ホーム›私はその号で、あなたを呼ぶ~落ちこぼれ総館長をドクターと呼び続けた助手の話~›5・ゴガクユウの思惑
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5・ゴガクユウの思惑

 春の宴の会場をあとに、紺色のタキシードを着たケルッツアが、てんこ盛りの給仕棚を押して深紅の絨毯が敷かれた通路を歩いているのと同時刻。



 首元を締め付けられたまま連行される灰色のタキシードを着こんだクラウェンドの心境とは裏腹、五月晴れの空は鬱陶しいほど青々と煌めいている。

 小鳥は春の喜びをさえずり、流れる新緑の風は耳に心地よい木の葉ずれの音を奏でる。

 華やかな宴の喧騒も遠く、時折聞こえるワルツの音は、途切れ、また途切れてひどく大人しい。

 足下の草地は靴裏を柔らかに包み込む。寝ころんだならさぞや気持ちがいいだろう。こういう場には、一人で本を片手に、または意中の女性と連れだって訪れたい。

 そんな穏やかに日差しのまどろむダリル邸、彼からすればまさに実家の裏庭の外れに、彼は今まさに、壮年の男性によって連行されてきていた。

 首元に回る濡れ羽色の袖は、何処にそんな力があるものか、腕の持ち主の細面とついでに年齢を少し足して考えても不思議だが、軍属で書記という立場であってもそれなりに体力にも自信のあるクラウェンドをしても、びくともしない。

 力を抜いて抜けようとしても気配を読まれてうまくいかず、なら当身、これまたうまく受け流されて当てられない。

 かといって、苦しい息の中必死に、放してくださいと幾度訴えたところで、そして、連行の理由を匂わせたところで、濡れ羽色のタキシード姿の男は全く聞く耳持たず。

 最後の手段、絶対やりたくない泣き真似までして見せたのに、とクラウェンドは物凄く苦いものを嚥下えんかしきれずにいた。

 ちなみに、そのときの壮年男性の反応は、気持ち悪い、であり、クラウェンドも全く同感であった。

痛てえ...。やべえ......全然、なれてこねえ。......ってことは...色々知ってんだ...............つー...か苦しい...。かといって気を失うほどじゃねえのも計算だ.........これ.........。


 不満も憤怒も、今は昔。クラウェンド・ド・ダリル国王軍第一貴隊属副将軍配下代理書記官は、ぐったりと、あきらめを多分に滲ませてグルラドルン・ド・シェスラット文化庁長官に絞め技を食らわされたまま。

 宴があって人の出入りが激しいとはいえ、邸宅の守りはまた別に配備されている。

 軍属となっているクラウェンドの目から見ても、かなりの手練れ揃いのダリル家の親衛隊の面々に、しかしクラウェンドは連行道中一度も会っていない。

 気配はある。割とある。
 注視か見守りがあるだけまだ良心的かもしれない。

 クラウェンドは思った。声なき声が聞こえる。

たいへんおきのどくですが、われらのぶりょくは、きえてしまいました。

 気配の色が、そんなことを物語っていた。

 と、唐突に、首が自由になった。

「うっわ!!!」

 グルラドルンの腕という、どの鍵で開くものか見当も付かない枷にほぼ完全に体重を預けていたクラウェンドは、支えを失ったことで、咄嗟とっさに力を入れなおすも間に合わず転倒。
 草地にしたたか膝と、両手のひらと片肘とを打ちつけた。

 奇しくも屈辱的な格好になった彼の後ろ、黒い影が差す。

「さて、ここらへんでいいかな。
 失礼を許してくださいますか? クラウェンド皇君こうくん」

 不満と怒りを露に振り返り体勢を立て直したクラウェンドに差し伸べられる手。

 逆光の中、全く悪気のなさそうなグルラドルンの顔にかえって薄ら寒いものを感じつつ、クラウェンドは差し伸べられた手を、本当は払いのけたかったがぐっとこらえ、丁重に辞退した。

 あれま、とおどけるグルラドルンを尻目に自身で立ち上がると、そこここについてしまった草を払い落としてゆく。一つ深呼吸。

 にっこりと、男性に使うべき形容詞でなくとも花のように、微笑んだ。

「母も、あなたの肩を持っていましたね。
 我が家も、あなたも。どういう判断なのかがよくわかりました」

 先ほど睨みつけたことなどもう忘れたかのように、極めて好意的に、愛想よく振る舞うクラウェンドに、グルラドルンは軽く口笛を鳴らす。気を抜いた顔から一転、至ってまじめな顔になる。

「この頃は少々乾燥気味だーねえ。まあ、もう少しの辛抱じゃない?
 ......お気の毒様」

 軍属のクラウェンドに、湿度の話を持ち掛けるグルラドルン。

 それは多分に暗喩を含んでいた。殊ことに、クラウェンドの所属する第一貴隊は主に火器、火力に重点を置く隊でもある。グルラドルンの言葉を訳すなら、軍は調子乗ってるね? 見通してるよ。もう少しで総取り換えだよ。

 穏やかな逆光の中、言葉の黒さに似合いの笑みを浮かべて彼を見るグルラドルンに、クラウェンドもまた、自ずから感じている予感を滲ませた。

「ええ、その通りですね。雨が待ち遠しいことです。
 蛙でも鳴いてくれると、少しは助かるのですが」

 クラウェンドは、酷く冷たい目で、目の前の赤毛の大柄細面な人物、国の最高権力者である王の、友人にして実質的右腕、というよりかは雑用係である者へと視線を転じた。

 自分より頭一つと半上の相手の、何処にでも転がっていそうな焦げ茶の目の深さを推し量る。

 無言で見つめてくるクラウェンドに、グルラドルンは微笑んでみせた。

 クラウェンドの受けた命令の内容も、グルラドルンの背後にいる王の意思も、この場にいないダリルの、裏で国を支えるとまで言われる高潔の血の意思も、明確なものは音にならない。

 それでもグルラドルンは、目の前の美丈夫が帯びた命令の内容を知っており、クラウェンドは、立ちはだかる大柄の食わせ者の携える、王からの伝言を感じ取っている。

 棚上げとはいえ、正式に賢者の称号を賜たまわった流民を、王との緩い確執を利用して、国王軍の科学チームに招待したい。
 ただいま第一貴隊の上部で膨らみつつある企みは、もとよりこの文化庁長官には筒抜け。

