始 白い火の本能寺
油は、水より軽い。
だが、こぼした時の始末は水の比ではなかった。
「弥吉。手が止まってる」
言われた瞬間、柄杓の縁から荏胡麻油がひと筋こぼれた。
「わっ」
「わ、じゃない。布、そこ」
店先の板へ落ちる前に、俺は左手の古布で受けた。鈍い金色の油が布へ染み、青臭い匂いがむっと立つ。朝から惜しいものを、と帳場の千代が眉を寄せた。
「お父っつぁんに見つかったら、小言ひとつじゃ済まないよ」
「分かってる」
「分かってる人は、量りながら暦を睨まない」
板壁に掛けた暦から、俺は目を逸らした。
天正十年、六月一日。
明日だ。
織田信長が、明智光秀に討たれる。
本能寺の変が起きる。
六か月前までなら、俺にとって明日はただの六月二日だった。暑さが増し、油が傷まぬよう壺の口をよく拭き、雨が来そうなら荷へ油紙を掛ける。そういう一日でしかなかった。
去年の冬、三日三晩の熱から目を覚ますまでは。
目覚めた俺の中には、十八年分の弥吉の記憶と一緒に、現代日本で生きた、もう一人分の人生があった。
入れ替わったわけではない。山崎屋へ奉公に上がった日の心細さも、初めて大壺を割って宗兵衛さんに尻を叩かれた痛みも、熱を出した千代の枕元で夜を明かしたことも、今までどおり俺のものだった。
そこへ、電灯や水道や自動車や、日本史の本を読んだ記憶が加わった。
おかげで、身体には当たり前だった朝が、頭にとっては何もかも非常識になった。
夜は暗い。水は重い。火はすぐ家を食う。道の端には馬の落とし物があり、刀を差した男と肩が触れそうになれば、こちらから泥へ降りた方がいい。
もっとも最後のひとつは、前世があろうとなかろうと、俺は昔からよく知っていた。
「また怖い顔してる」
「油をこぼした俺より、千代の顔の方が怖い」
「じゃあ、もうひと匙こぼしてみる?」
「ごめんなさい」
即座に謝ると、千代は満足そうに鼻を鳴らした。頬は白く、細い肩へ掛けた単衣が少し余っている。昔から身体が弱く、季節の変わり目には熱を出す。それでも、座ってできる勘定や小分けなら店の誰より正確だった。誰が前の代をまだ払っていないか、俺が忘れても千代は忘れない。
店の奥から、宗兵衛さんの太い声が飛んだ。
「弥吉、本能寺へひと壺だ。昼までに持ってけ」
柄杓を壺へ落としかけた。
「......本能寺?」
「耳まで止まったか。上様がお入りになって、昨日から人が増えてる。向こうの取次から、灯の油が足りんと使いが来た」
千代が俺を見る。
俺は、今度こそ一滴もこぼさないよう、両手で柄杓を握った。
歴史の方から、うちへ注文を寄越してきた。
*
油壺を担ぐ天秤棒は、肩の同じ場所ばかりを責める。
少し前へずらせば首へ食い込み、後ろへずらせば壺が揺れた。細い路地から広い通りへ出るたび、人、荷、牛馬の隙間を読んで歩く。身体は勝手にやってくれる。けれど前世の記憶を取り戻してから、俺は道の真ん中を歩く馬を以前より怖いと思うようになった。
あんな大きな生き物に、信号も柵もない。
荷駄の口取りに怒鳴られ、俺はすぐ脇へ寄った。軒先の影で反物を広げる者、桶を担ぐ者、店先で銭を選り分ける者。その間を、二人組の武士がこちらを見もせず通っていく。腰の刀の鞘が天秤棒へ触れそうになり、俺は息を止めた。
何事もなく過ぎてから、ようやく吐く。
こんな俺が合戦を見に行こうというのだから、我ながらどうかしている。
いや、行くつもりはない。そこは大事だ。
本能寺へ配達はする。だが、明日の明け方、俺の身体は山崎屋の物置に置いておく。
遠くを見る。
どうしてそんなことができるのかは、今も分からない。去年の冬に前世を思い出してから、自分に備わった妙な感覚を試すうち、できることとできないことだけは分かってきた。
