鼻を鳴らした。頬は白く、細い肩へ掛けた単衣ひとえが少し余っている。昔から身体が弱く、季節の変わり目には熱を出す。それでも、座ってできる勘定や小分けなら店の誰より正確だった。誰が前の代をまだ払っていないか、俺が忘れても千代は忘れない。

 店の奥から、宗兵衛さんの太い声が飛んだ。

「弥吉、本能寺へひと壺だ。昼までに持ってけ」

 柄杓を壺へ落としかけた。

「......本能寺?」

「耳まで止まったか。上様がお入りになって、昨日から人が増えてる。向こうの取次から、灯の油が足りんと使いが来た」

 千代が俺を見る。

 俺は、今度こそ一滴もこぼさないよう、両手で柄杓を握った。

 歴史の方から、うちへ注文を寄越してきた。

*

 油壺を担ぐ天秤棒てんびんぼうは、肩の同じ場所ばかりを責める。

 少し前へずらせば首へ食い込み、後ろへずらせば壺が揺れた。細い路地から広い通りへ出るたび、人、荷、牛馬の隙間を読んで歩く。身体は勝手にやってくれる。けれど前世の記憶を取り戻してから、俺は道の真ん中を歩く馬を以前より怖いと思うようになった。

 あんな大きな生き物に、信号も柵もない。

 荷駄にだ口取りくちとりに怒鳴られ、俺はすぐ脇へ寄った。軒先の影で反物たんものを広げる者、桶を担ぐ者、店先で銭を選り分ける者。その間を、二人組の武士がこちらを見もせず通っていく。腰の刀の鞘が天秤棒へ触れそうになり、俺は息を止めた。

 何事もなく過ぎてから、ようやく吐く。

 こんな俺が合戦を見に行こうというのだから、我ながらどうかしている。

 いや、行くつもりはない。そこは大事だ。

 本能寺へ配達はする。だが、明日の明け方、俺の身体は山崎屋の物置に置いておく。

 遠くを見る。

 どうしてそんなことができるのかは、今も分からない。去年の冬に前世を思い出してから、自分に備わった妙な感覚を試すうち、できることとできないことだけは分かってきた。

 俺が見られるのは、今、この時の、場所だ。

 名を念じても人は探せない。知らない場所も見えない。けれど、自分の足で歩き、曲がり角や門の位置まで身体へ入った場所なら、意識をそこへ置き、その地点から見聞きできる。

 本能寺は、よく知っている。

 山崎屋は大山崎おおやまざきから入る油を小分けし、町家や寺へ売っている。本能寺も数ある得意先のひとつで、俺は何年も勝手口へ壺を運んだ。堀の外を回り、取次とりつぎに声を掛け、荷を置く内庭までなら、目を閉じても歩ける。

 北は六角ろっかく、南は蛸薬師たこやくし東は西洞院にしのとういん、西は油小路あぶらのこうじ通りに囲まれた寺域へ近づくにつれ、いつもより人が多くなった。

 門前には供の者や荷が集まり、寺というより城の入口に見える。堀の石垣は、以前からそこにある。だが警固の視線が加わると、同じ石までこちらを見張っているようだった。

「山崎屋、灯の油をお持ちしました」

 取次に声を掛けると、顔なじみの男が慌ただしく手招きした。

「遅い。こっちだ。今日は客が多い」

「これでも飛んできました」

「壺を割らずに飛べるようになったら褒めてやる」

 軽口に救われて門をくぐる。

 勝手口の先では、僧も奉公人も小走りだった。器を運ぶ者、湯を用意する者、客を案内する者。俺は邪魔にならぬよう壁際を進み、決まった置き場へ壺を下ろした。肩から棒を外した瞬間、押されていた骨がじんと脈を打つ。

 その時、内庭の向こうで人の流れが割れた。

 誰も大声で名を呼ばない。だが皆が同じ方へ頭を下げた。

 初夏の明るさの中を、ひとりの男が廊下へ出てくる。遠い。顔までは分からない。白っぽい小袖こそでに、細い身体。周囲の人間が息を合わせて動く、その中心だけが、妙に静かだった。

 織田信長。

 そう思った途端、前世の俺が胸の奥で立ち上がった。

 本物だ。

 桶狭間も、比叡山も、長篠も、安土城も、その身体の向こうにある。写真も映像も残っていない男が、今、俺と同じ日の光を浴びて歩いている。

 一歩、近づきかけた。

 すぐに刀を差した近習きんじゅの横顔がこちらへ向く。

 俺は油壺より素早く頭を下げた。

 危ない。

 何をしている。見るなら遠くからと決めただろう。

 存在の気配を薄くすることはできても、俺は透明ではない。目の前へ出れば見える。ぶつかれば相手はぶつかったと分かる。上様を見たい一心で近習へ突っ込む油屋の奉公人など、どう扱われても文句は言えない。

