4・バケモノは身勝手・後編
今年三月初頭。
国立図書館の最上階にある、禁書庫に押しつぶされそうな総館長専用作業部屋のポストの中に、真っ白な封筒が一通入っていた。気づいたケルッツアは、手に取れば薄く上品な香を感じるそれをしげしげと眺め、ひっくり返し。
そこで眉を顰める。
封筒には、差出人の名前がなく、ただ、赤い蝋封が押されているだけ。宛名もなければ蝋封の刻印が何の花を象っているかもわからない。
とりあえず、知り合いの家の象徴花や、学会関連のそれを一通り頭にさらってもみたが該当もなく。...しいて言えば、ダリルの象徴に似てるけど、あれ、一重の花だしなぁ...?
しばらく、嫌がらせと宛先違いの可能性を考慮した総館長は、宛先違い、助手の元に届いたものだろうという結論に至った。ごくごくたまに、彼女宛の荷物が紛れ込んでいることがある。きっとそれだろう。
そんな思いと共に、朝のお茶の時間に彼女へ経緯を話し、封筒を差し出す。
が。ソフィレーナは、彼の予想に反して困惑気味に封筒を受け取ると、宛名のないことを見、ひっくり返し。
『! これ実家の刻印です!』
目を丸くしたまま、受け取った封筒を渡し返してきた。
ケルッツアは首を傾げる。
『あれ? だってダリルの......君のおうちの象徴花は一重咲きじゃあなかった? それに、おうちからのお手紙なら』
困惑気味なケルッツアに、ソフィレーナはわずか身を乗り出して答える。
『ダリルの刻印には二通りあるんです。
一重咲きは普段のときや、本当にダリル家だけで催す宴の招待状なんかに使うもの。
そしてもう一つが、国王のご意思によってダリルが主催で行う場合に用いられる、この三重咲きの刻印で............。
この刻印は、私相手には絶対使われませんから、これ、あなた宛です。
! もしかして、“春の宴”への招待状じゃあ!?』
ダリル皇家直系に特徴的な虹彩、一等美しく深い紫に、下の方から淡く栗色の煙る一対の眸は、わずか熱に浮かされてケルッツアを見ている。
その視線を受け止めた彼は、一つ瞬きをした。
興奮気味のソフィレーナから、春の宴、と呼ばれる立食パーティーのあらましなどを聞きつつ封を切る。
著名人を集めて、という説明に、プロフェッサー・ディム・ゲールの席を勝ち取ったからだと理解し、見遣る葉書の不参加欄にサインをしかけ。
『おめでとうございます! ドクター!!
タキシードとか新調しないといけませんね。どうしましょう? この際奮発して、腕のいい洋服屋さんにオーダーメイドしましょうか?』
花の咲き綻ぶように頬を染め、うきうきと話を進める、大変浮かれた助手の笑顔に、総館長はサインの手を止めた。羽ペンを片手に、丁寧な招待状から顔を上げ。
『会場、君のうちなんだ? 君も行くの?』
彼女の母親にも会っておいた方がいいだろうか、そんなことを思いつつ、ソフィレーナを見る。
どちらにせよ彼女が行かなければ不参加。ケルッツアのそんな心情など気づかず、ソフィレーナは顎に指をあて、少し考えてから、にっこりと答え返した。
『......じゃあ私、貴方を出迎えますね。会場とか、少しご案内しますよ』
ケルッツアはこの言葉で、春の宴への参加欄に丸をし、礼儀に則った返信を返している。
不幸なこととして、彼は彼女へ宴への出席の有無を問い、彼女は彼に実家への帰郷の有無を答えていたが、その認識のずれは、今も尚正されることなく。
ケルッツアは、以上の記憶を思い返し、一つ、ため息を吐いた。余り好まない席でも彼女と昼食でも共にしながらならば、楽しめるかと。思っていたのに。
あおい、ドレス。
心の中に緩やかに湧き上がりずっとある、静かな哀しみに灰色の眸を揺らし、それでも、見下ろすドレスの花の中に、薄青色を捜して視線をさまよわせる。
しかし、幾度見ても、何度捜しても、見つからないものは見つからない。
逡巡、そこいらの人に訊こうかとも思ったが。
誰かに聞くだって? この国では奇異な目で見られる地位にいる彼女のことを?