 グルラドルンは、クラウェンドのぼやきに軽く答えた。

「まあ、ぼくは。除湿機をお勧めしとこうかな」

 クラウェンドには確かに聞こえた。

 王の狗は、賢者じゃなくて代替えで我慢しろって言ってます。

 そうのたまうグルラドルンに、意外そうに目を見開き、今度は困った、笑いを殺せずに困った顔で呟いた。

「そのまま言ったら、副将軍、どんな顔になるかな」

 青年の声には、やってみる? と、茶目っ気の含まれた揶揄が返る。

 今度こそ悪い冗談を笑うように、クラウェンドは首を振った。

「まさか。
 でも困りました。私はその手のことに通じてないのです......」

 クラウェンドは。その特徴的な虹彩に、意図してダリルの血筋を窺わせ、畏怖、を含んで相手を見た。

 ダリル家直系の目は、どんな相手でも従わせるだけの迫力と、言い知れない畏怖とを含んでいる。

 これは、クラウェンドが母から聞かされた、軍学校に進むにあたってのおまじないのようなものだった。根拠などはないが、彼は、実際幾度か、この目でもって窮地を脱してきている。

 グルラドルンは、その、絶対的な視線をちらりと受け止め、ああ、と空を見た。

「まあ蛙を待つのもいーんだけどさ。
 お互い乾燥に悩む者同士! ここはぼくが良いの見繕ってあげよう!」

 悪魔のような顔で笑う。

 そんなグルラドルンに、この脅しでさえ流すか、と。クラウェンドは心底呆れた顔。憂鬱そうに深く息を吐き、憂いに任せて口を尖らせる。

「......恐ろしいことだ。
 でも、助かりました。妹達に嫌われるのは好きません」
「あれ、姉君は?」

 グルラドルンの無邪気な声に、クラウェンドは今度こそにっこりと、双子の片割れであるティアレーヌ宜しく、この世の花の全てが恥じらい萎れてしまうほど、壮麗にして蟲惑的な笑みを湛えた。

「何を言っておいでです? 私に姉はいませんよ?」
『弟、の、クラウェンドです』


 目の前の微笑に、先ほどケルッツアに、弟、と強調してのたまっていたティアレーヌの声が重なってきこえたのは。果たしてグルラドルンの幻聴か。

 無言の後、グルラドルンは髪を掻き上げる。

「......双子って、そういうとこ楽しそうだねー」
「ふふふ。でも本当に私の方が早く生まれたんですよ?」

 クラウェンドは譲らない。
 おそらく、ティアレーヌも譲らない。

 グルラドルンの生ぬるい視線など知らぬ振りで、クラウェンドはひとりごちるように、グルラドルンに聞こえる音量で呟く。

「しかし、世間的には棚上げでも栄光誉れ高き賢者、と言ったところです。先ほど、故意に私を避けてましたし、あなたと母のやりとりにも動揺してませんでしたし。
 さて何処まで見通しているものなのでしょうね?
 あの、賢者殿は」

 そう言って向けられる好奇を宿したダリル直系の虹彩に、ここにきて初めて、赤毛と茶色の虹彩を持つ王の狗は、その肩書きと噂に似合いの冷笑を浮かべた。

「さあ? ケルズバケモノだからね」

 親愛の響きに混じって別の色合いがちらりと顔を覗かせる声は、クラウェンドの背を冷たく撫でる。

 複雑そうに笑うクラウェンドに、グルラドルンは鼻歌混じりに歌い出した。曰く、鉄ではなしに皮でもない。何もそれを縛れない。

 妙ちきりんなグルラドルンの歌声は、裏庭の一角に、大して響きもせず消えてゆく。
 それでも、クラウェンドからしてみれば、その内容はあまりに暗示的。

「おかしなことですね。縛れないというのに、枷かせのことを歌っている」

 思わず問うダリル皇君に、グルラドルンは、哂った。


***


 十三時に差し掛かるか否か。
 手の入れられた新緑の美しい草地に、白亜でできた長い渡り廊下が続いている。

 五月のすがすがしい晴れ空の下、幾つもの白い石柱に支えられた渡り廊下の中は、初夏の日差しをわずか受け入れ、光と影の明暗を緩く隔てていた。

 その、幅広な渡り廊下の一角、かつかつと革靴の音も高らかに、少々急く者の姿がある。

 針金のような細身は揃えられた黒一色のスーツで覆われている。前身に垂らした銀髪の三つ編みは、到底似合わないピンクのリボンで確かに留められていた。

 ケルッツアと同年同級、今年で数え四十九になる、銀色の髪に銀色の目、わずかな皺すら恐ろしく整って見えるほど端正な顔立ちに、縁なしメガネをかけた、彼。

 シルヴァルド・ド・メイスンは、半ば憑かれたように、正直明日か明後日か、脚の筋肉痛などなども覚悟の上、招かれた春の宴の会場から、ダリル本邸、さらにそこから抜けて下り十五分ほどの場所にあるバス停を目指していた。

 と、彼の革靴の音に混じり、高いヒールの音が遥か後方から響いてくる。慣れた調子で早足とわかる速度を保ち、彼に突進してくるその音に、彼は、ぎくり、と目をむき、ついで、静かに肩を落とす。

 名残惜しげに、前身に垂らした三つ編みのリボン、その布を困ったように見やり、もう一つため息を吐く。

 彼の妻は、明け方の薄明りにランプの灯りが馴染み始める頃、物言わぬ唇も楽しげに、少しだけ強めに口角を持ち上げつつ、彼の銀髪を手際、悪く、三つ編みにしていった。

 何度かやり直し、満足したか、己の髪に絡めてあったリボンを解くと三つ編みの先に結わえ付けて、にっこり。
 はらはらと崩れていくところどころ痛んで切れやすく細い銀髪を、ネグリジェの細い両肩に垂らすと、意思表示に使っている小さな伝言板に、『ビーフシチュー』と書いた。
 そして、バラバラになってしまった己の髪を指さしている。