 空になった壺を担ぎ、俺は来た道を戻った。

 背中へ本能寺の壁を感じながら、明日の夜明け前までは、もう近づかないと誓った。

*

 日が落ちると、山崎屋は油を売る店から、油を火へ変える家になった。

 店の油皿あぶらざら灯心とうしんを浸し、千代が火を移す。小さな炎が一度だけ青く縮み、それから黄色く立った。板壁に俺と千代の影が揺れる。油皿ひとつで照らせる範囲は狭い。そこから外れれば、同じ部屋の隅さえ黒く沈んだ。

 前世では指一本で部屋中が明るくなった。

 思い出してしまえば、この灯の頼りなさは恐ろしい。だが今世の俺は、火を大きくすれば明るさより先に危険が増すことも知っていた。

「芯、出しすぎ」

 帳面から顔も上げずに千代が言う。

 慌てて灯心を戻すと、炎が低くなった。すすの匂いが鼻へ残る。

「今日のあんた、おかしいよ」

「いつもだろ」

「いつもより」

「ひどいな」

 千代は帳面を閉じた。乾いた音が、静かな店に響いた。

「本能寺で何か見た?」

 心臓が跳ねた。

「どうして分かる?」

「帰ってきてから、ずっと西を気にしてる。さっきも火を見ながら、火じゃないものを見てた」

 昔から、千代はこういうところがある。身体は弱いくせに、人の顔色を読む時だけは誰より素早い。

「明け方に、見たいものがある」

 俺は結局、それだけ言った。

「どこで見るの?」

「ここで」

「ここ?」

「外へは出ない。絶対」

 千代は目を細めた。説明になっていないと顔に書いてある。

「夜道へ行くつもりなら、お父っつぁんを起こすよ」

「行かないって。俺がそんな度胸あるように見えるか?」

「ないね」

 即答だった。

「そこまで言い切る?」

「なら安心」

 千代は立ち上がった。急に動いたせいか、二度、小さく咳をする。俺が手を出す前に、自分で帳場へ手をついて息を整えた。

「平気」

「何も言ってない」

「言う顔をした」

 それから彼女は、店の戸板、火の始末、油壺の蓋を順に指差した。

「見たいものを見る前に、こっちを見て。火は落とした? 裏の戸は? 水甕みずがめは満ちてる?」

「はいはい」

「返事は一度」

「はい」

 宗兵衛さんより細かい。

 けれど、ひとつずつ確かめていくうちに、胸の騒ぎは少しだけ収まった。

 明日、天下の形が変わる。

 それでも今夜は、油壺の蓋を閉め、火を落とし、戸を立てなければならない。

 それが俺の人生だった。

*

 鶏が鳴くより前に目が覚めた。

 物置の床は、夜気を吸って冷たかった。俺は畳んだむしろの上へ座り、戸の隙間に耳を澄ます。家の中は眠っている。遠くで犬が一度吠え、それきりになった。

 今だろうか。

 正確な時刻までは覚えていない。未明。早朝。夜明け前。その程度だ。

 天正十年六月二日だけは、間違いない。

「ちょっとだけだ」

 誰にともなく言う。

「危なくなったら、すぐ止める」

 俺の身体はここにある。兵が来ても、刀が届いても、それは本能寺の話だ。

 そう言い聞かせ、目を閉じた。

 意識を、西へ置く。

 何度も通った油小路。蛸薬師から本能寺の外壁を見上げる場所。堀の石組み。門へ続く道。

 暗闇の中で、別の景色が開いた。

 最初に聞こえたのは足音だった。

 ひとつではない。乾いた土を踏む草鞋わらじの音、甲冑かっちゅう小札こざねが擦れる音、抑えられた馬の鼻息。夜の通りを埋めるほどの人間が、声を殺して動いている。

 旗は暗くて読めない。俺は視点を通り沿いへ滑らせた。動かせるのは、本能寺を中心にしたこの一帯だけだ。兵の列を遡って光秀を探すことはできない。そもそも顔を知らない男を、名だけで見つけられるはずもなかった。