俺が見られるのは、今、この時の、場所だ。
名を念じても人は探せない。知らない場所も見えない。けれど、自分の足で歩き、曲がり角や門の位置まで身体へ入った場所なら、意識をそこへ置き、その地点から見聞きできる。
本能寺は、よく知っている。
山崎屋は大山崎から入る油を小分けし、町家や寺へ売っている。本能寺も数ある得意先のひとつで、俺は何年も勝手口へ壺を運んだ。堀の外を回り、取次に声を掛け、荷を置く内庭までなら、目を閉じても歩ける。
北は六角、南は蛸薬師。東は西洞院、西は油小路。通りに囲まれた寺域へ近づくにつれ、いつもより人が多くなった。
門前には供の者や荷が集まり、寺というより城の入口に見える。堀の石垣は、以前からそこにある。だが警固の視線が加わると、同じ石までこちらを見張っているようだった。
「山崎屋、灯の油をお持ちしました」
取次に声を掛けると、顔なじみの男が慌ただしく手招きした。
「遅い。こっちだ。今日は客が多い」
「これでも飛んできました」
「壺を割らずに飛べるようになったら褒めてやる」
軽口に救われて門をくぐる。
勝手口の先では、僧も奉公人も小走りだった。器を運ぶ者、湯を用意する者、客を案内する者。俺は邪魔にならぬよう壁際を進み、決まった置き場へ壺を下ろした。肩から棒を外した瞬間、押されていた骨がじんと脈を打つ。
その時、内庭の向こうで人の流れが割れた。
誰も大声で名を呼ばない。だが皆が同じ方へ頭を下げた。
初夏の明るさの中を、ひとりの男が廊下へ出てくる。遠い。顔までは分からない。白っぽい小袖に、細い身体。周囲の人間が息を合わせて動く、その中心だけが、妙に静かだった。
織田信長。
そう思った途端、前世の俺が胸の奥で立ち上がった。
本物だ。
桶狭間も、比叡山も、長篠も、安土城も、その身体の向こうにある。写真も映像も残っていない男が、今、俺と同じ日の光を浴びて歩いている。
一歩、近づきかけた。
すぐに刀を差した近習の横顔がこちらへ向く。
俺は油壺より素早く頭を下げた。
危ない。
何をしている。見るなら遠くからと決めただろう。
存在の気配を薄くすることはできても、俺は透明ではない。目の前へ出れば見える。ぶつかれば相手はぶつかったと分かる。上様を見たい一心で近習へ突っ込む油屋の奉公人など、どう扱われても文句は言えない。
空になった壺を担ぎ、俺は来た道を戻った。
背中へ本能寺の壁を感じながら、明日の夜明け前までは、もう近づかないと誓った。
*
日が落ちると、山崎屋は油を売る店から、油を火へ変える家になった。
店の油皿へ灯心を浸し、千代が火を移す。小さな炎が一度だけ青く縮み、それから黄色く立った。板壁に俺と千代の影が揺れる。油皿ひとつで照らせる範囲は狭い。そこから外れれば、同じ部屋の隅さえ黒く沈んだ。
前世では指一本で部屋中が明るくなった。
思い出してしまえば、この灯の頼りなさは恐ろしい。だが今世の俺は、火を大きくすれば明るさより先に危険が増すことも知っていた。
「芯、出しすぎ」
帳面から顔も上げずに千代が言う。
慌てて灯心を戻すと、炎が低くなった。煤の匂いが鼻へ残る。
「今日のあんた、おかしいよ」
「いつもだろ」
「いつもより」
「ひどいな」
千代は帳面を閉じた。乾いた音が、静かな店に響いた。
「本能寺で何か見た?」
心臓が跳ねた。
「どうして分かる?」
「帰ってきてから、ずっと西を気にしてる。さっきも火を見ながら、火じゃないものを見てた」
昔から、千代はこういうところがある。身体は弱いくせに、人の顔色を読む時だけは誰より素早い。
