小学生の記憶 下
自分を殺して手に入れた、剥がれない『仮面』と冷たい平穏
小学生の記憶 下
そんな何年後か経ったある日、教室の隅の方で窓の方を見て物思いにふけていました。ふけていたというよりも、日常の中にいただけでした。当時の私にとっては。いつもの男のグループから「情報共有ノート」という言葉が聞こえてきました。鮮明にそこだけ覚えているので、正しかったと思います。なんて、聞き惚れてしまいそうな言葉の響きだったのでしょう。気づいたら、私は椅子から離れて、そのグループの傍まで寄っていました。私は、思わず、「何それ?」と息を吐くようにその言葉が出ていました。そのグループの会話が数秒ほど止まりました。そのグループからすれば、思ってもみなかった客だったのでしょう。なんせ、そのグループと話したのはこれが初めてなのですから。情報共有ノートとは、思ったこと、感じたこと、その日あったことを自由に書き記し、次の人に回すことを繰り返す、いわゆる交換日記のことです。これは、小学校を卒業するまで続きました。私は、番が回ってくるのを楽しみに待っていました。書く話題は何度も思考を凝らしました。これは、もう何も失いたくなかったからかもしれません。そして、他の人が書いてあることを読むのが楽しみでした。そこには、私の知らない世界が広がっていたのですから。私は、自然とそのグループに溶け込んでいました。放課後や休みの日も一緒に遊んでいたことを覚えています。小さな田舎街での、小さな秘密基地。私にとって、そこは理想の空間でした。少しずつ自分に自信がついてきました。情報共有ノートをする人は、四人から六人に増えていました。 朝、教室に入ると「おはよう」と声をかけられるようになりました。以前の私なら、そのことが一日中、頭からこびりついていたでしょう。いつの間にか、そんな風には思わなくなっていました。私は、たいそう喜んだことを覚えています。今思えば、あれほどまでに人数を気にしていた自分が可笑しく仕方ありません。四人から五人になったところで、微々たる量にすぎない。五人が六人になったところで、私の人生が六分の一ほど幸福になったわけでもない。それなのに私は、六人という数字が勲章のように誇らしく思えてきたのです。私は、「仲間」と呼べるものの中に居ることが自慢気に思えてきました。放課後になると、私たちは決まって学校の近くにある石でできた椅子のある小さな公園に集まっていました。小学生六人がそこで鬼ごっこをするには十分すぎる広さでした。いつから、ここで遊ぶようになったかは覚えていません。遊具もなく落ち葉だらけの場所。公園と呼ぶにはあまりにも粗末なものでした。しかし、私にとってそこは誰にも邪魔されたくない領域でした。私は、その空間が大好きでした。その日のノートに私は、「このままずっと続けばいいのに」と書きました。書いた後、何度も読み直し、黒く塗りつぶしました。「ずっと」なんてあるはずのない。神の領域である。「信じる」ということ自体、弱者がすることだ。当時の私はそう豪語していました。信じてしまえば、苦しくなるだけ。愛せば愛すほど不幸になるだけ。期待してしまえば、裏切られたときの反動が大きいだけ。私は、ずっとそう思って生きてきました。けれど、公園で遊んでいるときや学校でのみんなの無垢な笑顔は大好きでした。もちろん、今まで言ったことなんてありません。言ってしまえば、このガラスの橋で行き来できる足場が崩れ落ちそうな気がしていたからです。私は、自分から逃げていたのか、いつの間にか仮面を被るようになっていました。「変わった子」と思われないように。この方法は、うまくいきました。私が、授業中に当てられて答えられなくても、この仮面のおかげで否定をする者は現れませんでした。少なくとも、聞こえませんでした。私は、ようやく生きていく術を身に着けたと思っていました。私は、より一層、この小さな社会に馴染むために放送委員会に入りました。放送委員会での仕事は、朝の放送や給食の時間のときの放送、そして給食のときの放送委員の食べる給食を放送室に持っていくことでした。私の放送は、人気がありました。何もかもうまくいっていました。 そんなある日、私はいつものように放送委員の人に給食を運んでいました。