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6・ノケモノは仲良し・前編

♪
鉄ではなしに皮でもない。なにもそれを縛れない。
ただ一つ。ただ一つ。
その姿は鎖といえず、その声は縄とも言えず。
ただひとつ。ただひとつ。
それに微笑むものの名は。
それによりそうものの名は。
♪




 部屋の時計は、昼の二時二分を指していた。

 自室の姿見で確認したところ、目元の赤みも腫れもほとんど残っていない。

 泣き疲れてまどろんだそのすぐ後に、ソフィレーナは顔に対する処置をとっていた。手際よくタオルを冷やし、寝室に備え付けの冷蔵庫から氷を取り出すと慣れた手つきで目元を冷やす。

 彼女にとって、泣いた後の顔を元に戻すことなどよくあること。決して自身では泣き虫とは思っていないものの、処置の仕方を取り慣れている程には頻度があった。目元の細胞も覚えてしまったか、赤みや腫れは比較的早く元に戻る。

 ソフィレーナは今、駄々をこねる倦怠けんたい感に鞭打って、寝室から続きの自室に活動場所を変えていた。

 本棚から、論文雑誌を取り出し、未読の論文を読む。

 初めは少しのつもりで立ち読みしていたはずが、三ページ程進んだところで椅子を持ち出し、さらに一ページ進んだ後には机についた。

 もう一ページ進むまでもなく、ペンを取り出し疑問点を書き始め、今はそれも終わり、疑問点を纏めて小さなメモ帳に書き写しているところ。

 この小さなメモ帳に書きこんだ項目を時間のあるときに調べることが、彼女の国立図書館における日課だった。



 夢中で作業に没頭していたソフィレーナは、ふ、と。集中の途切れる音を聞き、充実感に背伸びをする。

 ついで、机の置き時計の示す時刻に、軽く息をついた。

そろそろ、昼食が運ばれてくる時刻だわ。

 そっと、少し皺の寄った淡い青色のセミロングドレスの上からおなかに手を当て、それほど空腹を感じないことに苦笑を零す。

 しかし、不摂生常習犯の総館長に、食事を! と訴える助手の立場にあるソフィレーナは、食べねば、と、論文を読むのに使っていた机の一番下の引き出しから、小ぶりな陶器の花瓶を取り出し、それを持って寝室へ引き返す。

 食事を持ってきてくれた使用人に、だらしのない格好を見せる訳にはいかない。

 少し乱れてしまっていた髪やドレスをまた見目よく整え、髪飾り以外はすっかり姿を整え終わると、持ってきていた花瓶を洗い、水を注ぎ、自室のほぼ中央にある、奇麗にテーブルクロスのかけられた中型の白い丸テーブルの真ん中に置いた。

 何も活けられていない花瓶を見つめるソフィレーナの視線は、柔らかい。

 春の宴は、正午きっかりに開始され、十七時に終わるのが通例ではあるが、それは主催が一応のお開きの言葉をかけるだけというのも通例であった。

 個々の解散時間は明確には決められておらず、驚くほど早く引くものもいるにはいるが、大体は、人の移動は十八時近くになる。

 そのため、ソフィレーナはこの日の正午から夕刻過ぎまでをあまり快く思っていない。

 現に、小学、大学とも、寮で過ごすか、帰るのは常に十九時を回った頃。就職してからもそれは変わらない。

 ただ、春の宴の正午から十八時までの、その時間の全てが嫌いという訳でもないのだ。

 春の宴のさなか、ソフィレーナが実家にいるときは、必ずその場に活けられることになる一重咲きのロームエッダの姿を幻視して、ソフィレーナは言い得ないくすぐったさに、そっと微笑んだ。