 ビーフシチューはともかく煮込む料理。少なくとも二人の間ではそういう認識が共有されて久しい。

 シルヴァルドには幻聴だろうが確かに聞こえた。早めに料理の支度をしたいから、リボンを早く返してほしいの。早く帰ってきて。

 今朝の出来事に思いを馳せ、早く帰るつもりだったのに、と、彼は、昼の一時近くの空を黄昏て見上げた。

 無意識ポケットに手を入れ、前かがみに、向かってくる深紅のアンシンメトリーなドレスを見やる。

 深紅の左右非対称なドレスを纏う亜麻色の髪の女性。

 こちらもケルッツアと同年同級、御年四十九になるメトーラルシザ・ド・ゲライアは、会場で見失った人物から向けられる視線に気づき、ただ急いでいたその顔を、意地を張るようにひん曲げると、切れる息も殺し前方のシルヴァルドを睨みつける。

「俺は帰るぞ? 帰るか?」

 ほぼほぼ平坦に低い声が、白い石柱に支えられ続く渡り廊下に響いた。

「っ冗談。......老人と、ガキの...ッ! オモリが......残ってんの、よ」

 答えるメトーラルシザは、シルヴァルドから五歩ほど残した場で足を止め、膝に手を突くと弾む息を何とか殺そうとやっきになっている。受け答えはつっけんどんだったが、切れ切れの口調は、彼女の険を薄れさせていた。

 そんなメトーラルシザ、ケルッツアと同じくユニヴァーシティー・ディム・ゲールッセッテ出の同期にして友人に、シルヴァルドは冷えた目を向け、スーツの内ポケットからタバコを取り出すと、渡り廊下からつかつかと外の草地に出る。

 太く立派な白い石柱に背を預け、五月晴れの空を仰ぎ、一服。

 その姿にメトーラルシザもふらふらとそちらに近づき、同じく、寄りかかる彼から二歩置いた場で同じ石柱に手を突いた。何処からかタバコを取り出し、ライターで火をつける。

 その姿を視界にも入れず、シルヴァルドは呟いた。

「その、ガキと老人のオモリは?」

 その声に、タバコを一服。メトーラルシザは、皮肉を顔に張り付けて答えた。

「バカに押しつけてきた。......知ってるでしょ?」

 そういって、立っていた体勢をずるずると崩し、しゃがみ込む。

 そんな彼女をそれでも見ず、彼はまた、タバコを口に運んだ。

「俺に聞きたいことは?」

 彼の問いに、今度は長い沈黙が返る。その段にきてやっと相手を見たシルヴァルドは、座った姿勢からなんとか立ち上がる友人の姿に、眉を上げた。

「ああ。テュフィレおめでとう」

 今思いついたような祝辞には、祝意のかけらもこもっていない。

 体勢を立て直したメトーラルシザは、ふん、と鼻から紫煙も吐き出すと、シルヴァルドではなく、空に。

「心にもない祝辞ありがとう。
 でもこの賞は、本来あのバカのものよ。大本の基礎も、観測データも、っケルズのものはほぼ、完璧だった。
 ......不完全な部分を埋めればいいだけの、私たちが。二十年遅れていただけ」

 いらついた様子で紫煙を吐き出す。

 それを見ていたシルヴァルドは、今度は彼女の横顔に憐憫れんびんを向けた。

「マルスが心配するぞ?」

 低い声に返ったのは、盛大にむせ返った咳せきの音。
 己の紫煙にむせる彼女を尻目に、シルヴァルドは前方に顔を向ける。

「あいつはお前の喫煙にいい顔をせんだろ。...体調を気遣って」

 他人事のような言葉に、噛みつくような声が返る。

「っッな!? 
 あ、あたしがどこで何してようとあのマヌ、ッケには関係ッ...!ッ」

 メトーラルシザは、じっと見つめてくるシルヴァルドの銀色の目に、ぐ、と言葉を詰まらせた。

 ついで、なんでもない! と勢いよくそっぽを向く。
 そんな彼女に、シルヴァルドは無表情をやや呆れに崩し。

「痒かゆいな」
「っさいわねぇ!」

 彼の言葉には、彼女の、彼の意図を多分に汲んだ返答がある。沈黙には、シルヴァルドのふかすタバコの紫煙が溶けていくばかり。

 しばらくして、ぽつり。掠れた声が生まれた。

「ま..................マルス、元気?」

 発言者は、回答者に顔を向けないまま問う。
 彼女の頬が赤く染まっていることに、シルヴァルドは、内心の呆れを無表情で覆い、タバコを吸うと。

「知らん。それこそケルズにでも聞け」
「バカにきいたら筒抜けちゃうでしょ!? それじゃ困るのよ!」

 振り向き噛みついてくる友達の、赤々と染まった顔に。

「じゃあ会いに」
「できないっつてんでしょ!?
 は、恥ずかしいの!!!!」

 真正面から言葉を送れば、こうやって強い拒絶が返ってくるのだと、頭を抱えたい気分だった。
 正直言って、シルヴァルドはこれ以上ないぐらい、呆れ、呆れ果てていた。
 学生時代から、彼女と、彼女にマヌケと評された人物の仲は、こう。

マルスに至ってはすでに信仰はいっているんじゃないか?

 頭痛を覚えながらも、シルヴァルドは呟いた。

「白いバラ贈られたんだろ? お祝いで。
 好意はある。
 ............ずうっと、な」

 含んだ声音も、自覚があって尚踏み出せない相手には効果などあるべくもないのだ。ずきずきと痛み始めるこめかみを押さえ、シルヴァルドは彼らの間柄が変わらなかった年数を数え上げる。
 三十五。
 彼には人知を超えているようにさえ思えた。歳の差があっても、知り合って五年ほどで既婚になった身としては尚のこと。

 そして今回も、メトーラルシザは例によって例のごとく。

「あ......っん!のキザたらし!! 慣れないことすんじゃないってのよっ!」

 彼女の、ただでさえ白い肌の赤みはいったい何でたとえたらよいのか。動脈が運ぶ血液の色とでもいったらいいのか。そんなことを漠然と、醒めた目で思いつつ、シルヴァルドは律儀に返す。

