ホーム臆病者の戦国観測記 ―白い火の本能寺―結 怖いまま結ぶ
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結 怖いまま結ぶ

俺の身体は、千代の部屋の外へ置かれた。

 甚内に押し出されたわけではない。

 内と外の差をはっきりさせるためだと説明され、千代の左手をお峰さんへ預け、自分で廊下へ座った。

 それでも戸が閉まる音を聞いた瞬間、逃げ出したくなった。

 千代が見えない。

 さっきまでは、見えているのが怖かった。今は見えないことの方が怖い。

「始めろ」

 戸の向こうから甚内の声がした。

 俺は膝へ両手を置き、目を閉じた。

 意識を、千代の部屋へ置く。

 景色が開いた。

 甚内が枕元にいる。宗兵衛さんとお峰さんは、部屋の隅で互いの腕を掴んでいた。千代の寝具は、右側だけ不自然に平らになっている。

 身体の左半分は見える。

 顔も左側だけだ。鼻から右が、薄暗い部屋の景色へ欠けている。それでも呼吸は聞こえた。浅く、速い。

「右が見えない」

 現実の口で言う。

「肩から下か?」

「顔も半分。布団は見える。息は聞こえる」

 甚内は千代の左手首へ触れた。次に、何も見えない右側へ手を伸ばす。

 指先が途中で止まる。

「重さは?」

「布団だけ沈んでる。そこにいる形はある」

「娘の声は?」

「千代、聞こえるか!」

 閉じた戸の外から、現実の口で呼びかけた。

 観測の中で、千代の唇の左半分が動いた。

「......聞こえる」

 声は、観測している部屋より、もっと遠い場所から届いた。

「どこにいる?」

 甚内は、何も見えない右側へ顔を向けた。

「ここ」

「ここは、どちらだ?」

「分からない」

「見えるものを言え」

 千代は息を吸った。

「暗い。水の音がする。お母っつぁんの声は、上から」

 お峰さんが口を押さえた。

 部屋には水の流れる音などない。枕元と閾の椀も静かだ。

 甚内は目を閉じなかった。

 ひたすら見ていた。

 千代の残った輪郭、壁の影、水面、糸、俺が意識を置いた場所。見えるものを一つずつ比べる。

「弥吉。おまえの目から、娘は死者に見えるか?」

「分かるわけないだろ」

「心臓が止まったかと聞いているのではない。生きている者の動きがあるか?」

 俺は息を整え、千代を見る。

 左の胸が上下している。唇が動く。左手の指が、布団を掴んでいる。

「ある。生きてる」

「外へ落ちた側は?」

「見えない」

「だが、声は聞こえるんだな?」

「聞こえる」

「なら、死者へ分ける理由はない」

 甚内は千代の左手を取った。

 もう一方の手を、見えない右手があるはずの場所へ置く。

「千代」

「はい」

「おまえは、こちらへ戻るか?」

 問いが奇妙だった。

 戻すのではないのか。本人へ聞く必要があるのか。

 千代は、遠い場所で少し笑った。

「店の勘定を、弥吉に任せられないので」

「おい」

「戻ります」

 声だけは、はっきりしていた。

「よし」

 甚内が息を吐く。

「なら分ける」

 何かが光ったわけではない。

 呪文も、印もなかった。

 甚内が、千代の見える左手と、見えない右手へ、同じ重さで掌を置いた。

「これは、千代に属する」

 静かな声だった。

「今ここで息をし、自分の名を答え、帰ると決めた生者に属する。外へ落ちたものへ渡さない。死者へも渡さない」

 枕元の水が震えた。

 閾の外の椀も、遅れて震える。

 渡した糸がぴんと張った。

 千代の影が、壁の上で二つに分かれた。

 一つは身体の左側に沿っている。

 もう一つは、壁の奥へ倒れ込むように伸びていた。

「右の影が見える。壁の向こうへ伸びてる」

 閉じた戸の外から、見えたままを告げる。

「向こうは外だ」

 甚内の声が低くなる。

「こちらは内だ」

 影の境へ、彼の指が触れた。

「千代に属するものを、こちらへ」

 水面が一度、大きく跳ねた。

 糸が切れる。

 観測している視界の中で、千代の右肩が戻った。

 白い火の時とは逆だった。

 あの火は、輪郭を薄くし、色も灰も残さなかった。

 今、何もなかった場所へ、肩の丸みが重なる。袖のしわが戻る。頬の右側へ血の色が差し、閉じていた右目の睫毛まつげが見えた。

 布団が沈む。

 部屋の床が、わずかに鳴った。

「重さが戻った。全部見える、千代、聞こえるか!」

