第8話
いつもの通りより、ここは静かすぎた。物乞いの声も、争う怒鳴り声すらない。ただ雨上がりの水音だけが、あちこちで小さく響いている。
崩れた塀の際に、白いものが転がっているのに、エナは目を留めた。獣の骨ではない。人の腕らしきものだった。肉はほとんど残っておらず、関節の窪みまで丁寧に磨き上げられたように白い。野犬が食い散らかしたにしては、あまりに手際が良すぎた。
誰も足を止めなかったが、それぞれの歩調が、わずかに慎重になった。エナは腰の帯に押し込んだ巾着の位置を、無意識に指先で確かめていた。ジグの視線が絶えず左右に動き、クレスは懐に忍ばせた小刀の柄に指を添えた。トビアスは、いつもより一歩、ガロに近い位置を歩いていた。
「ここからは二手に分かれる」
ガロが足を止めずに言った。
「ジグ。エナと行け」
残る三人は、無言のままガロの後ろに続いた。力のあるガロと、目の利くクレス、そして口の回るトビアス。守りに向いた組み合わせだった。一方でジグとエナは、動きの速さだけで切り抜ける側だった。
二手はそのまま、反対の路地へと分かれていった。
ジグは軒先を一つ一つ覗きながら、崩れた壁の隙間に目を走らせていく。エナはその後ろから、地面に残る足跡を目で追っていた。人の出入りがある場所には、必ず何かしらの痕跡が残る。踏み固められた土、動かされた瓦礫、雨のかからない位置にだけ積もっていない埃――そういうものを、エナは長年の勘で拾い集めていた。
三軒ほど覗いても、どこも同じだった。屋根が抜け落ち、雨ざらしになったまま何年も放置されているのが一目で分かる。人の気配など、微塵もなかった。
四軒目で、ジグの足が止まった。
「ここ、何か違うな」
屋根の一部が、不自然に補修されていた。焼け残った板が、ちぐはぐな向きで重ねて渡してある。誰かが手を入れなければ、こうはならない。
二人は顔を見合わせることもなく、どちらからともなく足音を殺した。
戸口の代わりに垂らされた、色褪せた布をそっとめくると、薄暗い中に、老いているのか、それとも痩せこけてそう見えるだけなのか判然としない女が、うずくまるようにして倒れていた。
エナとジグは足を止めず、覗き込んだだけで踵を返そうとした、その時だった。
女が弾かれたように振り向き、伸びた前髪の下から覗く目が、獲物にすがりつく野犬のそれに変わった。
「アタシから盗るなぁ!!!」
痩せた腕が、思いのほかの速さでジグの足首を掴む。エナは間を置かず、女の腹を蹴り飛ばした。女は呻き声を上げて壁際まで転がったが、それでも起き上がろうとし、部屋の隅にある何かへ、両腕で覆い被さるようにしがみつく。銅貨か、それとも何かの布切れか、見届けないまま、二人は廃屋を後にした。
「お前、逃げ足に胡座かいてんだろ。油断してんだよ」
エナが言うと、ジグは鼻を鳴らした。
「油断なんかしてねえよ。あんなの、振りほどけたに決まってんだろ」
軒先を覗きながら、ジグがふと思い出したように言う。
「そういや、お前とトビアスも同じ塒だよな。あいつ、なんでお前に貸したんだ?」
「そんなの知らねえよ」
エナは足元の泥に残る足跡から目を離さないまま、そう返しただけだった。
実際のところ、理由らしい理由はなかった。トビアスは、行き場をなくして倉庫の前をうろついていたエナを見て、自分と歳が近そうだということと、他の痩せこけた子供たちよりいくらか血色が良いということだけで、隅の一角を貸すことに決めたのだった。この歳まで血色良く生き延びているなら、それだけの修羅場をくぐってきたということでもある。腕っぷしに自信のないトビアスにとって、それは何より都合の良い後ろ盾になった。
女の廃屋を出た後も、二人はなお二軒ほど覗いて回った。どちらも同じだった。埃を被った瓦礫と、動く気配のない静けさだけが残されている。
結局、それらしい手がかりはどこにもなかった。残るのは、もう灰坂しかない。