いつものような「ありがとう」。私は、この言葉が言われるたびに生きている心地がありました。教室に帰ると、私の机の周りが何やら賑やかでした。私は、何の違和感も持たずに近寄りました。すると、私の給食の中にゴキブリが浮いていました。私は、目の前に大きなヒビが入り、その瞬間だけ重力が十倍に思えたのです。私は、この日給食を食べませんでした。これは、後から分かったことなのですが、首謀者は佐々木とその友人の三名でした。私は、そこから学校に行くのを拒むようになりました。しかし、毎回、同じサイクルで情報共有ノートは回ってきました。そこには、心配の言葉でいっぱいでした。私は、独りベッドの上で泣いていました。私はそのノートの返事に「このままずっと続けばいいのに。」と書きました。不登校になってから決まって、私が書いたノートを取りに来る人物がいました。私は、彼にそのノートを渡しました。私はまた、独りで考えました。なぜ、こんな事が起きてしまったのか。どうして、私なのか。相手の気持ちなんて分かりやしないのに、考えようともしていました。私は、考えるのをやめました。深く考えることが嫌いになりました。分からないものを分からないままにしておくのは、案外楽なものだと知っていたからです。世の中には、分からないままにしておいた方が幸福なことがたくさんあります。私は、母や父、姉の助けがあって一ヶ月ぶりに学校に行くことを決意しました。教室に入ると、いつものように「おはよう」と声をかけられました。私は戸惑いもなく「おはよう」と返しました。それだけのことです。けれど、その日は妙に嬉しかったのです。私は、自分でも嫌になるくらい単純な人間でした。誰かに挨拶されれば嬉しい。誰かに誘われれば嬉しい。自分が書いたノートを見てもらうことは嬉しい。そして、それらがなくなることを考えると、途端に怖くなります。それなのに、恐れることより欲望が勝っているのです。幸福というものは、案外こういうものなのかもしれないと思いました。大きな幸せなんて必要なかったのです。私は、今まで勘違いしていた自分が可笑しくなりました。道徳の教科書なんか教えてくれない当たり前のこと。私は、その人の当たり前がようやく自分の当たり前に変わったことが大変、喜ばしいことでした。しかし、この喜ばしいことを誰にも共有できないということが嫌でした。惨たらしいとも感じました。伝えてしまえば、嗤われると思っていたからです。
「当たり前じゃん」
という言葉にも恐れていたからです。私は、人から言われて何気ない一言が妙に引っ掛かることがありました。その引っ掛かりは、私の仮面を何度も剥がそうとしていました。仮面が剥がれると、人の顔を見るだけで吐き気を催すことが多々ありました。それは、家族の顔を見たときもです。決して、相手のことが嫌いだからということではありません。私の、臆病さからなることです。私は、臆病な人間でした。
しかし、そう認めるまでには随分と時間がかかりました。私は長い間、自分は人間が嫌いなのだと思っていました。人間の顔を見ることも、人間の声を聞くことも、人間の作った社会の中で生きることも、すべてが嫌いなのだと思っていました。
けれど、それは少し違っていたのかもしれません。 本当に人間が嫌いなら、私は「おはよう」と言われたことを、あれほど嬉しく思わなかったでしょう。誰かに誘われることを、あれほど恐れなかったでしょう。そして、誰かに嫌われることを、あれほど苦しく感じることもなかったでしょう。 私は人間が嫌いだったのではありません。 人間に嫌われることが、怖かったのです。 もっと正確に言えば、人間を信じてしまった自分が、あとで傷つくことが怖かったのです。だから私は、嫌いという言葉を使いました。嫌いと言ってしまえば、期待しなくて済むと自負していたからです。期待しなければ、裏切られたと感じることもありません。そう考えていた私は、自分の臆病さを立派な思想のように飾りつけて磨いていたのだと思います。
今思えば、私は頗る滑稽な人間でした。私は、気づいたら小学校を卒業していました。監獄で行かされていた学校は、今や何の違和感もなく入れるただの施設になっていました。私は、勝手に自分の価値観で物事を決めていただけに過ぎなかったのです。