 俺は叫んだ。

 千代が両目を開いた。

「うるさい」

 声は近かった。

 俺は観測を切り、戸を開けた。

 現実の部屋へ飛び込む。

 お峰さんが千代の身体を抱いていた。宗兵衛さんは座り込んだまま、娘の足がある場所へ何度も手を当てている。

 俺も枕元へ膝をついた。

 千代の右手を握る。

 冷たい。

 だが、井戸底の石の冷たさではない。初夏の夜に汗を失った人の、弱った手の冷たさだった。

 重さがある。

「痛い」

「ごめん」

「前も言った」

「戻ってる」

「どこから?」

「分からない」

 答えながら、泣きそうになった。

 千代は俺の顔を見て、右手の指を少しだけ曲げた。

「また、今にも死ぬみたいな顔」

「今度はしていいだろ?」

「よくない」

 千代のまぶたが落ちた。

 眠っただけだと分かるまで、俺は呼吸を数えた。

*

 甚内は、千代が湯を二口飲むまで帰らなかった。

 お峰さんが薄いかゆを持ってきたが、千代は一口で首を振った。甚内は無理に食べさせるなと言い、道庵の薬は続けろと言った。

「治ったんじゃないのか?」

 宗兵衛さんの手は、まだ千代の足元にあった。

「戻しただけだ」

 甚内は切れた糸を革袋へしまった。

「消耗した身体も、昔からの弱さも、そのままだ」

 甚内は千代の右手へ目を落とした。

「戻したのは、今夜外へ落ちた分だけだ。押し出したものは判然とせん」

「また起きる?」

 千代が目を閉じたまま聞いた。

「起きると思って備える」

「起きないと言って安心させないんですね」

「嘘で安心したいか?」

「いいえ」

「なら、これでいい」

 甚内は立ち上がった。

 帰るのかと思った。

「待ってください」

 俺が止めた。

「何だ」

「次に同じことが起きたら、どうするんです?」

「呼べ」

「呼んで、すぐ来られるんですか?」

「いつでも、とは言わん」

「じゃあ駄目だ」

「弥吉」

 千代が俺を止める。

 分かっている。

 甚内は今夜、見返りを取らずに助けた。この男がいなければ、千代は戻らなかったかもしれない。責める筋ではない。

 でも、次は。

 俺一人では何もできない。

 目だけで千代が消えるところを見ても、戻せない。

「御影は、この娘を調べる。原因は現状では判然とせんが、経過は見られる」

 甚内は立ったまま、千代へ目を戻した。

「またずれたら?」

 千代は戻った右手を、一度、握って開いた。

「戻す。外から何かが触れたなら、守る」

「何と引き換えなんですか?」

 俺は、甚内が持つ革袋を見た。

「今度はあんたが聞くの?」

 千代が目を開けた。

「聞くよ」

「勝手に決めないで」

「決めてない」

「決める顔をしてる」

「俺はそんなに顔へ出るのか?」

「全部」

 甚内が俺たちを見比べた。

「おまえの目を借りたい」

 やはり、と思った。

 胃の奥が縮む。

 本能寺の白い火。喉から血を流した男。俺が意識を置いた場所を正確に見返した甚内の目。

 御影家へ関われば、またああいうものを見ることになる。

 今度は、見るだけでは済まないかもしれない。

「嫌です」

 口が先に答えた。

「そうか」

 甚内はあっさり頷いた。

「なら、この話は終わりだ。娘の様子は、こちらで見られる範囲で見る」

 戸口へ向かう。

 本当に帰る。

 俺は安心した。

 これで御影へ関わらずに済む。千代の様子だけ、甚内が見られる時に見てもらえばいい。

 だが、次に千代の右手がまた冷えたら。今度こそ半分ではなく全部が消え、甚内が間に合わなかったら。

 俺一人では、消えていく千代を見ることしかできない。

 帰ってほしい。

 それでも、帰らせる方がもっと怖かった。

「待ってください!」

 声を上げたのは、俺だった。

 甚内は振り返った。

「何だ」

「目を借りるって、俺に何を見せるんです?」

「近づけば姿を変える異常がある。入れない場所もある。おまえの目なら、身体を入れずに差を探せる」

「それ、本当に危険じゃないんですか?」

「安全とは言わん」

 俺は千代を見た。

 目が合った。

「私のために、勝手に決めるつもり?」

「千代のせいにはしない」

 即答した声は震えていた。

「私を言い訳にしないで。あんたが決めて」

 千代が弱い身体を選んだわけではない。外へ落ちかけたくて落ちたのでもない。