ついに彼は、帰るべく手すりから身体を離し。
「もし?」
掛けられた柔らかな中高音に、ぼんやりと顔を向けた。そして、氷雨に打たれたときの茫洋とした心地から、わずか、浮上する。
「あ......そふぃー、レーナさんのお母上。先ほどは」
三時間余り前、楽しく談笑していた相手の顔に、ぺこりと頭を下げた。
彼に声を掛けた、ダリル家の元当主にして宴の主催者の一員であるソフィレーナの母親、マリアーナ・ド・ダリルは、白いサテンに、ドレスと同色の茶色の刺繍を施したヴェールから、老いてなお輝く、今は美しく結い上げた蜜色の長髪を覗かせ、見目の良い顔立ちを笑みに染めている。
「楽しい時間でしたわ。私も、あの子のことを伺うことができて嬉しく思っておりましたの。
......あの子をお捜しですの?」
おっとりとした動作で小首を傾げ、短いレース製の手袋越し、繊細な指先を卵のような曲線を描く頬に当てると憂いの表情を見せた。
わずかつり目気味の一対の目元、長い蜜色のまつげは深くしとやかに特徴的な虹彩に掛かっている。
目鼻立ちのよく整った彼女の顔は、女神と謳われるにふさわしい魅力を湛えてケルッツアを見ていた。
そんなマリアーナの、実は作られた表情を見、濃い紫が大半を占める虹彩の下の方にほんのわずかある栗色を見つけ、親子だなぁ、などとぼんやり思いつつ、ケルッツアはいまだソフィレーナに逢えない由を、ぽつり、と漏らす。
その調子は、彼自身に自覚がなくとも。
「まあ、それでこんなところでぼんやりと?」
声ばかり憂いに満ちた音色で、マリアーナは目の前の壮年近い、己と年も近いだろう男性に、その実喜色の目を向けた。
かつてとはいえ、国一番と讃えられた美姫を目の前にして、ケルッツアは本当につまらなそうに斜め下手を眇め見るばかり。
常識の範疇に収まった程度とはいえ、まるで拗ねているかのような口ぶり、態度を示す目の前の男に、ソフィレーナの母親は。
「――――あの子に、会いたいですかしら?」
「ソフィーレンス君の居場所を知ってるんですか!?
あ、そ、そふぃ」
女神の問いかけには、息せき切った声が答えた。
大声といわれる音量に近い声で期待を返したケルッツアは、ついで、己の失言にあたふたし、酷く掠れた声で訂正を試みる。
そんなケルッツアの、それでも尚嬉しそうな、生気を取り戻した様子に、マリアーナは、可愛らしく驚いていた顔をとろけそうな笑みに変える。
「その呼び方、存じておりますわ。あの子からよく聞かされておりますもの」
目の前の、己と年の近い男性の忙しなく変わる顔色など構うことなく。朗らかに、己の娘がその呼び名に好意を持っていることを話し出した。
しどろもどろな総館長を置き去り、一方的に喋ると。
「......お客様に、こんなことを頼むのは失礼なのですけれど......」
豪華絢爛な大広間から緋色の暗幕一枚、扉一つ隔てたその場所は、隅の方に段ボールなどが積み重なってはいるものの、楽屋裏としては比較的整理されていた。
「これを持っていけば良いんですね?」
ケルッツアの目の前には、キャスター付きの給仕棚がある。
銀の取手の部分には一重咲きのロームエッダの花が彫り込まれ、部屋を照らすオレンジの蛍光灯に美しい反射を返していた。
真っ白なテーブルクロスを掛けた給仕棚に乗る中皿五枚には、節度は守れど文字通り、てんこ盛り、状態で、会場で振る舞われている料理が湯気の勢いもよく、種類も豊富に揃えられている。
蓋付きの、保温性の高い容器に入れられたスープも横に三種類。テーブルクロスの下には、飲み物も幾瓶か入っていた。
二メートルと少しの背を屈め縮め、そんなことを確認する紺色のタキシードを着た壮年の男性に、茶色のドレスを纏った婦人は、軽く束ねられたダリルの象徴花、一重咲きのロームエッダの花を両手で支え持ち、うなずいた。
「ええ。こちらの通用口から。お願いいたしますわ。
あの子の部屋は......」
茶色のドレスをゆるりと捌くと、部屋の先、召使いなどが出入りする口とはまた違った、両開きの扉を片扉だけ開いた状態で固定する。
と。
「ママ! コレも美味しかったわ! これも追加し、