 一人につき一本。家族五人分で五本届けられる、一重咲きのロームエッダの花束。

 春の宴の日、物心つく前から連綿と続けられているこの昼食の差し入れと、宴が終わった後の夕餉ゆうげから就寝までは、彼女の大好きな時間。

 作りたてのものも、楽しげに話す人の声や音楽を耳にただ一人で食べるのならば味などわからない。
 わからなかった。本当に。

 彼女は六歳の頃、一度だけ、宴の最中厨房に潜り込んで招待客に振る舞われるはずの出来立ての焼き菓子を盗み、部屋に帰ってから齧りついたことがある。

 けれどただ温かいだけで、漏れ聞こえてくる音楽や楽しげな笑い声に、味など瞬く間に消えてしまった。余計に自分がみすぼらしく思えて、ついには一人で泣くのをじっと堪えることになった。自分で招いた結果だというのに。

 そんな日に届けられた昼食には、いつものように昼食とデザートがふんだんに盛られた幾枚もの皿の中、ソフィレーナが盗んだ焼き菓子もあった。使用人がいつもと同じことをいう。

 ご家族の皆様から、姫様へ昼食のお届けです。

 いつもと同じ本数のロームエッダの五本の花束。使用人が花瓶に活けてくれたそれは、ロームエッダの、一重咲き。

 一重咲きのロームエッダは、ソフィレーナも含めたダリル家のことに使うと、彼女はきちんと知っている。

 はずだった。

『............』

 初めて、いつも運ばれてくる料理やデザート、スープなどの品数の多さに目が留まった。冷めかけているものと温かいものが混じっていることにも。

ロームエッダのお花を見ながら食べた”春のうたげ”の日のお昼ごはんは、あったかい料理も、ちょっとさめてる料理も、いつもとってもおいしい。
さみしく、なくなる。

 そのほんとう、を。どこかではわかっていたのだろうか。
 音のない、声が囁いている。

私たちのソフィレーナ。
心はいつも、あなたの傍に。

 ソフィレーナにとっては、今でも尚、春の宴の昼食の時間はとても愛おしい時間。

 白い丸テーブルの椅子に腰掛け、彼女は頬杖をついて部屋の両開きの扉がノックされる音を待った。どれほど遅れても絶対に違えられることのない習慣は、こうして待つ時間さえも彼女に楽しさを与える。


 と、待ちかねた音が、ずいぶん気弱に耳朶じだを掠った。もう一度。

 おっかなびっくり聞こえるノックの音に、彼女は首を傾げ、入りたての使用人だろうか、と。

 少し不審に思いつつも、それなりに防音の施された部屋の中では無駄とわかっても尚、ひときわ大きく返事を返す。少々急ぎ足でドアへと向かい。

「ありがとう。今あけますね」

 内鍵を開くと両開きの扉を片方引き開ける。届けてくれたことへの感謝を述べつつ、目の前の、温かな食事の載った給仕棚と、紺色のタキシードを着た運搬者を見、上げ。

「ッ!!!
 ドクター?! ッなん!?!!!??」
「やっと、ソフィーレンス君に、会えたぁ......!!!!」

 ケルッツアはソフィレーナの目の前でしゃがんで、思いっきり息を吐き出した。
 良かった、と心底嬉しそうなケルッツアの様子に、ソフィレーナは不可解さを覚え、ふと。

あれ?......もしかして......?

 彼女は思う。己の周りでは、王臣から外された皇家こうけの末姫が国王の関わる行事に出られない、という認識は常識。だから助手はその認識が総館長にとっても常識だと考えた。

 宴への招待状を見せられた日、君も行くの? と尋ねた総館長は、彼女が宴に出られないことを知って聞いていると。つまりそれは、実家への帰郷の有無を聞いたのだと。

 深刻な顔で考えるソフィレーナに、ソフィーレンス君、と声が掛かる。

「君は、ずっとここにいたんだね......」

 しゃがんだ体勢で、捨てられた老犬のように頼りなげに、それでも口元を淡く微笑ませて見上げてくるケルッツアの顔は、彼女のあのときの認識が間違っていたのだと雄弁に語っていた。

 彼女はやっと、招待状を見せられた日に問われたことが、宴への参加の有無だったのだと。

「ぁ......」

 そう理解すると、途端、ソフィレーナは申し訳なくてどうしようもなくなる。思いこみで答えた己の浅はかさに、そのときの自分を半ば呪いつつ、見上げてくるケルッツアにぺこりと頭を下げた。