 俺だって、この力を選んだわけではない。

 選べるのは、今、どう使うかだけだ。

 本能寺では逃げた。

 あれでよかったと思う。俺が残っても白い火の正体は分からず、ただ怯え続けただけだ。

 今も逃げたい。

 甚内が帰ったあと、山崎屋の戸を閉め、千代が二度と消えないと信じたい。

 信じられない。

 それなら、選ぶのは俺だ。

「俺が決める。条件があります」

 俺は甚内を見た。

「言え」

「貸すのは目だけです。身体を戦へ連れていかない。誰かを殺せと言わない。知らない人を名だけで追えと言われても、できない」

「できないことは頼まん」

「見る場所と、何を見るのかを先に言う。俺が知ってる場所じゃなきゃ見えない。それから」

 喉が乾く。

「怖すぎたら、断ります」

 格好の悪い条件だった。

 甚内は笑わなかった。

「命までは借りん。目だけだ」

「断るのも、俺が決めていいんですか?」

「そこまでは借りていない」

「千代がまたこうなったら?」

「御影が見る。戻せるなら戻す」

「外から何かが触れてたら?」

 千代は戻った右手を、左手で包んだ。

「守る。おまえたちと、その目のことも漏らさん」

「私のことを、私に隠さないで」

 俺と甚内が同時に彼女を見る。

「私の身体でしょう。分かったことは私にも話して。私にできることまで、二人で勝手に決めないで。それも入れて」

 甚内はしばらく千代を見た。

「入れよう」

 千代が片眉を上げた。

「簡単に言うんですね」

「難しく言えば安心するか?」

「少し」

「では、次までに難しい言い方を考えておく」

 千代が、ほんの少し笑った。

 俺はまだ怖かった。

 契約書も判もない。甚内が約束を守る保証もない。御影家が何者なのか、ほとんど分からない。

 だからこそ、聞いた。

「御影が破ったら、どうするんです?」

「おまえの目は二度と貸さなくていい」

「それだけですか?」

「十分重い」

 甚内は右手を出した。

 武士の作法でも、商いの作法でもない。たぶん、この男なりに分かりやすくしたのだ。

 俺はその手を見た。

 強そうな相手には近づきたくない。触りたくもない。逃げ道は、背後の廊下と店先。甚内が敵なら、どちらへ走っても追いつかれるだろう。

 そんなことを全部考えてから、手を握った。

「目だけです」

「分かった」

「本当に、目だけですからね」

「三度目だ」

「大事なことなので」

 甚内の手は、普通の人間の温度だった。

*

 翌朝、山崎屋はまだ戸を開けなかった。

 宗兵衛さんは千代の枕元から離れず、お峰さんは寝不足の顔で粥を煮ている。俺は道庵の薬を煎じた。

 火は赤かった。

 土鍋の底を舐め、炭が小さく鳴る。湯気は苦い匂いを運ぶ。昨日と同じ薬だ。甚内の業で戻ったからといって、薬が不要になったわけではない。

 俺は火を見ながら、昨日交わした約束を思い出した。

 御影へ目を貸す。

 怖い。

 今からでも甚内が二度と来なければいいと思う。

「弥吉」

 奥から千代の声がした。

「何?」

「火、強い」

「見えてないだろ?」

「匂いで分かる」

 慌てて炭を離す。

「それから、昨日の油の数」

「今それを言う?」

「一つ足りない」

 帳面を確かめると、本当に一つ、別の棚へ置いた分を書き忘れていた。

「寝てろよ」

「寝てても店は気になる」

「治ってないんだから」

「戻っただけ、でしょ」

 甚内の言葉を、千代はもう自分のものにしていた。

「じゃあ、戻ったばかりなんだから寝てろ」

「寝てる」

 火を弱める。

 薬の湯気が、朝の薄い光へ上がっていった。

 本能寺では、遠い歴史から逃げた。

 千代の時は、逃げなかった。

 英雄になったわけではない。御影のことを考えるだけで腹は痛いし、白い火をもう一度見ろと言われたら断るかもしれない。

 それでも今は、千代がこちら側で文句を言い、俺が薬を焦がさないよう火を守っている。

 怖いまま選んだものとしては、それで十分だった。
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臆病者の戦国観測記 ―白い火の本能寺―作者:ツナマヨ
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俺の身体は、千代の部屋の外へ置かれた。