本日はお越しいただきまして恐悦にございます。いつも妹がお世話になっておりますわ。ドクター・ディス・ファーン様」
給仕棚のキャスターの固定具も外し、そちらに進もうとしたケルッツアの背後、高く澄んだ声が人物ごと勢いよく飛び込んできた。
彼が振り向くと、薄く透けるサテンの白地に新緑のような黄緑色の刺繍を施したヴェールを頭に被り、刺繍と同色の肩なしドレスを身に纏って優雅に腰を折る蜜色の髪の美女と、出来立てと思われる料理の乗った皿を、今渡されました、という状態で持ったまま頭を下げさせられている蜜色の髪の美男がいる。
「あ、えと、ティアレーヌ姫君お招きありがとうございます」
ケルッツアは、まず黄緑色のドレスで着飾られた、ソフィレーナの姉、女優としても現在の美姫としても有名なティアレーヌ・ド・ダリルに頭を下げ返した。
ついで、彼女によって頭を押さえつけられた、現在の美姫であるティアレーヌと髪型以外は瓜二つの、灰色のタキシードを着た男性を見る。
ティアレーヌがにこにこと続けた。
「まあ、私のことをご存知ですの? 嬉しいわ。
こちら、私の、弟、の、クラウェンドと」
心なし、弟、という単語に力が入ったティアレーヌの言葉と重なるように、濃い白地に、ダリル直系の色として知られる一等濃い紫水晶の濃さを写し取ったような刺繍が施されたヴェールを纏う、銀の短髪の美女が、ケルッツアの前に進み出る。
母の美しさに父の血筋を混ぜた、思慮深く気高い麗しさを持った顔立ちと謳われる女性に、ケルッツアは相手より一瞬早く応じた。
「あ、お招きありがとうございます。サラフィーネ当主殿」
サラフィーネと呼ばれた、ソフィレーナの二番手の姉にして、この宴の主催者でもある彼女は、その紫色のシックなドレスを美しく捌くと、凛とした気品と共に腰を折り、中低音の心地よい声で挨拶を返した。
「いえ。お越しいただきまして恐悦至極に存じます。ディス・ファーン様。
宴は楽しんで......あれ?」
風評どおり、思慮深さと麗しさを兼ね備えた顔でケルッツアを見、急に、子供のように目を丸くする。
娘の驚きをなんと取ったか、彼女に寄り添ったマリアーナは、サラフィーネの、肌の露出を控えた紫色のドレスの肩に手を置くと、囁くように微笑んだ。
「レーナとね、これから楽しむところなのよ。サラちゃん」
そんな、女神たちのやり取りの裏で。
「あの、ディス・ファーン様」
蜜色の短髪の美男子、ソフィレーナの兄にしてティアレーヌと瓜二つ、おそらく双子だろうクラウェンド・ド・ダリルは、ケルッツアにそっと話しかけた。
ケルッツアは、その声に振り向くと、ぺこりと頭を下げる。
「クラウェンド皇君。本日はお招きいただきまして」
流れるような挨拶に、クラウェンドは両手を振ると気さくな笑みを浮かべた。
「いえ、楽しんでらっしゃるようでなにッ! ッ!?」
突如、後ろから首根っこを掴まれ、声は漏らさないまでも目を白黒させる。彼の首を掴んだ手は、息つく間もなく鳥の濡れ羽色のタキシードを着た腕に変わった。
「楽しんでなんてないよ。ね、ケルズ!」
「グラン!?」
この頃は専ら電話越しに聞く声の主に、ケルッツアは驚きと親しみを込めてグランと呼んだ彼を見る。
いつの間にこの場に加わっていたか、ケルッツアの大学時代の友人でもある、燃え立つような赤毛と茶色い眸を持った大柄細面な男性、グルラドルン・ド・シェスラットは、カラスの濡れ羽色のタキシードの片腕をクラウェンドの首に絞める様に回したまま、笑っていた。
「し、シェスラット文化庁長か!?」
「おまえいたのかー。久しぶり。なんだ一言ぐらい」
クラウェンドの苦しげな声は、懐かしそうなケルッツアの声にかき消された。
グルラドルンもケルッツアにふざけて答え返す。
「あ、そーいうこというんだ? 君こそぼくの前素通りしてきょろきょろきょろきょろしてたじゃん。
あーもー式には呼んでよー?」
片腕をクラウェンドの首に巻き付けたまま、もう片方の腕でケルッツアを肘でつつくグルラドルンに、ケルッツアは、つつかれるたび体を揺らしつつ首を傾げる。
そんなケルッツアに、グルラドルンは邪気なく笑い返した。
腕を叩くクラウェンドの手に気づき。
「ああ!? おお麗しき我らが女神!
