第6話
「先ほど見て参りましたが、天井の板がひどく染みておりましてな。あれは梁まで水を吸っておりましょう。このまま夏の雨に入れば、抜けますぞ」
見て参りました、と当たり前のように言う。待っている間、この男は館の中を歩き回っていたらしい。侍女たちが止めなかったのではなく、止めきれなかったのだろう。
「明日にでも職人を寄越しましょう。腕は確かな者です。手間賃のことはお気になさらず」
断るべきだと思った。思いながら、言葉が出てこなかった。
北の廊下の雨漏りは、去年から続いている。王城の管財に届けは出した。返事はまだない。おそらく永久に来ないだろう。この館の窓硝子も、玄関の扉の建て付けも、二年前に直った時のことを思えば、誰の手によるものかは分かりきっていた。
「......お手数をおかけします」
「なんの。手前は、亡き陛下の御代から、こういうことばかりしております」
ゴドウィンは笑って、また杯に手を伸ばした。
その手つきに、慣れが滲んでいた。
城下に、この人の名を冠した店が幾つかあるという。酒場と、食堂と、それから娼館。行商の女が声を潜めて話していた。ハーロウ卿は毎晩のように女を館へ呼んでおいでだと。侍女たちも、名を出しては互いに目配せをする。
ハーロウ家は代々の男爵だという。それより上へ昇ったことは、一度もないと聞く。貴族院で軽んじられているのは家格のせいばかりではないらしい、という噂もあった。
真偽を確かめたことはない。確かめる立場でもなかった。ただ、この人が誰かの口に上るとき、そこには必ず薄い笑いが混じっている。それだけは、幾度も見てきた。
「時に、姫殿下。本日はフィオーラ様のところへ」
言われて、アスタリアは掌の木の実を思い出した。まだ握ったままだった。
「ええ。ひと月ぶりに」
「それはそれは。ご機嫌はいかがでしたかな」
「変わりありませんでした。庭の花のことを、ずっと話してくださって」
そう答えながら、あの一角のことを思う。花壇の前から動かない子。池のほとりへも、果樹の奥へも行かない子。生垣の向こうがどうなっているのか、知らないままでいる子。
「結構なことでございます。あのお年頃は、庭がひとつあれば世界が足りますからな」
悪気のない言い方だった。だからこそ、返す言葉に迷った。
ゴドウィンは杯の底を眺め、それから思いついたように顔を上げる。
「手前も一度、ご挨拶に伺いたいものですな。次にお運びの折には、ぜひお邪魔を――」
「おじさま、」
「――いや、失敬」
言い終わらぬうちに、ゴドウィンは声を上げて笑った。
「手前ごときが伺える場所ではございませんでしたな。いや、まったく」
言いながら、残っていた酒を飲み干す。笑い声だけが、天井の高い部屋によく響いた。
それきり、二人とも荘園の話はしなかった。ゴドウィンは職人の手配のこと、近頃の城下の物価のことを、こちらが尋ねてもいないのに話し続けた。アスタリアは相槌を打ちながら、時折窓の外を見た。
日が沈みかけた頃、ゴドウィンはようやく腰を上げた。
「長居をいたしました。姫殿下も、今日はお疲れでございましょう」
階段を降り、玄関広間を抜ける。石畳に出ると、外はもう薄い藍色に沈んでいた。
「明日、朝のうちに職人を寄越します。北の廊下と、それから東の窓も見ておきましょう」
「東の窓も、ですか」
「先ほど、建て付けが怪しゅうございましたので」
やはり、館じゅうを歩き回っていたらしい。
ゴドウィンは踏み台に足をかけ、片手で扉の縁を掴んで身体を引き上げた。乗り込む拍子に肩が枠にぶつかり、御者が慌てて振り返る。本人は気にする様子もなく、窓から顔を出して、それでは、と一声かけた。
車輪が石畳を軋ませて動き出す。
背後で、侍女の一人が小さく息をつくのが聞こえた。アスタリアは聞こえなかったふりをして、門の方へ遠ざかっていく車体を見送っていた。