 甚内に押し出されたわけではない。

 内と外の差をはっきりさせるためだと説明され、千代の左手をお峰さんへ預け、自分で廊下へ座った。

 それでも戸が閉まる音を聞いた瞬間、逃げ出したくなった。

 千代が見えない。

 さっきまでは、見えているのが怖かった。今は見えないことの方が怖い。

「始めろ」

 戸の向こうから甚内の声がした。

 俺は膝へ両手を置き、目を閉じた。

 意識を、千代の部屋へ置く。

 景色が開いた。

 甚内が枕元にいる。宗兵衛さんとお峰さんは、部屋の隅で互いの腕を掴んでいた。千代の寝具は、右側だけ不自然に平らになっている。

 身体の左半分は見える。

 顔も左側だけだ。鼻から右が、薄暗い部屋の景色へ欠けている。それでも呼吸は聞こえた。浅く、速い。

「右が見えない」

 現実の口で言う。

「肩から下か?」

「顔も半分。布団は見える。息は聞こえる」

 甚内は千代の左手首へ触れた。次に、何も見えない右側へ手を伸ばす。

 指先が途中で止まる。

「重さは?」

「布団だけ沈んでる。そこにいる形はある」

「娘の声は?」

「千代、聞こえるか!」

 閉じた戸の外から、現実の口で呼びかけた。

 観測の中で、千代の唇の左半分が動いた。

「......聞こえる」

 声は、観測している部屋より、もっと遠い場所から届いた。

「どこにいる?」

 甚内は、何も見えない右側へ顔を向けた。

「ここ」

「ここは、どちらだ?」

「分からない」

「見えるものを言え」

 千代は息を吸った。

「暗い。水の音がする。お母っつぁんの声は、上から」

 お峰さんが口を押さえた。

 部屋には水の流れる音などない。枕元と閾の椀も静かだ。

 甚内は目を閉じなかった。

 ひたすら見ていた。

 千代の残った輪郭、壁の影、水面、糸、俺が意識を置いた場所。見えるものを一つずつ比べる。

「弥吉。おまえの目から、娘は死者に見えるか?」

「分かるわけないだろ」

「心臓が止まったかと聞いているのではない。生きている者の動きがあるか?」

 俺は息を整え、千代を見る。

 左の胸が上下している。唇が動く。左手の指が、布団を掴んでいる。

「ある。生きてる」

「外へ落ちた側は?」

「見えない」

「だが、声は聞こえるんだな?」

「聞こえる」

「なら、死者へ分ける理由はない」

 甚内は千代の左手を取った。

 もう一方の手を、見えない右手があるはずの場所へ置く。

「千代」

「はい」

「おまえは、こちらへ戻るか?」

 問いが奇妙だった。

 戻すのではないのか。本人へ聞く必要があるのか。

 千代は、遠い場所で少し笑った。

「店の勘定を、弥吉に任せられないので」

「おい」

「戻ります」

 声だけは、はっきりしていた。

「よし」

 甚内が息を吐く。

「なら分ける」

 何かが光ったわけではない。

 呪文も、印もなかった。

 甚内が、千代の見える左手と、見えない右手へ、同じ重さで掌を置いた。

「これは、千代に属する」

 静かな声だった。

「今ここで息をし、自分の名を答え、帰ると決めた生者に属する。外へ落ちたものへ渡さない。死者へも渡さない」

 枕元の水が震えた。

 閾の外の椀も、遅れて震える。

 渡した糸がぴんと張った。

 千代の影が、壁の上で二つに分かれた。

 一つは身体の左側に沿っている。

 もう一つは、壁の奥へ倒れ込むように伸びていた。

「右の影が見える。壁の向こうへ伸びてる」

 閉じた戸の外から、見えたままを告げる。

「向こうは外だ」

 甚内の声が低くなる。

「こちらは内だ」

 影の境へ、彼の指が触れた。

「千代に属するものを、こちらへ」

 水面が一度、大きく跳ねた。

 糸が切れる。

 観測している視界の中で、千代の右肩が戻った。

 白い火の時とは逆だった。

 あの火は、輪郭を薄くし、色も灰も残さなかった。

 今、何もなかった場所へ、肩の丸みが重なる。袖のしわが戻る。頬の右側へ血の色が差し、閉じていた右目の睫毛まつげが見えた。

 布団が沈む。

 部屋の床が、わずかに鳴った。

「重さが戻った。全部見える、千代、聞こえるか!」

 俺は叫んだ。

 千代が両目を開いた。