「明け方に、見たいものがある」
俺は結局、それだけ言った。
「どこで見るの?」
「ここで」
「ここ?」
「外へは出ない。絶対」
千代は目を細めた。説明になっていないと顔に書いてある。
「夜道へ行くつもりなら、お父っつぁんを起こすよ」
「行かないって。俺がそんな度胸あるように見えるか?」
「ないね」
即答だった。
「そこまで言い切る?」
「なら安心」
千代は立ち上がった。急に動いたせいか、二度、小さく咳をする。俺が手を出す前に、自分で帳場へ手をついて息を整えた。
「平気」
「何も言ってない」
「言う顔をした」
それから彼女は、店の戸板、火の始末、油壺の蓋を順に指差した。
「見たいものを見る前に、こっちを見て。火は落とした? 裏の戸は? 水甕は満ちてる?」
「はいはい」
「返事は一度」
「はい」
宗兵衛さんより細かい。
けれど、ひとつずつ確かめていくうちに、胸の騒ぎは少しだけ収まった。
明日、天下の形が変わる。
それでも今夜は、油壺の蓋を閉め、火を落とし、戸を立てなければならない。
それが俺の人生だった。
*
鶏が鳴くより前に目が覚めた。
物置の床は、夜気を吸って冷たかった。俺は畳んだ筵の上へ座り、戸の隙間に耳を澄ます。家の中は眠っている。遠くで犬が一度吠え、それきりになった。
今だろうか。
正確な時刻までは覚えていない。未明。早朝。夜明け前。その程度だ。
天正十年六月二日だけは、間違いない。
「ちょっとだけだ」
誰にともなく言う。
「危なくなったら、すぐ止める」
俺の身体はここにある。兵が来ても、刀が届いても、それは本能寺の話だ。
そう言い聞かせ、目を閉じた。
意識を、西へ置く。
何度も通った油小路。蛸薬師から本能寺の外壁を見上げる場所。堀の石組み。門へ続く道。
暗闇の中で、別の景色が開いた。
最初に聞こえたのは足音だった。
ひとつではない。乾いた土を踏む草鞋の音、甲冑の小札が擦れる音、抑えられた馬の鼻息。夜の通りを埋めるほどの人間が、声を殺して動いている。
旗は暗くて読めない。俺は視点を通り沿いへ滑らせた。動かせるのは、本能寺を中心にしたこの一帯だけだ。兵の列を遡って光秀を探すことはできない。そもそも顔を知らない男を、名だけで見つけられるはずもなかった。
壁の向こうも見えない。
だから、門と路地と、兵の動きを追う。
槍の穂が、わずかな空の明るさを返した。列の一部が西へ、一部が北へ回る。誰かが短く命じたが、他の足音に潰れて聞き取れない。
本当に来た。
明智光秀だ。
胸が熱くなった。
教科書の一行が、足音を立てている。
次の瞬間、門の方で誰何する声が上がった。
返事は聞こえなかった。
代わりに、鉄砲が鳴った。
視界が白く弾け、少し遅れて腹へ響くような音が来る。もちろん、音が届いたのは本能寺へ置いた意識だけだ。物置の俺の身体へ衝撃は届かない。
それでも肩が跳ねた。
怒号。駆け出す足音。門前で人がぶつかり、倒れ、後ろから来た者が乗り越える。歴史絵巻の整った軍列など、どこにもなかった。
「待て」
俺は誰にも届かない声を出した。
歴史通りだ。
これだ。これが本能寺の変だ。
そのはずなのに。
門脇で倒れた男が喉を押さえ、指の間から血を溢れさせるのを見た途端、胸の熱が冷えた。
これは、知っている話ではない。
今、人が死んだ。
*
一度、観測を切った。
物置の暗闇が戻る。俺は膝に手を置き、息を整えようとした。
止めろ。
もう十分だ。襲撃は始まった。史実通り、明智勢が本能寺を囲んだ。それを見たかったのだろう。なら、見た。
ここで終わればいい。
けれど、目を閉じたままの頭に、別の声がした。
信長の最期は。
本当に、どうだった。
怖い。見たくない。