「ごめんなさい。お伝えし忘れてました。
 一応、この宴は外交関係の催しなので、国王が関わっていて......私は、参加できない決まりなんです。
 だから、宴が始まる前に部屋に行き、宴の間は部屋から出るのも極力避けるように言い付かっているんです。
 言葉が足りず、本当に、申し訳」

 そう困り顔で、今にも泣きそうな顔を俯かせ伝えた彼女の目の前、総館長が静かに立ち上がる。ソフィレーナは、一瞬彼の機嫌を危惧したが、彼女からすれば予想外、明るい声が降ってきた。

「そうみたいだね。僕も迂闊うかつで......途中から気づいたんだ。

 じゃあ、ごはんは部屋の中で食べるのかな。
 お邪魔したいな、いいかな?」

 何の含みもない、どころかおそらく笑っているだろう声に、ソフィレーナはケルッツアを見上げる、前、給仕棚に載る料理の量が、いつもと比べてもかなり多いことに気がついた。

 リボンで結ばれた、五本の一重咲きのロームエッダの花は、いつもと同じ。

でも、心なし、給仕棚のサイズも一回り大きいような。

「......私と、一緒にご飯食べるために、運んで来てくださったの?」

 問う声は、発言者にもわかるほど浮かれがにじむ。一気に湧き上がる気恥ずかしさと温かさ、喜びに、ソフィレーナは思わず、心のままに微笑んだ。

***

 ふわり、と。本日も確かに出会った、そして正午前までには確かに横手にあった、ほっとするような、それでいて心のどこかが張るような、柔らかな薫りを感じ、ケルッツアは、花がほころんだ、と思う。

 あるいは、遠い暮日空の美しさを。

 ダリル家の直系の者の虹彩は特徴的だ、ということは、今日一日だけで、この国のやんごとないことに疎く暮らしていたケルッツアにもよくわかった。その上で、今、己の目の前にいる女性の眸が一番――――、―いと、彼は、彼だけの確信を得た。

メルりっつ。

 不意に思い出しかけ、すでにもう流れ過ぎてしまった大切な何か。

 尊大な想い。切願。

 濃紺と緋の色が混じる深い紫の眸に、柔らかにけぶる栗色が融けてとろけるような様に、瞬時強く動いた衝動が、瞬きで、おぼろにぼやけた。

 栗色の長い睫まつげに彩られた美しい眸が、眦を緩めて、一対、彼の目の前にある。

 ほんのりと紅潮した頬も、優しげな眉の線も。薄く微笑みに開かれた花びらのような淡いくちびるも。

 ケルッツアは改めて、ソフィレーナの格好を見る。

 薄い青色の絹の光沢に似た生地のドレスは、彼女の肘の少し先までをはらはらと美しく覆い、腕の白さと細さ、柔らかな曲線が目に眩しい。普段はそれほど見慣れない首筋の白さやみずみずしい肌のきめは輝くよう。
 首元を飾る繊細な造りの銀鎖の先は、鎖骨より少し下、胸元を覆う布地に隠されて見えないが、それがまた、一つの意匠のように感じられた。

 今は髪飾りこそないものの、薄い青色の柔らかな形状のセミロングドレスで着飾ったソフィレーナの姿は、ドレスと同色の布靴もあいまって、まさに花。

 ケルッツアは自身の様々な変化に、ちょっと目を見開くと、すぐに、にこにこと続ける。

「うん。元々君と一緒に食べようと思ってたから、見つかってよかった。
 ご迷惑だろうけど、僕おなかすいててさ」


***

「ご迷惑だろうけど、僕おなかすいててさ」

 酷く、掠れに掠れた声で鳴る腹をさするケルッツアに、ソフィレーナは。

「......ずっと?」

 ぽつりと言葉をこぼし、こぼれた音に気づくと、慌てて発言をかき消す。

 ゆるゆると緩んでゆく頬を何とか押さえつけ、迷惑じゃないです、と静かにかぶりを振って前髪を乱し目元の色づきを隠し、はにかみに全ての感情を押し込めた。
 体中が、温かな何かでいっぱいになり、瞬時、苦しいとさえ思う。

ずっと、私を捜していてくれたの?