「うるさい」

 声は近かった。

 俺は観測を切り、戸を開けた。

 現実の部屋へ飛び込む。

 お峰さんが千代の身体を抱いていた。宗兵衛さんは座り込んだまま、娘の足がある場所へ何度も手を当てている。

 俺も枕元へ膝をついた。

 千代の右手を握る。

 冷たい。

 だが、井戸底の石の冷たさではない。初夏の夜に汗を失った人の、弱った手の冷たさだった。

 重さがある。

「痛い」

「ごめん」

「前も言った」

「戻ってる」

「どこから?」

「分からない」

 答えながら、泣きそうになった。

 千代は俺の顔を見て、右手の指を少しだけ曲げた。

「また、今にも死ぬみたいな顔」

「今度はしていいだろ?」

「よくない」

 千代のまぶたが落ちた。

 眠っただけだと分かるまで、俺は呼吸を数えた。

*

 甚内は、千代が湯を二口飲むまで帰らなかった。

 お峰さんが薄いかゆを持ってきたが、千代は一口で首を振った。甚内は無理に食べさせるなと言い、道庵の薬は続けろと言った。

「治ったんじゃないのか?」

 宗兵衛さんの手は、まだ千代の足元にあった。

「戻しただけだ」

 甚内は切れた糸を革袋へしまった。

「消耗した身体も、昔からの弱さも、そのままだ」

 甚内は千代の右手へ目を落とした。

「戻したのは、今夜外へ落ちた分だけだ。押し出したものは判然とせん」

「また起きる?」

 千代が目を閉じたまま聞いた。

「起きると思って備える」

「起きないと言って安心させないんですね」

「嘘で安心したいか?」

「いいえ」

「なら、これでいい」

 甚内は立ち上がった。

 帰るのかと思った。

「待ってください」

 俺が止めた。

「何だ」

「次に同じことが起きたら、どうするんです?」

「呼べ」

「呼んで、すぐ来られるんですか?」

「いつでも、とは言わん」

「じゃあ駄目だ」

「弥吉」

 千代が俺を止める。

 分かっている。

 甚内は今夜、見返りを取らずに助けた。この男がいなければ、千代は戻らなかったかもしれない。責める筋ではない。

 でも、次は。

 俺一人では何もできない。

 目だけで千代が消えるところを見ても、戻せない。

「御影は、この娘を調べる。原因は現状では判然とせんが、経過は見られる」

 甚内は立ったまま、千代へ目を戻した。

「またずれたら?」

 千代は戻った右手を、一度、握って開いた。

「戻す。外から何かが触れたなら、守る」

「何と引き換えなんですか?」

 俺は、甚内が持つ革袋を見た。

「今度はあんたが聞くの?」

 千代が目を開けた。

「聞くよ」

「勝手に決めないで」

「決めてない」

「決める顔をしてる」

「俺はそんなに顔へ出るのか?」

「全部」

 甚内が俺たちを見比べた。

「おまえの目を借りたい」

 やはり、と思った。

 胃の奥が縮む。

 本能寺の白い火。喉から血を流した男。俺が意識を置いた場所を正確に見返した甚内の目。

 御影家へ関われば、またああいうものを見ることになる。

 今度は、見るだけでは済まないかもしれない。

「嫌です」

 口が先に答えた。

「そうか」

 甚内はあっさり頷いた。

「なら、この話は終わりだ。娘の様子は、こちらで見られる範囲で見る」

 戸口へ向かう。

 本当に帰る。

 俺は安心した。

 これで御影へ関わらずに済む。千代の様子だけ、甚内が見られる時に見てもらえばいい。

 だが、次に千代の右手がまた冷えたら。今度こそ半分ではなく全部が消え、甚内が間に合わなかったら。

 俺一人では、消えていく千代を見ることしかできない。

 帰ってほしい。

 それでも、帰らせる方がもっと怖かった。

「待ってください!」

 声を上げたのは、俺だった。

 甚内は振り返った。

「何だ」

「目を借りるって、俺に何を見せるんです?」

「近づけば姿を変える異常がある。入れない場所もある。おまえの目なら、身体を入れずに差を探せる」

「それ、本当に危険じゃないんですか?」

「安全とは言わん」

 俺は千代を見た。

 目が合った。

「私のために、勝手に決めるつもり?」

「千代のせいにはしない」

 即答した声は震えていた。