それでも、本物の歴史は見たい。
「馬鹿だな、俺」
今度は、内庭を思う。
勝手口を入り、油壺を下ろす場所。井戸。低い庇。廊下へ上がる段。昨日、信長らしい男を見た向こう側。
景色が切り替わった。
内庭には、すでに兵が入り込んでいた。
開いた戸から、寺の者が飛び出してくる。裸足の男が庭で転び、その横を槍を持った若者が逆に奥へ走った。弓弦が鳴る。矢が庇へ突き立つ。鉄砲の音は壁に挟まれて、外より鋭く耳を刺した。
視点を廊下沿いへ動かす。
壁の中は見えない。閉じた戸の向こうも分からない。開いた場所から開いた場所へ、俺は目だけを這わせた。
人がひとり、廊下へ倒れた。
足が血を踏み、滑る。
誰かが何か叫んだ。名か、命令か、助けを求めたのか。銃声と材木の割れる音に埋もれ、意味にならない。
奥の廊下に、弓を持つ男がいた。
昼に見た白っぽい小袖は、片袖が赤く濡れている。近習たちが男の前へ出ようとし、男はそれを押し退けるように弓を引いた。放たれた矢の先は、柱に隠れて見えなかった。
顔は煙と距離で分からない。
だが、周りの人間の動きが、その男を中心にしていた。
「信長......」
俺の声は、物置の闇にしか落ちない。
男が弓を捨てた。近くの者から長い武器を取る。敵が廊下へ上がる。二人、三人がぶつかり、噛み合った刃が火花を散らした。
信長は魔王だった、という呼び名を前世の俺は知っている。
だが目の前にいるのは、血を流し、息を切らし、槍を振るひとりの人間だった。
その男が奥へ退く。
近習が戸を閉じようとする。別の場所から炎が上がった。
最初は普通の火だった。
赤く揺れ、黒い煙を吐き、乾いた木へ舌を伸ばす。油皿の火を毎晩見ている俺には分かる。大きさは違っても、同じ火だ。
煙が廊下を隠していく。
もう見えない。
終わりだ。
そう思った時、奥の戸が、炎の向こうで半ば開いた。
白いものが見えた。
*
火、だと思った。
だが、それは揺れなかった。
白い光が、細い水のように床を這っている。上へ燃え移らず、煙も出さない。周囲では赤い火が柱を舐め、梁から火の粉を落としているのに、その白だけは風とも熱とも別の決まりで動いていた。
床に落ちた血の縁へ触れる。
血が乾くのではなく、色を失った。
白い火が奥へ伸びる。
人の脚が見えた。
座っているのか、倒れているのか分からない。白い小袖の裾。その手前に、折れた弓。昼に見た男と同じだと、頭が勝手に結びつけた。
呼びかける声がした気がした。
だが赤い火の爆ぜる音と、外の怒号が重なり、言葉にはならなかった。
白い火が小袖へ触れた。
燃え上がらない。
輪郭が、薄くなった。
布も、手も、その向こうの床も、白い光へ溶けるように見えなくなる。灰が舞わない。煙が増えない。ただ、そこにあったものだけが欠けていく。
前世の記憶が、遅れてひとつ浮かんだ。
信長の遺体は、見つからなかった。
そういう話を、読んだことがある。
どの史料だったか。どこまで確かなのか。覚えていない。首を持ち去ったという伝説も、誰かが埋めたという説もあった気がする。
でも、もし。
見つからなかったのではなく。
残らなかったのだとしたら。
「......そっちは、教科書に載ってない」
声が震えた。
白い火が、奥の戸口を越えて廊下へ一本伸びた。
俺の目はそこにない。身体は遠い山崎屋にある。分かっている。触れられるはずがない。
それでも俺は逃げた。
観測を、叩き切るように止めた。
*
「弥吉」
肩を掴まれた。
喉から声が漏れ、俺は筵の上で転びかけた。
「しっ。みんな起きる」
千代だった。
物置の闇の中、寝間着の上へ薄いものを羽織っている。いつからいたのか分からない。