 眦ににじむ涙を知らないふり。ソフィレーナは、胸から広がり背を全身を瞬く間に包み込んだ温かさに、滲むこそばゆさと緊張を堪えて、明るく声を上げる。

「あの、なら、せっかくですから厨房でお茶淹れてきますね? 先に部屋に入って待っててくださ」

 彼女がそう言い終わるか終わらないか。ケルッツアはソフィレーナの目の前でまたしゃがみ込んだ。給仕棚のテーブルクロスをめくり、ポットを取り出す。

 彼女を見上げ、その栗色の長い睫に縁取られた一対の、一等美しい紫水晶の濃さに下の方から淡く栗色のけぶる特徴的な虹彩が瞬く様を認めた後。

「ミルクと砂糖もあるみたい」

 もう一度瞬きをしたソフィレーナが、テーブルクロスに隠れた給仕棚の下段をのぞきこむと、テーブルクロスの白に透ける明るい暗がりに、籐のバスケットが三つ置かれている。

 その中の一つ、蓋のないそれには、取り皿と、茶器と思しき物体、カップ、茶葉の缶までご丁寧に揃えて入れてあった。

 ソフィレーナは、ケルッツアを見。

「揃ってますね...?」

 首をかしげて聞けば、にっこりと、うれしそうな声が返ってきた。

「君のお母さんやお姉さんたちが、持たせてくれたんだ」

 にこにこするケルッツアの前で、ソフィレーナはどんな顔をして良いかわからない。

 入っている品目の抜け目のなさで予想したこととはいえ、肯定されると堪らなく気恥ずかしい。

 彼女は己の家族を、あの見目麗しき姫君達を思い起こした。母に姫と言う称号はおかしいだろうが、ソフィレーナはマリアーナの笑った顔を思い出すときはいつも、その顔にどんなに年齢による皺が寄っていても、姫、という言葉を当て嵌めたくなる。

 今更ながら湧き上がる、お客様に使用人の真似事をさせるなんて! という抗議と、家族に抱きついてしまいたいほどの感謝が、彼女の中で同時にせめぎあい、ちょっとした葛藤になった。

 嬉しいような、恥ずかしいような、情けないような切ないような。

 どこかでは、ほんのわずか苛立ちさえ混ざった、複雑な、確かに温かな心地を塊のまま飲み下し、じゃあ、と。

 ソフィレーナは宙に視線を逃がした。

「......大した、ところじゃありませんけど......」

 ちらり、と上目遣いに彼を見、明らかに照れたように前髪を乱した後、部屋の扉を大きく内側に開いたソフィレーナに。

「おじゃまします」

 ケルッツアは、安堵したような声を出す。


 クリーム色の絨毯が敷かれたその部屋は、そこかしこに本棚が置かれていた。内容は大まか菌糸類の図鑑や研究本などに傾いているが、わずかにその他の分野も見受けられるか。総じて専門書と呼ばれるお堅い書物だった。

 この部屋の来訪者の凡そが、ここはちょっとしたダリル家の書斎で、ソフィレーナの自室が別にあるのだと勝手に思うほどの量。

 とはいえ、所々を飾るぬいぐるみやら、小物やら。よく見れば立派な一続きの本棚の一番下の段だけは、カラフルで可愛らしい童話の名前が並んでもいる。

 本と本棚以外は全体的に淡い色で統一されてもいて、そちらの細かな要素に目を留め、とても女性らしい部屋と取る者も、いないではない。

 一名。

 つまり、その奇特な感性の持ち主であるケルッツアは、とても柔らかで居心地の良い雰囲気の部屋だと、まるで目の前のソフィレーナのような場所だと捉えた。
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6・ノケモノは仲良し・前編