「おおかた、後生大事に取ってある奴がなにをいう。ああ、図星だな」

 横のやさぐれた年喰い乙女の大変わかりやすい反応は、うざったい。

 隣の呆れを感知したか、メトーラルシザは、掠れた侮蔑ぶべつを投げつけた。

「なによ! 悪い!?!? あんたこそ、そのかわいーリボン」

 ひとをおちょくるとき独特の、歪んだ顔。きつめに整った容姿に哄笑こうしょうさえ浮かべてシルヴァルドを見。

「アレの趣味だ。悪いか」

 昨日の夕食はシチューだった、と言うようにさらっと流された。

 その反応に毒気を抜かれたメトーラルシザは、間抜けた顔をすぐに繕う。

「は! 悪かないけどね!!! なによあんた、もうすでに飼い慣らされて」
「やめとけ。その言葉は跳ね返るぞ。おまえに」

 剣呑さをかき集めた台詞は、諭されるような器のデカい憐憫で返される。

 彼女は、一瞬目を見開き、音でも立ちそうなほど急激に赤くなった。

「な、あ、...あんたねぇっ!!!」

 やっと絞り出した言葉もそれ以上続かない。

 挑発的だったメトーラルシザのうろたえっぷりに、結婚二年目バカにするな。と壊れたことを思いながら。

 しかしメトーラルシザの足音に歩を止めたのは、彼女と、そして件の"マヌケ"の友人である以上、仕方のないことでもある。

「はぁ......。変わらん」

 やきもき通り越してすでに怒り、人によっては課題だとすら感じる彼らの仲を何とかしたいと思うほどには、ユニヴァーシティー・ディム・ゲールッセッテ同期。
 メルザ、シルド、マルス、グラン、エルグ、タール、ケルズ、――――名前を三音に縮めた愛称で呼び合う仲間の絆は強い。

「わ、わる」

 照れですでに険のないメトーラルシザの言葉をとって、シルヴァルドは乱暴に吐き捨てた。

「悪い。いい加減周りが迷惑だ。グランにでもたのんで強硬策でもとる?」

 頭の中で日時を計算しながら問えば、急に真っ青になったメトーラルシザからは、冗談でしょう? と、彼の本気を見抜いた答えが返る。

「冗談ですむうちに手を打てば。かれこれ三十云年。
 タール辺り、本気で考えてそうだぞ」

 実際、彼女と彼とが知らない間に、幾度か、そういう話題で集まったことのある他の三音仲間の一人として、シルヴァルドは目を据わらせた。

 彼女は、きつくはあっても美しい顔立ちの目をむき、まさしく絶句。

 シルヴァルドは、だまりこくるメトーラルシザを長らく見つめ返した後、一息つく。

「会いに行けば?」
「........................。考えとく、わ」

 比較的ましな答えに、彼はもう一息ついた。

 懐から銀の懐中時計を取り出し、予定していたバスに間に合わないことを確認。

 次のバスの時刻を思い出す。その後も乗り継ぎがうまくいかない便ばかりであることに、惨憺さんたんたる思いでタバコを噛んだ。

 隣のメトーラルシザを見る。

 ついで、今は砂漠の方へと出向いている、大柄な、焦げ茶の髪に緑の目をもつ浅黒の友人、マルスこと、マーロルサース・ド・リグィアのことを思い出した。

ああ、変わらん。
いい加減にしてくれ。

 横で、いまだぶつぶつと会わない理由を作り上げているメトーラルシザを、ちらり。

 今度の集会は今年の秋頃だろうか、ああ、五年ぶりだな。虚ろにそんな計画を立て、そのメンバーに思いを馳せる。それぞれの、大学時代からは変わったかもしれないが、確実に二十年は変わらない面々を思い描き。

 はたと、そのむなしい回想から立ち返った。


 今年、二月も終わり頃。次の季節に向けての大々的な買い出しのため、王都に出かけた先で、見知った顔を見かけた。後ろから蹴りを食らわせようとした矢先。

「ドクター!」

 高く澄んだ声とともに、見事な栗色の短髪を有した、小柄な、女性だろう年齢の女が買い物の荷物を抱えて彼に走り寄っていった。

 振り向いた友人は、彼女の荷物を受け取り、次はなにを買うのかと尋ねる。女は、あとはワインと、チーズも仕入れましょう、といったようなことを笑いながら返した。

 気になったシルヴァルドは、ケルズの同僚であるタールこと、テェレル・ド・イグラーンに事の次第を電話し、彼女が友人の助手を務めていることを知る。

 ダリル家の末の姫君。美男美女揃いのダリルの血を引いている割には容姿に恵まれなかった王臣剥奪はくだつ者として有名な、名を、ソフィレーナ・ド・ダリル。

 今はまだ何の展開もない。というテェレルの声に、電話口で、一瞬納得しかけたものの。

まて!!! あれでか!? あの距離感でか!?!?

 頭を抱え込んだシルヴァルドは、しかし、話し相手のさらっとした付け足しに別の感慨を抱いた。

『あ、そうそう。
 奴はダリル嬢に結構執着してるって、自覚あるみたいなんだよね。マルスじゃないし席も勝ち取ったし。
 そのうち展開あるんじゃない?』

 そのとき、シルヴァルドは古い古い記憶を思い出したのだ。人間に大した執着を見せず、気づけば植物か、夜空にばかり目をやっていた流民の姿を。

 彼は、ケルッツアのその関心を、言葉でなく蹴りで破ることしか知らなかった。崩れたときにかけてやる言葉も知らぬ上は見ない振りをした。友だとは思っていながらも。


 そんないけ好かない蛮族、黒猿。結局のところは友人であった者の復活を喜ぶ今、同時に、逆恨みてんこ盛りでこうも思うのだ。

 ケルッツア――――砂漠での本名が長い男。

 少なくとも出会って三十五年、仲間内に聞いても変わらない事実、どうにも初恋すらないまま流民時代に成人の儀だかで男女の営みを実地で経験しかけた結果、別になくてもいい、とシルヴァルドにも直に語っている人間が。

 三音仲間内の色恋話を他人事に聞いていた節が全然拭えない、完全にそういう事柄からは隔離でもされているのかと思えるほど異次元にいた輩が。

 どれほど遅れてやってきたのかは知らないが、人生でおそらく初めて、懸想、を覚えているらしいということは、たまらなくいい気味。

 同時に、相当遅いので次はないと思える分、実ればいい、とも思っている。

奴ケルズだけは、変わったか。

 シルヴァルドは、やけに晴れ晴れとした心地で五月晴れの空を仰ぎ、笑った。
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私はその号で、あなたを呼ぶ~落ちこぼれ総館長をドクターと呼び続けた助手の話~作者:境美和
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5・ゴガクユウの思惑