「な、なんで?」
「外がうるさいから起きた。あんたを呼んでも返事がないから、見に来た」
観測している間、身体の周りへ注意が回らなくなる。知っていたことなのに、肩へ手を置かれるまで気づかなかった。
安全な場所から見ている。
その言葉の、安全が急に薄くなる。
「何を見てたの?」
答えられなかった。
千代の手が俺の額へ触れる。
「熱はない。でも、ひどい顔」
その手は温かかった。
白い火が触れたものは、色も灰も残さなかった。
俺は反射的に千代の手首を掴んだ。
「ちょっと、痛い」
「あ、ごめん」
すぐ放す。千代は怒る代わりに、暗がりで俺をじっと見た。
遠くで、誰かが火事だと叫んだ。
今度は俺にも、現実の耳で聞こえた。
「西だ」
俺は立ち上がった。膝が一度ふらつく。
「本能寺が燃えてる」
「見たの?」
「......見た」
千代は、それ以上を聞かなかった。
代わりに物置の油壺を見回した。
「お父っつぁんを起こす。油は奥へ寄せる。水甕を確かめて。火がこっちへ来るかもしれない」
その声に迷いはなかった。
「弥吉」
「分かってる」
「分かってる人は動く」
朝と同じことを言われた。
俺は物置を飛び出した。
宗兵衛さんとお峰さんを起こし、戸を開け、近所の様子を確かめる。井戸へ走り、水桶を満たす。往復するうち、肩へ食い込む重さが、遠くへ行っていた俺の意識を身体へ引き戻した。
水は重い。
油は燃える。
千代は生きている。
今は、それでよかった。
*
夜が明ける頃には、町の噂は煙より速く流れていた。
明智日向守が謀反した。
上様は本能寺を脱した。
いや、お果てになった。
御子息のいる妙覚寺も危ない。
裏切った者はほかにもいる。
誰かが持ち込む話を、次の誰かが別の形で持ち出していく。宗兵衛さんは店を閉めるか開けるかで迷い、結局、半分だけ戸を開けた。油が要る家もある。火が怖くて油どころではない家もある。
千代は帳場に座り、近所へ回す水桶と、持ち出せる銭と、奥へ寄せた壺の数を確かめていた。
「千代、休んでろ」
お峰さんに言われると、千代は一度だけ咳をしてから首を振った。
「座ってる方が楽。それに弥吉へ任せたら、壺が一つ減る」
「今朝の一滴をまだ言うか?」
「一滴で済んだのは、誰のおかげ?」
「千代さまのおかげです」
いつものやり取りだった。
それがありがたかった。
俺は空の水桶を持って外へ出た。
西の空へ、黒い煙が上がっている。あの下で何人が死んだのか、俺は知らない。光秀がどこにいたかも、何を思っていたかも分からない。信長が最後に何を言ったかも聞き取れなかった。
見たのに、分からないことばかりだった。
ただ、白い火だけは覚えている。
後世の本には、本能寺が燃え、信長が死んだと書かれる。
それは間違っていない。
間違っていないが、全部でもない。
たった一行の歴史の中に、油の匂いがあり、鉄砲の音があり、喉から血を流す名も知らない男がいた。記録に残らない火が、記録に残らない何かを焼いた。
そして、その朝にも、俺は水を汲んでいる。
井戸端にはすでに何人も並んでいた。皆、煙を気にしながら、自分の家の桶を手放さない。
俺も列の最後へついた。
本物の歴史を見たかった。
見た。
だからもう、面白半分では見ない。
二度と見ない、とまでは言えなかった。そこまで自分を信じられるほど、俺は強くも立派でもない。
ただ次に目を閉じる時は、逃げる場所を先に確かめようと思う。
「弥吉! 順が来たよ!」
店先から千代の声が飛ぶ。
「今行く!」
俺は桶を両手で持ち上げた。
歴史の一行より、ずっと重かった。
あの朝は、歴史から逃げれば日常へ帰れるのだと思っていた。