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鉄ではなしに皮でもない。なにもそれを縛れない。
ただ一つ。ただ一つ。
その姿は鎖といえず、その声は縄とも言えず。
ただひとつ。ただひとつ。
それに微笑むものの名は。
それによりそうものの名は。
♪




 部屋の時計は、昼の二時二分を指していた。

 自室の姿見で確認したところ、目元の赤みも腫れもほとんど残っていない。

 泣き疲れてまどろんだそのすぐ後に、ソフィレーナは顔に対する処置をとっていた。手際よくタオルを冷やし、寝室に備え付けの冷蔵庫から氷を取り出すと慣れた手つきで目元を冷やす。

 彼女にとって、泣いた後の顔を元に戻すことなどよくあること。決して自身では泣き虫とは思っていないものの、処置の仕方を取り慣れている程には頻度があった。目元の細胞も覚えてしまったか、赤みや腫れは比較的早く元に戻る。

 ソフィレーナは今、駄々をこねる倦怠けんたい感に鞭打って、寝室から続きの自室に活動場所を変えていた。

 本棚から、論文雑誌を取り出し、未読の論文を読む。

 初めは少しのつもりで立ち読みしていたはずが、三ページ程進んだところで椅子を持ち出し、さらに一ページ進んだ後には机についた。

 もう一ページ進むまでもなく、ペンを取り出し疑問点を書き始め、今はそれも終わり、疑問点を纏めて小さなメモ帳に書き写しているところ。

 この小さなメモ帳に書きこんだ項目を時間のあるときに調べることが、彼女の国立図書館における日課だった。



 夢中で作業に没頭していたソフィレーナは、ふ、と。集中の途切れる音を聞き、充実感に背伸びをする。

 ついで、机の置き時計の示す時刻に、軽く息をついた。

そろそろ、昼食が運ばれてくる時刻だわ。

 そっと、少し皺の寄った淡い青色のセミロングドレスの上からおなかに手を当て、それほど空腹を感じないことに苦笑を零す。

 しかし、不摂生常習犯の総館長に、食事を! と訴える助手の立場にあるソフィレーナは、食べねば、と、論文を読むのに使っていた机の一番下の引き出しから、小ぶりな陶器の花瓶を取り出し、それを持って寝室へ引き返す。

 食事を持ってきてくれた使用人に、だらしのない格好を見せる訳にはいかない。

 少し乱れてしまっていた髪やドレスをまた見目よく整え、髪飾り以外はすっかり姿を整え終わると、持ってきていた花瓶を洗い、水を注ぎ、自室のほぼ中央にある、奇麗にテーブルクロスのかけられた中型の白い丸テーブルの真ん中に置いた。

 何も活けられていない花瓶を見つめるソフィレーナの視線は、柔らかい。

 春の宴は、正午きっかりに開始され、十七時に終わるのが通例ではあるが、それは主催が一応のお開きの言葉をかけるだけというのも通例であった。

 個々の解散時間は明確には決められておらず、驚くほど早く引くものもいるにはいるが、大体は、人の移動は十八時近くになる。

 そのため、ソフィレーナはこの日の正午から夕刻過ぎまでをあまり快く思っていない。

 現に、小学、大学とも、寮で過ごすか、帰るのは常に十九時を回った頃。就職してからもそれは変わらない。

 ただ、春の宴の正午から十八時までの、その時間の全てが嫌いという訳でもないのだ。

 春の宴のさなか、ソフィレーナが実家にいるときは、必ずその場に活けられることになる一重咲きのロームエッダの姿を幻視して、ソフィレーナは言い得ないくすぐったさに、そっと微笑んだ。