 春の宴の会場をあとに、紺色のタキシードを着たケルッツアが、てんこ盛りの給仕棚を押して深紅の絨毯が敷かれた通路を歩いているのと同時刻。



 首元を締め付けられたまま連行される灰色のタキシードを着こんだクラウェンドの心境とは裏腹、五月晴れの空は鬱陶しいほど青々と煌めいている。

 小鳥は春の喜びをさえずり、流れる新緑の風は耳に心地よい木の葉ずれの音を奏でる。

 華やかな宴の喧騒も遠く、時折聞こえるワルツの音は、途切れ、また途切れてひどく大人しい。

 足下の草地は靴裏を柔らかに包み込む。寝ころんだならさぞや気持ちがいいだろう。こういう場には、一人で本を片手に、または意中の女性と連れだって訪れたい。

 そんな穏やかに日差しのまどろむダリル邸、彼からすればまさに実家の裏庭の外れに、彼は今まさに、壮年の男性によって連行されてきていた。

 首元に回る濡れ羽色の袖は、何処にそんな力があるものか、腕の持ち主の細面とついでに年齢を少し足して考えても不思議だが、軍属で書記という立場であってもそれなりに体力にも自信のあるクラウェンドをしても、びくともしない。

 力を抜いて抜けようとしても気配を読まれてうまくいかず、なら当身、これまたうまく受け流されて当てられない。

 かといって、苦しい息の中必死に、放してくださいと幾度訴えたところで、そして、連行の理由を匂わせたところで、濡れ羽色のタキシード姿の男は全く聞く耳持たず。

 最後の手段、絶対やりたくない泣き真似までして見せたのに、とクラウェンドは物凄く苦いものを嚥下えんかしきれずにいた。

 ちなみに、そのときの壮年男性の反応は、気持ち悪い、であり、クラウェンドも全く同感であった。

痛てえ...。やべえ......全然、なれてこねえ。......ってことは...色々知ってんだ...............つー...か苦しい...。かといって気を失うほどじゃねえのも計算だ.........これ.........。


 不満も憤怒も、今は昔。クラウェンド・ド・ダリル国王軍第一貴隊属副将軍配下代理書記官は、ぐったりと、あきらめを多分に滲ませてグルラドルン・ド・シェスラット文化庁長官に絞め技を食らわされたまま。

 宴があって人の出入りが激しいとはいえ、邸宅の守りはまた別に配備されている。

 軍属となっているクラウェンドの目から見ても、かなりの手練れ揃いのダリル家の親衛隊の面々に、しかしクラウェンドは連行道中一度も会っていない。

 気配はある。割とある。
 注視か見守りがあるだけまだ良心的かもしれない。

 クラウェンドは思った。声なき声が聞こえる。

たいへんおきのどくですが、われらのぶりょくは、きえてしまいました。

 気配の色が、そんなことを物語っていた。

 と、唐突に、首が自由になった。

「うっわ!!!」

 グルラドルンの腕という、どの鍵で開くものか見当も付かない枷にほぼ完全に体重を預けていたクラウェンドは、支えを失ったことで、咄嗟とっさに力を入れなおすも間に合わず転倒。
 草地にしたたか膝と、両手のひらと片肘とを打ちつけた。

 奇しくも屈辱的な格好になった彼の後ろ、黒い影が差す。

「さて、ここらへんでいいかな。
 失礼を許してくださいますか? クラウェンド皇君こうくん」

 不満と怒りを露に振り返り体勢を立て直したクラウェンドに差し伸べられる手。

 逆光の中、全く悪気のなさそうなグルラドルンの顔にかえって薄ら寒いものを感じつつ、クラウェンドは差し伸べられた手を、本当は払いのけたかったがぐっとこらえ、丁重に辞退した。

 あれま、とおどけるグルラドルンを尻目に自身で立ち上がると、そこここについてしまった草を払い落としてゆく。一つ深呼吸。

 にっこりと、男性に使うべき形容詞でなくとも花のように、微笑んだ。

「母も、あなたの肩を持っていましたね。
 我が家も、あなたも。どういう判断なのかがよくわかりました」

 先ほど睨みつけたことなどもう忘れたかのように、極めて好意的に、愛想よく振る舞うクラウェンドに、グルラドルンは軽く口笛を鳴らす。気を抜いた顔から一転、至ってまじめな顔になる。

「この頃は少々乾燥気味だーねえ。まあ、もう少しの辛抱じゃない?
 ......お気の毒様」

 軍属のクラウェンドに、湿度の話を持ち掛けるグルラドルン。

 それは多分に暗喩を含んでいた。殊ことに、クラウェンドの所属する第一貴隊は主に火器、火力に重点を置く隊でもある。グルラドルンの言葉を訳すなら、軍は調子乗ってるね? 見通してるよ。もう少しで総取り換えだよ。

 穏やかな逆光の中、言葉の黒さに似合いの笑みを浮かべて彼を見るグルラドルンに、クラウェンドもまた、自ずから感じている予感を滲ませた。

「ええ、その通りですね。雨が待ち遠しいことです。
 蛙でも鳴いてくれると、少しは助かるのですが」

 クラウェンドは、酷く冷たい目で、目の前の赤毛の大柄細面な人物、国の最高権力者である王の、友人にして実質的右腕、というよりかは雑用係である者へと視線を転じた。

 自分より頭一つと半上の相手の、何処にでも転がっていそうな焦げ茶の目の深さを推し量る。

 無言で見つめてくるクラウェンドに、グルラドルンは微笑んでみせた。

 クラウェンドの受けた命令の内容も、グルラドルンの背後にいる王の意思も、この場にいないダリルの、裏で国を支えるとまで言われる高潔の血の意思も、明確なものは音にならない。

 それでもグルラドルンは、目の前の美丈夫が帯びた命令の内容を知っており、クラウェンドは、立ちはだかる大柄の食わせ者の携える、王からの伝言を感じ取っている。

 棚上げとはいえ、正式に賢者の称号を賜たまわった流民を、王との緩い確執を利用して、国王軍の科学チームに招待したい。
 ただいま第一貴隊の上部で膨らみつつある企みは、もとよりこの文化庁長官には筒抜け。

