結 怖いまま結ぶ
俺の身体は、千代の部屋の外へ置かれた。
甚内に押し出されたわけではない。
内と外の差をはっきりさせるためだと説明され、千代の左手をお峰さんへ預け、自分で廊下へ座った。
それでも戸が閉まる音を聞いた瞬間、逃げ出したくなった。
千代が見えない。
さっきまでは、見えているのが怖かった。今は見えないことの方が怖い。
「始めろ」
戸の向こうから甚内の声がした。
俺は膝へ両手を置き、目を閉じた。
意識を、千代の部屋へ置く。
景色が開いた。
甚内が枕元にいる。宗兵衛さんとお峰さんは、部屋の隅で互いの腕を掴んでいた。千代の寝具は、右側だけ不自然に平らになっている。
身体の左半分は見える。
顔も左側だけだ。鼻から右が、薄暗い部屋の景色へ欠けている。それでも呼吸は聞こえた。浅く、速い。
「右が見えない」
現実の口で言う。
「肩から下か?」
「顔も半分。布団は見える。息は聞こえる」
甚内は千代の左手首へ触れた。次に、何も見えない右側へ手を伸ばす。
指先が途中で止まる。
「重さは?」
「布団だけ沈んでる。そこにいる形はある」
「娘の声は?」
「千代、聞こえるか!」
閉じた戸の外から、現実の口で呼びかけた。
観測の中で、千代の唇の左半分が動いた。
「......聞こえる」
声は、観測している部屋より、もっと遠い場所から届いた。
「どこにいる?」
甚内は、何も見えない右側へ顔を向けた。
「ここ」
「ここは、どちらだ?」
「分からない」
「見えるものを言え」
千代は息を吸った。
「暗い。水の音がする。お母っつぁんの声は、上から」
お峰さんが口を押さえた。
部屋には水の流れる音などない。枕元と閾の椀も静かだ。
甚内は目を閉じなかった。
ひたすら見ていた。
千代の残った輪郭、壁の影、水面、糸、俺が意識を置いた場所。見えるものを一つずつ比べる。
「弥吉。おまえの目から、娘は死者に見えるか?」
「分かるわけないだろ」
「心臓が止まったかと聞いているのではない。生きている者の動きがあるか?」
俺は息を整え、千代を見る。
左の胸が上下している。唇が動く。左手の指が、布団を掴んでいる。
「ある。生きてる」
「外へ落ちた側は?」
「見えない」
「だが、声は聞こえるんだな?」
「聞こえる」
「なら、死者へ分ける理由はない」
甚内は千代の左手を取った。
もう一方の手を、見えない右手があるはずの場所へ置く。
「千代」
「はい」
「おまえは、こちらへ戻るか?」
問いが奇妙だった。
戻すのではないのか。本人へ聞く必要があるのか。
千代は、遠い場所で少し笑った。
「店の勘定を、弥吉に任せられないので」
「おい」
「戻ります」
声だけは、はっきりしていた。
「よし」
甚内が息を吐く。
「なら分ける」
何かが光ったわけではない。
呪文も、印もなかった。
甚内が、千代の見える左手と、見えない右手へ、同じ重さで掌を置いた。
「これは、千代に属する」
静かな声だった。
「今ここで息をし、自分の名を答え、帰ると決めた生者に属する。外へ落ちたものへ渡さない。死者へも渡さない」
枕元の水が震えた。
閾の外の椀も、遅れて震える。
渡した糸がぴんと張った。
千代の影が、壁の上で二つに分かれた。
一つは身体の左側に沿っている。
もう一つは、壁の奥へ倒れ込むように伸びていた。
「右の影が見える。壁の向こうへ伸びてる」
閉じた戸の外から、見えたままを告げる。
「向こうは外だ」
甚内の声が低くなる。
「こちらは内だ」
影の境へ、彼の指が触れた。
「千代に属するものを、こちらへ」
水面が一度、大きく跳ねた。
糸が切れる。
観測している視界の中で、千代の右肩が戻った。
白い火の時とは逆だった。
あの火は、輪郭を薄くし、色も灰も残さなかった。
今、何もなかった場所へ、肩の丸みが重なる。袖のしわが戻る。頬の右側へ血の色が差し、閉じていた右目の睫毛が見えた。
布団が沈む。
部屋の床が、わずかに鳴った。
「重さが戻った。全部見える、千代、聞こえるか!」