 一人につき一本。家族五人分で五本届けられる、一重咲きのロームエッダの花束。

 春の宴の日、物心つく前から連綿と続けられているこの昼食の差し入れと、宴が終わった後の夕餉ゆうげから就寝までは、彼女の大好きな時間。

 作りたてのものも、楽しげに話す人の声や音楽を耳にただ一人で食べるのならば味などわからない。
 わからなかった。本当に。

 彼女は六歳の頃、一度だけ、宴の最中厨房に潜り込んで招待客に振る舞われるはずの出来立ての焼き菓子を盗み、部屋に帰ってから齧りついたことがある。

 けれどただ温かいだけで、漏れ聞こえてくる音楽や楽しげな笑い声に、味など瞬く間に消えてしまった。余計に自分がみすぼらしく思えて、ついには一人で泣くのをじっと堪えることになった。自分で招いた結果だというのに。

 そんな日に届けられた昼食には、いつものように昼食とデザートがふんだんに盛られた幾枚もの皿の中、ソフィレーナが盗んだ焼き菓子もあった。使用人がいつもと同じことをいう。

 ご家族の皆様から、姫様へ昼食のお届けです。

 いつもと同じ本数のロームエッダの五本の花束。使用人が花瓶に活けてくれたそれは、ロームエッダの、一重咲き。

 一重咲きのロームエッダは、ソフィレーナも含めたダリル家のことに使うと、彼女はきちんと知っている。

 はずだった。

『............』

 初めて、いつも運ばれてくる料理やデザート、スープなどの品数の多さに目が留まった。冷めかけているものと温かいものが混じっていることにも。

ロームエッダのお花を見ながら食べた”春のうたげ”の日のお昼ごはんは、あったかい料理も、ちょっとさめてる料理も、いつもとってもおいしい。
さみしく、なくなる。

 そのほんとう、を。どこかではわかっていたのだろうか。
 音のない、声が囁いている。

私たちのソフィレーナ。
心はいつも、あなたの傍に。

 ソフィレーナにとっては、今でも尚、春の宴の昼食の時間はとても愛おしい時間。

 白い丸テーブルの椅子に腰掛け、彼女は頬杖をついて部屋の両開きの扉がノックされる音を待った。どれほど遅れても絶対に違えられることのない習慣は、こうして待つ時間さえも彼女に楽しさを与える。


 と、待ちかねた音が、ずいぶん気弱に耳朶じだを掠った。もう一度。

 おっかなびっくり聞こえるノックの音に、彼女は首を傾げ、入りたての使用人だろうか、と。

 少し不審に思いつつも、それなりに防音の施された部屋の中では無駄とわかっても尚、ひときわ大きく返事を返す。少々急ぎ足でドアへと向かい。

「ありがとう。今あけますね」

 内鍵を開くと両開きの扉を片方引き開ける。届けてくれたことへの感謝を述べつつ、目の前の、温かな食事の載った給仕棚と、紺色のタキシードを着た運搬者を見、上げ。

「ッ!!!
 ドクター?! ッなん!?!!!??」
「やっと、ソフィーレンス君に、会えたぁ......!!!!」

 ケルッツアはソフィレーナの目の前でしゃがんで、思いっきり息を吐き出した。
 良かった、と心底嬉しそうなケルッツアの様子に、ソフィレーナは不可解さを覚え、ふと。

あれ?......もしかして......?

 彼女は思う。己の周りでは、王臣から外された皇家こうけの末姫が国王の関わる行事に出られない、という認識は常識。だから助手はその認識が総館長にとっても常識だと考えた。

 宴への招待状を見せられた日、君も行くの? と尋ねた総館長は、彼女が宴に出られないことを知って聞いていると。つまりそれは、実家への帰郷の有無を聞いたのだと。

 深刻な顔で考えるソフィレーナに、ソフィーレンス君、と声が掛かる。

「君は、ずっとここにいたんだね......」

 しゃがんだ体勢で、捨てられた老犬のように頼りなげに、それでも口元を淡く微笑ませて見上げてくるケルッツアの顔は、彼女のあのときの認識が間違っていたのだと雄弁に語っていた。

 彼女はやっと、招待状を見せられた日に問われたことが、宴への参加の有無だったのだと。

「ぁ......」

 そう理解すると、途端、ソフィレーナは申し訳なくてどうしようもなくなる。思いこみで答えた己の浅はかさに、そのときの自分を半ば呪いつつ、見上げてくるケルッツアにぺこりと頭を下げた。