 グルラドルンは、クラウェンドのぼやきに軽く答えた。

「まあ、ぼくは。除湿機をお勧めしとこうかな」

 クラウェンドには確かに聞こえた。

 王の狗は、賢者じゃなくて代替えで我慢しろって言ってます。

 そうのたまうグルラドルンに、意外そうに目を見開き、今度は困った、笑いを殺せずに困った顔で呟いた。

「そのまま言ったら、副将軍、どんな顔になるかな」

 青年の声には、やってみる? と、茶目っ気の含まれた揶揄が返る。

 今度こそ悪い冗談を笑うように、クラウェンドは首を振った。

「まさか。
 でも困りました。私はその手のことに通じてないのです......」

 クラウェンドは。その特徴的な虹彩に、意図してダリルの血筋を窺わせ、畏怖、を含んで相手を見た。

 ダリル家直系の目は、どんな相手でも従わせるだけの迫力と、言い知れない畏怖とを含んでいる。

 これは、クラウェンドが母から聞かされた、軍学校に進むにあたってのおまじないのようなものだった。根拠などはないが、彼は、実際幾度か、この目でもって窮地を脱してきている。

 グルラドルンは、その、絶対的な視線をちらりと受け止め、ああ、と空を見た。

「まあ蛙を待つのもいーんだけどさ。
 お互い乾燥に悩む者同士! ここはぼくが良いの見繕ってあげよう!」

 悪魔のような顔で笑う。

 そんなグルラドルンに、この脅しでさえ流すか、と。クラウェンドは心底呆れた顔。憂鬱そうに深く息を吐き、憂いに任せて口を尖らせる。

「......恐ろしいことだ。
 でも、助かりました。妹達に嫌われるのは好きません」
「あれ、姉君は?」

 グルラドルンの無邪気な声に、クラウェンドは今度こそにっこりと、双子の片割れであるティアレーヌ宜しく、この世の花の全てが恥じらい萎れてしまうほど、壮麗にして蟲惑的な笑みを湛えた。

「何を言っておいでです? 私に姉はいませんよ?」
『弟、の、クラウェンドです』


 目の前の微笑に、先ほどケルッツアに、弟、と強調してのたまっていたティアレーヌの声が重なってきこえたのは。果たしてグルラドルンの幻聴か。

 無言の後、グルラドルンは髪を掻き上げる。

「......双子って、そういうとこ楽しそうだねー」
「ふふふ。でも本当に私の方が早く生まれたんですよ?」

 クラウェンドは譲らない。
 おそらく、ティアレーヌも譲らない。

 グルラドルンの生ぬるい視線など知らぬ振りで、クラウェンドはひとりごちるように、グルラドルンに聞こえる音量で呟く。

「しかし、世間的には棚上げでも栄光誉れ高き賢者、と言ったところです。先ほど、故意に私を避けてましたし、あなたと母のやりとりにも動揺してませんでしたし。
 さて何処まで見通しているものなのでしょうね?
 あの、賢者殿は」

 そう言って向けられる好奇を宿したダリル直系の虹彩に、ここにきて初めて、赤毛と茶色の虹彩を持つ王の狗は、その肩書きと噂に似合いの冷笑を浮かべた。

「さあ? ケルズバケモノだからね」

 親愛の響きに混じって別の色合いがちらりと顔を覗かせる声は、クラウェンドの背を冷たく撫でる。

 複雑そうに笑うクラウェンドに、グルラドルンは鼻歌混じりに歌い出した。曰く、鉄ではなしに皮でもない。何もそれを縛れない。

 妙ちきりんなグルラドルンの歌声は、裏庭の一角に、大して響きもせず消えてゆく。
 それでも、クラウェンドからしてみれば、その内容はあまりに暗示的。

「おかしなことですね。縛れないというのに、枷かせのことを歌っている」

 思わず問うダリル皇君に、グルラドルンは、哂った。


***


 十三時に差し掛かるか否か。
 手の入れられた新緑の美しい草地に、白亜でできた長い渡り廊下が続いている。

 五月のすがすがしい晴れ空の下、幾つもの白い石柱に支えられた渡り廊下の中は、初夏の日差しをわずか受け入れ、光と影の明暗を緩く隔てていた。

 その、幅広な渡り廊下の一角、かつかつと革靴の音も高らかに、少々急く者の姿がある。

 針金のような細身は揃えられた黒一色のスーツで覆われている。前身に垂らした銀髪の三つ編みは、到底似合わないピンクのリボンで確かに留められていた。

 ケルッツアと同年同級、今年で数え四十九になる、銀色の髪に銀色の目、わずかな皺すら恐ろしく整って見えるほど端正な顔立ちに、縁なしメガネをかけた、彼。

 シルヴァルド・ド・メイスンは、半ば憑かれたように、正直明日か明後日か、脚の筋肉痛などなども覚悟の上、招かれた春の宴の会場から、ダリル本邸、さらにそこから抜けて下り十五分ほどの場所にあるバス停を目指していた。

 と、彼の革靴の音に混じり、高いヒールの音が遥か後方から響いてくる。慣れた調子で早足とわかる速度を保ち、彼に突進してくるその音に、彼は、ぎくり、と目をむき、ついで、静かに肩を落とす。

 名残惜しげに、前身に垂らした三つ編みのリボン、その布を困ったように見やり、もう一つため息を吐く。

 彼の妻は、明け方の薄明りにランプの灯りが馴染み始める頃、物言わぬ唇も楽しげに、少しだけ強めに口角を持ち上げつつ、彼の銀髪を手際、悪く、三つ編みにしていった。

 何度かやり直し、満足したか、己の髪に絡めてあったリボンを解くと三つ編みの先に結わえ付けて、にっこり。
 はらはらと崩れていくところどころ痛んで切れやすく細い銀髪を、ネグリジェの細い両肩に垂らすと、意思表示に使っている小さな伝言板に、『ビーフシチュー』と書いた。
 そして、バラバラになってしまった己の髪を指さしている。