俺は叫んだ。
千代が両目を開いた。
「うるさい」
声は近かった。
俺は観測を切り、戸を開けた。
現実の部屋へ飛び込む。
お峰さんが千代の身体を抱いていた。宗兵衛さんは座り込んだまま、娘の足がある場所へ何度も手を当てている。
俺も枕元へ膝をついた。
千代の右手を握る。
冷たい。
だが、井戸底の石の冷たさではない。初夏の夜に汗を失った人の、弱った手の冷たさだった。
重さがある。
「痛い」
「ごめん」
「前も言った」
「戻ってる」
「どこから?」
「分からない」
答えながら、泣きそうになった。
千代は俺の顔を見て、右手の指を少しだけ曲げた。
「また、今にも死ぬみたいな顔」
「今度はしていいだろ?」
「よくない」
千代のまぶたが落ちた。
眠っただけだと分かるまで、俺は呼吸を数えた。
*
甚内は、千代が湯を二口飲むまで帰らなかった。
お峰さんが薄い粥を持ってきたが、千代は一口で首を振った。甚内は無理に食べさせるなと言い、道庵の薬は続けろと言った。
「治ったんじゃないのか?」
宗兵衛さんの手は、まだ千代の足元にあった。
「戻しただけだ」
甚内は切れた糸を革袋へしまった。
「消耗した身体も、昔からの弱さも、そのままだ」
甚内は千代の右手へ目を落とした。
「戻したのは、今夜外へ落ちた分だけだ。押し出したものは判然とせん」
「また起きる?」
千代が目を閉じたまま聞いた。
「起きると思って備える」
「起きないと言って安心させないんですね」
「嘘で安心したいか?」
「いいえ」
「なら、これでいい」
甚内は立ち上がった。
帰るのかと思った。
「待ってください」
俺が止めた。
「何だ」
「次に同じことが起きたら、どうするんです?」
「呼べ」
「呼んで、すぐ来られるんですか?」
「いつでも、とは言わん」
「じゃあ駄目だ」
「弥吉」
千代が俺を止める。
分かっている。
甚内は今夜、見返りを取らずに助けた。この男がいなければ、千代は戻らなかったかもしれない。責める筋ではない。
でも、次は。
俺一人では何もできない。
目だけで千代が消えるところを見ても、戻せない。
「御影は、この娘を調べる。原因は現状では判然とせんが、経過は見られる」
甚内は立ったまま、千代へ目を戻した。
「またずれたら?」
千代は戻った右手を、一度、握って開いた。
「戻す。外から何かが触れたなら、守る」
「何と引き換えなんですか?」
俺は、甚内が持つ革袋を見た。
「今度はあんたが聞くの?」
千代が目を開けた。
「聞くよ」
「勝手に決めないで」
「決めてない」
「決める顔をしてる」
「俺はそんなに顔へ出るのか?」
「全部」
甚内が俺たちを見比べた。
「おまえの目を借りたい」
やはり、と思った。
胃の奥が縮む。
本能寺の白い火。喉から血を流した男。俺が意識を置いた場所を正確に見返した甚内の目。
御影家へ関われば、またああいうものを見ることになる。
今度は、見るだけでは済まないかもしれない。
「嫌です」
口が先に答えた。
「そうか」
甚内はあっさり頷いた。
「なら、この話は終わりだ。娘の様子は、こちらで見られる範囲で見る」
戸口へ向かう。
本当に帰る。
俺は安心した。
これで御影へ関わらずに済む。千代の様子だけ、甚内が見られる時に見てもらえばいい。
だが、次に千代の右手がまた冷えたら。今度こそ半分ではなく全部が消え、甚内が間に合わなかったら。
俺一人では、消えていく千代を見ることしかできない。
帰ってほしい。
それでも、帰らせる方がもっと怖かった。
「待ってください!」
声を上げたのは、俺だった。
甚内は振り返った。
「何だ」
「目を借りるって、俺に何を見せるんです?」
「近づけば姿を変える異常がある。入れない場所もある。おまえの目なら、身体を入れずに差を探せる」
「それ、本当に危険じゃないんですか?」
「安全とは言わん」
俺は千代を見た。
目が合った。
「私のために、勝手に決めるつもり?」
「千代のせいにはしない」