 壁の向こうも見えない。

 だから、門と路地と、兵の動きを追う。

 槍の穂が、わずかな空の明るさを返した。列の一部が西へ、一部が北へ回る。誰かが短く命じたが、他の足音に潰れて聞き取れない。

 本当に来た。

 明智光秀だ。

 胸が熱くなった。

 教科書の一行が、足音を立てている。

 次の瞬間、門の方で誰何すいかする声が上がった。

 返事は聞こえなかった。

 代わりに、鉄砲が鳴った。

 視界が白く弾け、少し遅れて腹へ響くような音が来る。もちろん、音が届いたのは本能寺へ置いた意識だけだ。物置の俺の身体へ衝撃は届かない。

 それでも肩が跳ねた。

 怒号。駆け出す足音。門前で人がぶつかり、倒れ、後ろから来た者が乗り越える。歴史絵巻の整った軍列など、どこにもなかった。

「待て」

 俺は誰にも届かない声を出した。

 歴史通りだ。

 これだ。これが本能寺の変だ。

 そのはずなのに。

 門脇で倒れた男が喉を押さえ、指の間から血を溢れさせるのを見た途端、胸の熱が冷えた。

 これは、知っている話ではない。

 今、人が死んだ。

*

 一度、観測を切った。

 物置の暗闇が戻る。俺は膝に手を置き、息を整えようとした。

 止めろ。

 もう十分だ。襲撃は始まった。史実通り、明智勢が本能寺を囲んだ。それを見たかったのだろう。なら、見た。

 ここで終わればいい。

 けれど、目を閉じたままの頭に、別の声がした。

 信長の最期は。

 本当に、どうだった。

 怖い。見たくない。

 それでも、本物の歴史は見たい。

「馬鹿だな、俺」

 今度は、内庭を思う。

 勝手口を入り、油壺を下ろす場所。井戸。低い庇。廊下へ上がる段。昨日、信長らしい男を見た向こう側。

 景色が切り替わった。

 内庭には、すでに兵が入り込んでいた。

 開いた戸から、寺の者が飛び出してくる。裸足の男が庭で転び、その横を槍を持った若者が逆に奥へ走った。弓弦ゆみづるが鳴る。矢がひさしへ突き立つ。鉄砲の音は壁に挟まれて、外より鋭く耳を刺した。

 視点を廊下沿いへ動かす。

 壁の中は見えない。閉じた戸の向こうも分からない。開いた場所から開いた場所へ、俺は目だけを這わせた。

 人がひとり、廊下へ倒れた。

 足が血を踏み、滑る。

 誰かが何か叫んだ。名か、命令か、助けを求めたのか。銃声と材木の割れる音に埋もれ、意味にならない。

 奥の廊下に、弓を持つ男がいた。

 昼に見た白っぽい小袖は、片袖が赤く濡れている。近習たちが男の前へ出ようとし、男はそれを押し退けるように弓を引いた。放たれた矢の先は、柱に隠れて見えなかった。

 顔は煙と距離で分からない。

 だが、周りの人間の動きが、その男を中心にしていた。

「信長......」

 俺の声は、物置の闇にしか落ちない。

 男が弓を捨てた。近くの者から長い武器を取る。敵が廊下へ上がる。二人、三人がぶつかり、噛み合った刃が火花を散らした。

 信長は魔王だった、という呼び名を前世の俺は知っている。

 だが目の前にいるのは、血を流し、息を切らし、槍を振るひとりの人間だった。

 その男が奥へ退く。

 近習が戸を閉じようとする。別の場所から炎が上がった。

 最初は普通の火だった。

 赤く揺れ、黒い煙を吐き、乾いた木へ舌を伸ばす。油皿の火を毎晩見ている俺には分かる。大きさは違っても、同じ火だ。

 煙が廊下を隠していく。

 もう見えない。

 終わりだ。

 そう思った時、奥の戸が、炎の向こうで半ば開いた。

 白いものが見えた。

*

 火、だと思った。

 だが、それは揺れなかった。

 白い光が、細い水のように床を這っている。上へ燃え移らず、煙も出さない。周囲では赤い火が柱を舐め、はりから火の粉を落としているのに、その白だけは風とも熱とも別の決まりで動いていた。