「ごめんなさい。お伝えし忘れてました。
 一応、この宴は外交関係の催しなので、国王が関わっていて......私は、参加できない決まりなんです。
 だから、宴が始まる前に部屋に行き、宴の間は部屋から出るのも極力避けるように言い付かっているんです。
 言葉が足りず、本当に、申し訳」

 そう困り顔で、今にも泣きそうな顔を俯かせ伝えた彼女の目の前、総館長が静かに立ち上がる。ソフィレーナは、一瞬彼の機嫌を危惧したが、彼女からすれば予想外、明るい声が降ってきた。

「そうみたいだね。僕も迂闊うかつで......途中から気づいたんだ。

 じゃあ、ごはんは部屋の中で食べるのかな。
 お邪魔したいな、いいかな?」

 何の含みもない、どころかおそらく笑っているだろう声に、ソフィレーナはケルッツアを見上げる、前、給仕棚に載る料理の量が、いつもと比べてもかなり多いことに気がついた。

 リボンで結ばれた、五本の一重咲きのロームエッダの花は、いつもと同じ。

でも、心なし、給仕棚のサイズも一回り大きいような。

「......私と、一緒にご飯食べるために、運んで来てくださったの?」

 問う声は、発言者にもわかるほど浮かれがにじむ。一気に湧き上がる気恥ずかしさと温かさ、喜びに、ソフィレーナは思わず、心のままに微笑んだ。

***

 ふわり、と。本日も確かに出会った、そして正午前までには確かに横手にあった、ほっとするような、それでいて心のどこかが張るような、柔らかな薫りを感じ、ケルッツアは、花がほころんだ、と思う。

 あるいは、遠い暮日空の美しさを。

 ダリル家の直系の者の虹彩は特徴的だ、ということは、今日一日だけで、この国のやんごとないことに疎く暮らしていたケルッツアにもよくわかった。その上で、今、己の目の前にいる女性の眸が一番――――、―いと、彼は、彼だけの確信を得た。

メルりっつ。

 不意に思い出しかけ、すでにもう流れ過ぎてしまった大切な何か。

 尊大な想い。切願。

 濃紺と緋の色が混じる深い紫の眸に、柔らかにけぶる栗色が融けてとろけるような様に、瞬時強く動いた衝動が、瞬きで、おぼろにぼやけた。

 栗色の長い睫まつげに彩られた美しい眸が、眦を緩めて、一対、彼の目の前にある。

 ほんのりと紅潮した頬も、優しげな眉の線も。薄く微笑みに開かれた花びらのような淡いくちびるも。

 ケルッツアは改めて、ソフィレーナの格好を見る。

 薄い青色の絹の光沢に似た生地のドレスは、彼女の肘の少し先までをはらはらと美しく覆い、腕の白さと細さ、柔らかな曲線が目に眩しい。普段はそれほど見慣れない首筋の白さやみずみずしい肌のきめは輝くよう。
 首元を飾る繊細な造りの銀鎖の先は、鎖骨より少し下、胸元を覆う布地に隠されて見えないが、それがまた、一つの意匠のように感じられた。

 今は髪飾りこそないものの、薄い青色の柔らかな形状のセミロングドレスで着飾ったソフィレーナの姿は、ドレスと同色の布靴もあいまって、まさに花。

 ケルッツアは自身の様々な変化に、ちょっと目を見開くと、すぐに、にこにこと続ける。

「うん。元々君と一緒に食べようと思ってたから、見つかってよかった。
 ご迷惑だろうけど、僕おなかすいててさ」


***

「ご迷惑だろうけど、僕おなかすいててさ」

 酷く、掠れに掠れた声で鳴る腹をさするケルッツアに、ソフィレーナは。

「......ずっと?」

 ぽつりと言葉をこぼし、こぼれた音に気づくと、慌てて発言をかき消す。

 ゆるゆると緩んでゆく頬を何とか押さえつけ、迷惑じゃないです、と静かにかぶりを振って前髪を乱し目元の色づきを隠し、はにかみに全ての感情を押し込めた。
 体中が、温かな何かでいっぱいになり、瞬時、苦しいとさえ思う。

ずっと、私を捜していてくれたの?

