第1話:壁のない部屋と一枚の似顔絵
第1話:壁のない部屋と一枚の似顔絵
その部屋の無塗装の壁には、飾られた感謝状が一枚もなかった。
床の隅に丸まり、分厚い百科事典の隙間に挟まり、あるいは脱ぎ捨てた制服のポケットから皺くちゃになって出てくる。警察署長名義の表彰状、地域の民生委員からの感謝状、市章が金箔押しされた立派な台紙――。雑に扱っているわけではない。ただ恵太自身が、「他者からの評価」というものに恐ろしいほど無頓着なだけだった。
だが、文机の真上、目線の高さにある古い壁紙にだけは、一枚の紙が画鋲で深く留められていた。
子どもが描いたクレヨンの似顔絵だ。紙の半分ほどもある大きな目をした恵太と、その手のひらを両手でしっかりと握りしめて笑う幼い少女。裏返せば、拙く震えるひらがなで『けいたおにいちゃんありがとう』と記されている。
二年前の秋、城下町の複雑な路地――旧家街の入り組んだ細道で迷子になっていた幼子を、恵太は交番まで二時間かけて届けてやったことがある。
急ぐ理由がなかったからではない。日が落ち、宍道湖から冷たく湿った風が吹き抜ける中、泣き疲れた少女が「まだ、あるきたい」と小さな声で呟いたからだ。
恵太は咎めることもなく、少女の小さな歩幅に合わせて、松江城の外堀沿いを遠回りした。大人はそれを「危険な連れ回し」と呼ぶかもしれない。だが、家にも帰れず暗闇に怯えていた幼子が、薄暗い町の中で唯一手繰り寄せた温もりを、彼は途切れさせたくなかったのだ。
川の堰止めで溺れていた老人を引き上げたときの賞状も、振り込め詐欺の受け子をそれと知らずに引き留めたときの感謝状も、恵太にとっては路傍の石ころと変わらない。
困っている人間が、目の前にいた。だから手を差し伸べた。
理屈も損得もない。ただそれだけのことだった。
雲州松勝(まつかつ)家――かつて奥出雲の地でたたらの炉を焚き、山を削り、鉄師として絶大な財と権力を誇った一族の血を、恵太は引いている。
山を殺し、鉄を産み出し、地域社会そのものを支配してきた歴史を持つ血筋だ。生まれた瞬間から不自由ない環境と財力が与えられていたが、武家屋敷の面影を残す本邸で父から注がれるのは、「次期当主」としての冷徹な品定めばかりだった。
「恵太、鉄は山と火の犠牲の上にしか生まれん。松勝の人間は与える側であらねばならんのだ。人に安易な情をかけるのは施しであり、己の責任の放棄だ」
幼い頃から聞かされた父の教えに、恵太の心が頷いたことは一度もない。彼が求めたのは、最新のゲーム機でも、誂えの服でも、誰かを見下ろす権力でもなかった。
「目の前にある不条理を、そのままにして立ち去らないこと」
それだけだった。冷酷に利益と秩序を追うたたらの血に対する、これが恵太なりの無言の抗いであった。
十四歳、中学二年生。
学校での恵太は、クラスで特別目立つ存在ではない。体格が大きいわけでも、喧嘩が強いわけでも、成績が飛び抜けているわけでもなかった。
放課後の教室でくだらない雑談に花を咲かせる輪の外側に、彼はいつも静かに座っている。だが、クラスの誰もが知っていた。部活の道具が壊れた時、誰かが理不尽な教師に縮こまっている時、家庭の事情で暗い顔をしている時――恵太は何も言わずにその横に立ち、当たり前のように問題を肩代わりしていく。
頼りがいがあるから――というよりは、彼の前に立つと、誰もが不可解な安堵感を覚えるのだ。「この男なら、自分が世界に見捨てられても手を開放しない」という、根拠のない確信。
彼が差し出す手には、優位性も同情もない。ただ、凍えた爪先に温もりを分け与えるような、純粋で平等な承認だけがあった。
ガラガラと音を立てて、教室の引き戸が開く。
「恵太、また残って日誌書いてんのか? お前、今日の当番じゃねえだろ」
腐れ縁の同級生が呆れた顔で声をかけてくる。恵太はペンを止め、少しだけ眉を下げて笑った。
「当番のやつ、塾のテストがあるって焦ってたんだ。大した手間じゃないよ」
「お前な......そういうとこだぞ。損ばっかりして」
「損とか得とか、考えたこともないよ」
恵太は日誌を閉じると、使い古した鞄を肩にかけた。
校門を出ると、水郷特有の湿った夕風が頬を撫でる。
宍道湖の向こう、赤黒く染まる茜色の空が、街全体を影絵のように浮かび上がらせていた。かつて鉄師たちがたたらの炉に風を送り込んだように、この街にはどこか重く、悠久の時間を抱え込んだ風が吹く。
両ポケットに手を突っ込み、少し歪んだ制服の衿をなびかせながら、恵太は今日も夕暮れの街を歩き出す。
古い堀沿いの石畳を叩く靴音が、静かに響く。
歩くその先、暗がりが濃くなる路地の奥で、どのような運命の渦が巻き起ころうとしているのか。そして、彼が背負う鉄師の血と、彼自身の抱く歪なまでの善性が、いかにしてこの世界を揺るがすことになるのか――今はまだ、誰も知らない。