 ビーフシチューはともかく煮込む料理。少なくとも二人の間ではそういう認識が共有されて久しい。

 シルヴァルドには幻聴だろうが確かに聞こえた。早めに料理の支度をしたいから、リボンを早く返してほしいの。早く帰ってきて。

 今朝の出来事に思いを馳せ、早く帰るつもりだったのに、と、彼は、昼の一時近くの空を黄昏て見上げた。

 無意識ポケットに手を入れ、前かがみに、向かってくる深紅のアンシンメトリーなドレスを見やる。

 深紅の左右非対称なドレスを纏う亜麻色の髪の女性。

 こちらもケルッツアと同年同級、御年四十九になるメトーラルシザ・ド・ゲライアは、会場で見失った人物から向けられる視線に気づき、ただ急いでいたその顔を、意地を張るようにひん曲げると、切れる息も殺し前方のシルヴァルドを睨みつける。

「俺は帰るぞ? 帰るか?」

 ほぼほぼ平坦に低い声が、白い石柱に支えられ続く渡り廊下に響いた。

「っ冗談。......老人と、ガキの...ッ! オモリが......残ってんの、よ」

 答えるメトーラルシザは、シルヴァルドから五歩ほど残した場で足を止め、膝に手を突くと弾む息を何とか殺そうとやっきになっている。受け答えはつっけんどんだったが、切れ切れの口調は、彼女の険を薄れさせていた。

 そんなメトーラルシザ、ケルッツアと同じくユニヴァーシティー・ディム・ゲールッセッテ出の同期にして友人に、シルヴァルドは冷えた目を向け、スーツの内ポケットからタバコを取り出すと、渡り廊下からつかつかと外の草地に出る。

 太く立派な白い石柱に背を預け、五月晴れの空を仰ぎ、一服。

 その姿にメトーラルシザもふらふらとそちらに近づき、同じく、寄りかかる彼から二歩置いた場で同じ石柱に手を突いた。何処からかタバコを取り出し、ライターで火をつける。

 その姿を視界にも入れず、シルヴァルドは呟いた。

「その、ガキと老人のオモリは?」

 その声に、タバコを一服。メトーラルシザは、皮肉を顔に張り付けて答えた。

「バカに押しつけてきた。......知ってるでしょ?」

 そういって、立っていた体勢をずるずると崩し、しゃがみ込む。

 そんな彼女をそれでも見ず、彼はまた、タバコを口に運んだ。

「俺に聞きたいことは?」

 彼の問いに、今度は長い沈黙が返る。その段にきてやっと相手を見たシルヴァルドは、座った姿勢からなんとか立ち上がる友人の姿に、眉を上げた。

「ああ。テュフィレおめでとう」

 今思いついたような祝辞には、祝意のかけらもこもっていない。

 体勢を立て直したメトーラルシザは、ふん、と鼻から紫煙も吐き出すと、シルヴァルドではなく、空に。

「心にもない祝辞ありがとう。
 でもこの賞は、本来あのバカのものよ。大本の基礎も、観測データも、っケルズのものはほぼ、完璧だった。
 ......不完全な部分を埋めればいいだけの、私たちが。二十年遅れていただけ」

 いらついた様子で紫煙を吐き出す。

 それを見ていたシルヴァルドは、今度は彼女の横顔に憐憫れんびんを向けた。

「マルスが心配するぞ?」

 低い声に返ったのは、盛大にむせ返った咳せきの音。
 己の紫煙にむせる彼女を尻目に、シルヴァルドは前方に顔を向ける。

「あいつはお前の喫煙にいい顔をせんだろ。...体調を気遣って」

 他人事のような言葉に、噛みつくような声が返る。

「っッな!? 
 あ、あたしがどこで何してようとあのマヌ、ッケには関係ッ...!ッ」

 メトーラルシザは、じっと見つめてくるシルヴァルドの銀色の目に、ぐ、と言葉を詰まらせた。

 ついで、なんでもない! と勢いよくそっぽを向く。
 そんな彼女に、シルヴァルドは無表情をやや呆れに崩し。

「痒かゆいな」
「っさいわねぇ!」

 彼の言葉には、彼女の、彼の意図を多分に汲んだ返答がある。沈黙には、シルヴァルドのふかすタバコの紫煙が溶けていくばかり。

 しばらくして、ぽつり。掠れた声が生まれた。

「ま..................マルス、元気?」

 発言者は、回答者に顔を向けないまま問う。
 彼女の頬が赤く染まっていることに、シルヴァルドは、内心の呆れを無表情で覆い、タバコを吸うと。

「知らん。それこそケルズにでも聞け」
「バカにきいたら筒抜けちゃうでしょ!? それじゃ困るのよ!」

 振り向き噛みついてくる友達の、赤々と染まった顔に。

「じゃあ会いに」
「できないっつてんでしょ!?
 は、恥ずかしいの!!!!」

 真正面から言葉を送れば、こうやって強い拒絶が返ってくるのだと、頭を抱えたい気分だった。
 正直言って、シルヴァルドはこれ以上ないぐらい、呆れ、呆れ果てていた。
 学生時代から、彼女と、彼女にマヌケと評された人物の仲は、こう。

マルスに至ってはすでに信仰はいっているんじゃないか?

 頭痛を覚えながらも、シルヴァルドは呟いた。

「白いバラ贈られたんだろ? お祝いで。
 好意はある。
 ............ずうっと、な」

 含んだ声音も、自覚があって尚踏み出せない相手には効果などあるべくもないのだ。ずきずきと痛み始めるこめかみを押さえ、シルヴァルドは彼らの間柄が変わらなかった年数を数え上げる。
 三十五。
 彼には人知を超えているようにさえ思えた。歳の差があっても、知り合って五年ほどで既婚になった身としては尚のこと。

 そして今回も、メトーラルシザは例によって例のごとく。

「あ......っん!のキザたらし!! 慣れないことすんじゃないってのよっ!」

 彼女の、ただでさえ白い肌の赤みはいったい何でたとえたらよいのか。動脈が運ぶ血液の色とでもいったらいいのか。そんなことを漠然と、醒めた目で思いつつ、シルヴァルドは律儀に返す。