 床に落ちた血の縁へ触れる。

 血が乾くのではなく、色を失った。

 白い火が奥へ伸びる。

 人の脚が見えた。

 座っているのか、倒れているのか分からない。白い小袖の裾。その手前に、折れた弓。昼に見た男と同じだと、頭が勝手に結びつけた。

 呼びかける声がした気がした。

 だが赤い火の爆ぜる音と、外の怒号が重なり、言葉にはならなかった。

 白い火が小袖へ触れた。

 燃え上がらない。

 輪郭が、薄くなった。

 布も、手も、その向こうの床も、白い光へ溶けるように見えなくなる。灰が舞わない。煙が増えない。ただ、そこにあったものだけが欠けていく。

 前世の記憶が、遅れてひとつ浮かんだ。

 信長の遺体は、見つからなかった。

 そういう話を、読んだことがある。

 どの史料だったか。どこまで確かなのか。覚えていない。首を持ち去ったという伝説も、誰かが埋めたという説もあった気がする。

 でも、もし。

 見つからなかったのではなく。

 残らなかったのだとしたら。

「......そっちは、教科書に載ってない」

 声が震えた。

 白い火が、奥の戸口を越えて廊下へ一本伸びた。

 俺の目はそこにない。身体は遠い山崎屋にある。分かっている。触れられるはずがない。

 それでも俺は逃げた。

 観測を、叩き切るように止めた。

*

「弥吉」

 肩を掴まれた。

 喉から声が漏れ、俺は筵の上で転びかけた。

「しっ。みんな起きる」

 千代だった。

 物置の闇の中、寝間着ねまきの上へ薄いものを羽織っている。いつからいたのか分からない。

「な、なんで?」

「外がうるさいから起きた。あんたを呼んでも返事がないから、見に来た」

 観測している間、身体の周りへ注意が回らなくなる。知っていたことなのに、肩へ手を置かれるまで気づかなかった。

 安全な場所から見ている。

 その言葉の、安全が急に薄くなる。

「何を見てたの?」

 答えられなかった。

 千代の手が俺の額へ触れる。

「熱はない。でも、ひどい顔」

 その手は温かかった。

 白い火が触れたものは、色も灰も残さなかった。

 俺は反射的に千代の手首を掴んだ。

「ちょっと、痛い」

「あ、ごめん」

 すぐ放す。千代は怒る代わりに、暗がりで俺をじっと見た。

 遠くで、誰かが火事だと叫んだ。

 今度は俺にも、現実の耳で聞こえた。

「西だ」

 俺は立ち上がった。膝が一度ふらつく。

「本能寺が燃えてる」

「見たの?」

「......見た」

 千代は、それ以上を聞かなかった。

 代わりに物置の油壺を見回した。

「お父っつぁんを起こす。油は奥へ寄せる。水甕を確かめて。火がこっちへ来るかもしれない」

 その声に迷いはなかった。

「弥吉」

「分かってる」

「分かってる人は動く」

 朝と同じことを言われた。

 俺は物置を飛び出した。

 宗兵衛さんとお峰さんを起こし、戸を開け、近所の様子を確かめる。井戸へ走り、水桶を満たす。往復するうち、肩へ食い込む重さが、遠くへ行っていた俺の意識を身体へ引き戻した。

 水は重い。

 油は燃える。

 千代は生きている。

 今は、それでよかった。

*

 夜が明ける頃には、町の噂は煙より速く流れていた。

 明智日向守あけちひゅうがのかみ謀反むほんした。

 上様は本能寺を脱した。

 いや、お果てになった。

 御子息のいる妙覚寺みょうかくじも危ない。

 裏切った者はほかにもいる。

 誰かが持ち込む話を、次の誰かが別の形で持ち出していく。宗兵衛さんは店を閉めるか開けるかで迷い、結局、半分だけ戸を開けた。油が要る家もある。火が怖くて油どころではない家もある。

 千代は帳場に座り、近所へ回す水桶と、持ち出せる銭と、奥へ寄せた壺の数を確かめていた。

「千代、休んでろ」

 お峰さんに言われると、千代は一度だけ咳をしてから首を振った。

「座ってる方が楽。それに弥吉へ任せたら、壺が一つ減る」

「今朝の一滴をまだ言うか?」

「一滴で済んだのは、誰のおかげ?」

「千代さまのおかげです」

 いつものやり取りだった。

 それがありがたかった。

 俺は空の水桶を持って外へ出た。

 西の空へ、黒い煙が上がっている。あの下で何人が死んだのか、俺は知らない。光秀がどこにいたかも、何を思っていたかも分からない。信長が最後に何を言ったかも聞き取れなかった。

 見たのに、分からないことばかりだった。

 ただ、白い火だけは覚えている。

 後世の本には、本能寺が燃え、信長が死んだと書かれる。

 それは間違っていない。

 間違っていないが、全部でもない。

 たった一行の歴史の中に、油の匂いがあり、鉄砲の音があり、喉から血を流す名も知らない男がいた。記録に残らない火が、記録に残らない何かを焼いた。

 そして、その朝にも、俺は水を汲んでいる。

 井戸端にはすでに何人も並んでいた。皆、煙を気にしながら、自分の家の桶を手放さない。

 俺も列の最後へついた。

 本物の歴史を見たかった。

 見た。

 だからもう、面白半分では見ない。

 二度と見ない、とまでは言えなかった。そこまで自分を信じられるほど、俺は強くも立派でもない。

 ただ次に目を閉じる時は、逃げる場所を先に確かめようと思う。

「弥吉! 順が来たよ!」

 店先から千代の声が飛ぶ。

「今行く!」

 俺は桶を両手で持ち上げた。

 歴史の一行より、ずっと重かった。

 あの朝は、歴史から逃げれば日常へ帰れるのだと思っていた。
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臆病者の戦国観測記 ―白い火の本能寺―作者:ツナマヨ
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