 眦ににじむ涙を知らないふり。ソフィレーナは、胸から広がり背を全身を瞬く間に包み込んだ温かさに、滲むこそばゆさと緊張を堪えて、明るく声を上げる。

「あの、なら、せっかくですから厨房でお茶淹れてきますね? 先に部屋に入って待っててくださ」

 彼女がそう言い終わるか終わらないか。ケルッツアはソフィレーナの目の前でまたしゃがみ込んだ。給仕棚のテーブルクロスをめくり、ポットを取り出す。

 彼女を見上げ、その栗色の長い睫に縁取られた一対の、一等美しい紫水晶の濃さに下の方から淡く栗色のけぶる特徴的な虹彩が瞬く様を認めた後。

「ミルクと砂糖もあるみたい」

 もう一度瞬きをしたソフィレーナが、テーブルクロスに隠れた給仕棚の下段をのぞきこむと、テーブルクロスの白に透ける明るい暗がりに、籐のバスケットが三つ置かれている。

 その中の一つ、蓋のないそれには、取り皿と、茶器と思しき物体、カップ、茶葉の缶までご丁寧に揃えて入れてあった。

 ソフィレーナは、ケルッツアを見。

「揃ってますね...?」

 首をかしげて聞けば、にっこりと、うれしそうな声が返ってきた。

「君のお母さんやお姉さんたちが、持たせてくれたんだ」

 にこにこするケルッツアの前で、ソフィレーナはどんな顔をして良いかわからない。

 入っている品目の抜け目のなさで予想したこととはいえ、肯定されると堪らなく気恥ずかしい。

 彼女は己の家族を、あの見目麗しき姫君達を思い起こした。母に姫と言う称号はおかしいだろうが、ソフィレーナはマリアーナの笑った顔を思い出すときはいつも、その顔にどんなに年齢による皺が寄っていても、姫、という言葉を当て嵌めたくなる。

 今更ながら湧き上がる、お客様に使用人の真似事をさせるなんて! という抗議と、家族に抱きついてしまいたいほどの感謝が、彼女の中で同時にせめぎあい、ちょっとした葛藤になった。

 嬉しいような、恥ずかしいような、情けないような切ないような。

 どこかでは、ほんのわずか苛立ちさえ混ざった、複雑な、確かに温かな心地を塊のまま飲み下し、じゃあ、と。

 ソフィレーナは宙に視線を逃がした。

「......大した、ところじゃありませんけど......」

 ちらり、と上目遣いに彼を見、明らかに照れたように前髪を乱した後、部屋の扉を大きく内側に開いたソフィレーナに。

「おじゃまします」

 ケルッツアは、安堵したような声を出す。


 クリーム色の絨毯が敷かれたその部屋は、そこかしこに本棚が置かれていた。内容は大まか菌糸類の図鑑や研究本などに傾いているが、わずかにその他の分野も見受けられるか。総じて専門書と呼ばれるお堅い書物だった。

 この部屋の来訪者の凡そが、ここはちょっとしたダリル家の書斎で、ソフィレーナの自室が別にあるのだと勝手に思うほどの量。

 とはいえ、所々を飾るぬいぐるみやら、小物やら。よく見れば立派な一続きの本棚の一番下の段だけは、カラフルで可愛らしい童話の名前が並んでもいる。

 本と本棚以外は全体的に淡い色で統一されてもいて、そちらの細かな要素に目を留め、とても女性らしい部屋と取る者も、いないではない。

 一名。

 つまり、その奇特な感性の持ち主であるケルッツアは、とても柔らかで居心地の良い雰囲気の部屋だと、まるで目の前のソフィレーナのような場所だと捉えた。
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私はその号で、あなたを呼ぶ~落ちこぼれ総館長をドクターと呼び続けた助手の話~作者:境美和
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