ご挨拶が遅れまして大変失礼いたしました!」
その声なき叫びを完膚なきまでに無視して、腕に抱えたやんごとなき皇君の母足たる人物に大げさに頭を下げ、戯曲よろしく挨拶する。
その動作に強制的につきあわされるクラウェンドは、苦しい、痛い、離してください、とグルラドルンの腕を叩くが、全く効果はない。
そんなグルラドルンの態度と、息子の置かれた状態に。
「まあまあ、シェスラット殿もご機嫌うるわしゅう。
クー、シェスラット殿はお話があるのですって」
マリアーナは同じく戯曲よろしく返すと、朗らかに息子へ話しかけた。
その一声で、クラウェンドはがっくりとうなだれる。
抱え込んだ相手の様子など知らないとばかり、グルラドルンは相変わらず動作も声も大きく、マリアーナに向かって深々とお辞儀を返す。
「姫君の御慈悲誠に恐悦至極!! では、大切な皇君お借りしていきます!
さあ、皇君、ちょっーっっとこちらへこちらへー」
そして、ひきつった顔のクラウェンドを引きずり、召使い用の通用口へと消えていった。
その背に、ケルッツアは間抜けた声をかける。
「あー......じゃーなーぐらーん」
遠くから、間抜けた声が返る。
「じゃーねーけるーず。またゆっくりはなそーねー」
マリアーナは、にこにこと、クラウェンドが持っていたはずの料理皿を給仕棚の上に乗せ、背を屈めるとテーブルクロスの下に白い布で包まれた匂いも香ばしいパンを、小さなバスケットいっぱいに詰めて乗せる。
そんな母親の姿に、ティアレーヌとサラフィーネは顔を見合わせ、ケルッツアがこの場にいる意味を悟るとマリアーナに詰め寄った。
「ママ? まさかお客様に」
困り顔で早口に囁くティアレーヌに、マリアーナは、だって、と少女然と頬に手を当て、同じく困ってみせる。
「とても寂しそうな顔で、会場を眺めてらっしゃるのだもの。薄青のドレスを捜しているのですって」
そんな母の言い分に、困惑したサラフィーネが、わずか詰問口調で問いかけた。
「良いのですか!? レーナは」
「いつも会ってらっしゃるのだもの。なにを隠す必要があって?」
笑みを湛えたまま、しら、と問い返すマリアーナの、現役を退いてなお漂う当主としての威厳に、娘二人は再度、顔を見合わせ。
「ママがそういうのなら」
そんな言葉を合図に、女性陣は話を終わらせている。
もしかして、ソフィーレンス君の地位のことで......?
ケルッツアは、女神たちのやり取りで、そんなことを少し考えたが。
話を終えたマリアーナは、ケルッツアに向き直った。褐色のてのひらに地図の書かれた可愛らしいメモ紙を渡すと、にっこり。
「では、こちらをお願いできますかしら?」
彼女の声を合図に、今まで料理やら何やらをさらに積み込んでいたティアレーヌとサラフィーネが給仕棚から離れる。揃ってケルッツアに微笑んだ。
ティアレーヌが口を開く。
「下には茶席も設けられるよう、ポットなども入れておきました。あの子をお願いしますね。ディス・ファーン様」
続けて、サラフィーネが深々と、一際丁寧にお辞儀をした。
「お会いできたことを光栄に思います。本日は誠にありがとうございました。
妹をよろしくお願いします」
老いてなお麗しいマリアーナ。
彼女の若い頃にそっくりだというティアレーヌ。
マリアーナの伴侶の美しい銀髪を引き継いだ現皇当主サラフィーネ。
三人の女神は、褐色の肌の流民に微笑む。
ある、確信を胸に。
この世のものならぬ美女達の見送りに軽く会釈を返して、ケルッツアは給仕棚を押し、扉の先、抑えられた色合いの深紅の絨毯に足を踏み出した。