「おおかた、後生大事に取ってある奴がなにをいう。ああ、図星だな」

 横のやさぐれた年喰い乙女の大変わかりやすい反応は、うざったい。

 隣の呆れを感知したか、メトーラルシザは、掠れた侮蔑ぶべつを投げつけた。

「なによ! 悪い!?!? あんたこそ、そのかわいーリボン」

 ひとをおちょくるとき独特の、歪んだ顔。きつめに整った容姿に哄笑こうしょうさえ浮かべてシルヴァルドを見。

「アレの趣味だ。悪いか」

 昨日の夕食はシチューだった、と言うようにさらっと流された。

 その反応に毒気を抜かれたメトーラルシザは、間抜けた顔をすぐに繕う。

「は! 悪かないけどね!!! なによあんた、もうすでに飼い慣らされて」
「やめとけ。その言葉は跳ね返るぞ。おまえに」

 剣呑さをかき集めた台詞は、諭されるような器のデカい憐憫で返される。

 彼女は、一瞬目を見開き、音でも立ちそうなほど急激に赤くなった。

「な、あ、...あんたねぇっ!!!」

 やっと絞り出した言葉もそれ以上続かない。

 挑発的だったメトーラルシザのうろたえっぷりに、結婚二年目バカにするな。と壊れたことを思いながら。

 しかしメトーラルシザの足音に歩を止めたのは、彼女と、そして件の"マヌケ"の友人である以上、仕方のないことでもある。

「はぁ......。変わらん」

 やきもき通り越してすでに怒り、人によっては課題だとすら感じる彼らの仲を何とかしたいと思うほどには、ユニヴァーシティー・ディム・ゲールッセッテ同期。
 メルザ、シルド、マルス、グラン、エルグ、タール、ケルズ、――――名前を三音に縮めた愛称で呼び合う仲間の絆は強い。

「わ、わる」

 照れですでに険のないメトーラルシザの言葉をとって、シルヴァルドは乱暴に吐き捨てた。

「悪い。いい加減周りが迷惑だ。グランにでもたのんで強硬策でもとる?」

 頭の中で日時を計算しながら問えば、急に真っ青になったメトーラルシザからは、冗談でしょう? と、彼の本気を見抜いた答えが返る。

「冗談ですむうちに手を打てば。かれこれ三十云年。
 タール辺り、本気で考えてそうだぞ」

 実際、彼女と彼とが知らない間に、幾度か、そういう話題で集まったことのある他の三音仲間の一人として、シルヴァルドは目を据わらせた。

 彼女は、きつくはあっても美しい顔立ちの目をむき、まさしく絶句。

 シルヴァルドは、だまりこくるメトーラルシザを長らく見つめ返した後、一息つく。

「会いに行けば?」
「........................。考えとく、わ」

 比較的ましな答えに、彼はもう一息ついた。

 懐から銀の懐中時計を取り出し、予定していたバスに間に合わないことを確認。

 次のバスの時刻を思い出す。その後も乗り継ぎがうまくいかない便ばかりであることに、惨憺さんたんたる思いでタバコを噛んだ。

 隣のメトーラルシザを見る。

 ついで、今は砂漠の方へと出向いている、大柄な、焦げ茶の髪に緑の目をもつ浅黒の友人、マルスこと、マーロルサース・ド・リグィアのことを思い出した。

ああ、変わらん。
いい加減にしてくれ。

 横で、いまだぶつぶつと会わない理由を作り上げているメトーラルシザを、ちらり。

 今度の集会は今年の秋頃だろうか、ああ、五年ぶりだな。虚ろにそんな計画を立て、そのメンバーに思いを馳せる。それぞれの、大学時代からは変わったかもしれないが、確実に二十年は変わらない面々を思い描き。

 はたと、そのむなしい回想から立ち返った。


 今年、二月も終わり頃。次の季節に向けての大々的な買い出しのため、王都に出かけた先で、見知った顔を見かけた。後ろから蹴りを食らわせようとした矢先。

「ドクター!」

 高く澄んだ声とともに、見事な栗色の短髪を有した、小柄な、女性だろう年齢の女が買い物の荷物を抱えて彼に走り寄っていった。

 振り向いた友人は、彼女の荷物を受け取り、次はなにを買うのかと尋ねる。女は、あとはワインと、チーズも仕入れましょう、といったようなことを笑いながら返した。

 気になったシルヴァルドは、ケルズの同僚であるタールこと、テェレル・ド・イグラーンに事の次第を電話し、彼女が友人の助手を務めていることを知る。

 ダリル家の末の姫君。美男美女揃いのダリルの血を引いている割には容姿に恵まれなかった王臣剥奪はくだつ者として有名な、名を、ソフィレーナ・ド・ダリル。

 今はまだ何の展開もない。というテェレルの声に、電話口で、一瞬納得しかけたものの。

まて!!! あれでか!? あの距離感でか!?!?

 頭を抱え込んだシルヴァルドは、しかし、話し相手のさらっとした付け足しに別の感慨を抱いた。

『あ、そうそう。
 奴はダリル嬢に結構執着してるって、自覚あるみたいなんだよね。マルスじゃないし席も勝ち取ったし。
 そのうち展開あるんじゃない?』

 そのとき、シルヴァルドは古い古い記憶を思い出したのだ。人間に大した執着を見せず、気づけば植物か、夜空にばかり目をやっていた流民の姿を。

 彼は、ケルッツアのその関心を、言葉でなく蹴りで破ることしか知らなかった。崩れたときにかけてやる言葉も知らぬ上は見ない振りをした。友だとは思っていながらも。


 そんないけ好かない蛮族、黒猿。結局のところは友人であった者の復活を喜ぶ今、同時に、逆恨みてんこ盛りでこうも思うのだ。

 ケルッツア――――砂漠での本名が長い男。

 少なくとも出会って三十五年、仲間内に聞いても変わらない事実、どうにも初恋すらないまま流民時代に成人の儀だかで男女の営みを実地で経験しかけた結果、別になくてもいい、とシルヴァルドにも直に語っている人間が。

 三音仲間内の色恋話を他人事に聞いていた節が全然拭えない、完全にそういう事柄からは隔離でもされているのかと思えるほど異次元にいた輩が。

 どれほど遅れてやってきたのかは知らないが、人生でおそらく初めて、懸想、を覚えているらしいということは、たまらなくいい気味。

 同時に、相当遅いので次はないと思える分、実ればいい、とも思っている。

奴ケルズだけは、変わったか。

 シルヴァルドは、やけに晴れ晴れとした心地で五月晴れの空を仰ぎ、笑った。
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次の話6・ノケモノは仲良し・前編
私はその号で、あなたを呼ぶ~落ちこぼれ総館長をドクターと呼び続けた助手の話~作者:境美和
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