即答した声は震えていた。
「私を言い訳にしないで。あんたが決めて」
千代が弱い身体を選んだわけではない。外へ落ちかけたくて落ちたのでもない。
俺だって、この力を選んだわけではない。
選べるのは、今、どう使うかだけだ。
本能寺では逃げた。
あれでよかったと思う。俺が残っても白い火の正体は分からず、ただ怯え続けただけだ。
今も逃げたい。
甚内が帰ったあと、山崎屋の戸を閉め、千代が二度と消えないと信じたい。
信じられない。
それなら、選ぶのは俺だ。
「俺が決める。条件があります」
俺は甚内を見た。
「言え」
「貸すのは目だけです。身体を戦へ連れていかない。誰かを殺せと言わない。知らない人を名だけで追えと言われても、できない」
「できないことは頼まん」
「見る場所と、何を見るのかを先に言う。俺が知ってる場所じゃなきゃ見えない。それから」
喉が乾く。
「怖すぎたら、断ります」
格好の悪い条件だった。
甚内は笑わなかった。
「命までは借りん。目だけだ」
「断るのも、俺が決めていいんですか?」
「そこまでは借りていない」
「千代がまたこうなったら?」
「御影が見る。戻せるなら戻す」
「外から何かが触れてたら?」
千代は戻った右手を、左手で包んだ。
「守る。おまえたちと、その目のことも漏らさん」
「私のことを、私に隠さないで」
俺と甚内が同時に彼女を見る。
「私の身体でしょう。分かったことは私にも話して。私にできることまで、二人で勝手に決めないで。それも入れて」
甚内はしばらく千代を見た。
「入れよう」
千代が片眉を上げた。
「簡単に言うんですね」
「難しく言えば安心するか?」
「少し」
「では、次までに難しい言い方を考えておく」
千代が、ほんの少し笑った。
俺はまだ怖かった。
契約書も判もない。甚内が約束を守る保証もない。御影家が何者なのか、ほとんど分からない。
だからこそ、聞いた。
「御影が破ったら、どうするんです?」
「おまえの目は二度と貸さなくていい」
「それだけですか?」
「十分重い」
甚内は右手を出した。
武士の作法でも、商いの作法でもない。たぶん、この男なりに分かりやすくしたのだ。
俺はその手を見た。
強そうな相手には近づきたくない。触りたくもない。逃げ道は、背後の廊下と店先。甚内が敵なら、どちらへ走っても追いつかれるだろう。
そんなことを全部考えてから、手を握った。
「目だけです」
「分かった」
「本当に、目だけですからね」
「三度目だ」
「大事なことなので」
甚内の手は、普通の人間の温度だった。
*
翌朝、山崎屋はまだ戸を開けなかった。
宗兵衛さんは千代の枕元から離れず、お峰さんは寝不足の顔で粥を煮ている。俺は道庵の薬を煎じた。
火は赤かった。
土鍋の底を舐め、炭が小さく鳴る。湯気は苦い匂いを運ぶ。昨日と同じ薬だ。甚内の業で戻ったからといって、薬が不要になったわけではない。
俺は火を見ながら、昨日交わした約束を思い出した。
御影へ目を貸す。
怖い。
今からでも甚内が二度と来なければいいと思う。
「弥吉」
奥から千代の声がした。
「何?」
「火、強い」
「見えてないだろ?」
「匂いで分かる」
慌てて炭を離す。
「それから、昨日の油の数」
「今それを言う?」
「一つ足りない」
帳面を確かめると、本当に一つ、別の棚へ置いた分を書き忘れていた。
「寝てろよ」
「寝てても店は気になる」
「治ってないんだから」
「戻っただけ、でしょ」
甚内の言葉を、千代はもう自分のものにしていた。
「じゃあ、戻ったばかりなんだから寝てろ」
「寝てる」
火を弱める。
薬の湯気が、朝の薄い光へ上がっていった。
本能寺では、遠い歴史から逃げた。
千代の時は、逃げなかった。
英雄になったわけではない。御影のことを考えるだけで腹は痛いし、白い火をもう一度見ろと言われたら断るかもしれない。
それでも今は、千代がこちら側で文句を言い、俺が薬を焦がさないよう火を守っている。
怖いまま選んだものとしては、それで十分だった。