「私を言い訳にしないで。あんたが決めて」

 千代が弱い身体を選んだわけではない。外へ落ちかけたくて落ちたのでもない。

 俺だって、この力を選んだわけではない。

 選べるのは、今、どう使うかだけだ。

 本能寺では逃げた。

 あれでよかったと思う。俺が残っても白い火の正体は分からず、ただ怯え続けただけだ。

 今も逃げたい。

 甚内が帰ったあと、山崎屋の戸を閉め、千代が二度と消えないと信じたい。

 信じられない。

 それなら、選ぶのは俺だ。

「俺が決める。条件があります」

 俺は甚内を見た。

「言え」

「貸すのは目だけです。身体を戦へ連れていかない。誰かを殺せと言わない。知らない人を名だけで追えと言われても、できない」

「できないことは頼まん」

「見る場所と、何を見るのかを先に言う。俺が知ってる場所じゃなきゃ見えない。それから」

 喉が乾く。

「怖すぎたら、断ります」

 格好の悪い条件だった。

 甚内は笑わなかった。

「命までは借りん。目だけだ」

「断るのも、俺が決めていいんですか?」

「そこまでは借りていない」

「千代がまたこうなったら?」

「御影が見る。戻せるなら戻す」

「外から何かが触れてたら?」

 千代は戻った右手を、左手で包んだ。

「守る。おまえたちと、その目のことも漏らさん」

「私のことを、私に隠さないで」

 俺と甚内が同時に彼女を見る。

「私の身体でしょう。分かったことは私にも話して。私にできることまで、二人で勝手に決めないで。それも入れて」

 甚内はしばらく千代を見た。

「入れよう」

 千代が片眉を上げた。

「簡単に言うんですね」

「難しく言えば安心するか?」

「少し」

「では、次までに難しい言い方を考えておく」

 千代が、ほんの少し笑った。

 俺はまだ怖かった。

 契約書も判もない。甚内が約束を守る保証もない。御影家が何者なのか、ほとんど分からない。

 だからこそ、聞いた。

「御影が破ったら、どうするんです?」

「おまえの目は二度と貸さなくていい」

「それだけですか?」

「十分重い」

 甚内は右手を出した。

 武士の作法でも、商いの作法でもない。たぶん、この男なりに分かりやすくしたのだ。

 俺はその手を見た。

 強そうな相手には近づきたくない。触りたくもない。逃げ道は、背後の廊下と店先。甚内が敵なら、どちらへ走っても追いつかれるだろう。

 そんなことを全部考えてから、手を握った。

「目だけです」

「分かった」

「本当に、目だけですからね」

「三度目だ」

「大事なことなので」

 甚内の手は、普通の人間の温度だった。

*

 翌朝、山崎屋はまだ戸を開けなかった。

 宗兵衛さんは千代の枕元から離れず、お峰さんは寝不足の顔で粥を煮ている。俺は道庵の薬を煎じた。

 火は赤かった。

 土鍋の底を舐め、炭が小さく鳴る。湯気は苦い匂いを運ぶ。昨日と同じ薬だ。甚内の業で戻ったからといって、薬が不要になったわけではない。

 俺は火を見ながら、昨日交わした約束を思い出した。

 御影へ目を貸す。

 怖い。

 今からでも甚内が二度と来なければいいと思う。

「弥吉」

 奥から千代の声がした。

「何?」

「火、強い」

「見えてないだろ?」

「匂いで分かる」

 慌てて炭を離す。

「それから、昨日の油の数」

「今それを言う?」

「一つ足りない」

 帳面を確かめると、本当に一つ、別の棚へ置いた分を書き忘れていた。

「寝てろよ」

「寝てても店は気になる」

「治ってないんだから」

「戻っただけ、でしょ」

 甚内の言葉を、千代はもう自分のものにしていた。

「じゃあ、戻ったばかりなんだから寝てろ」

「寝てる」

 火を弱める。

 薬の湯気が、朝の薄い光へ上がっていった。

 本能寺では、遠い歴史から逃げた。

 千代の時は、逃げなかった。

 英雄になったわけではない。御影のことを考えるだけで腹は痛いし、白い火をもう一度見ろと言われたら断るかもしれない。

 それでも今は、千代がこちら側で文句を言い、俺が薬を焦がさないよう火を守っている。

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