ホーム愁月のノクトゥーラ第3話
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第3話

 ここへ足を運ぶのは、久しぶりのことだった。

 母が没したのは、ひと月ほど前になる。病だと聞かされた。側室の身であったから、元より頻繁に会えたわけではない。それでも、会いに行けば必ず、優しい声で名を呼んでくれる人だった。喪の間は誰とも会わずにいたいと、フィオーラには短い書簡を送っただけで済ませていた。

 王都を出てからというもの、窓の外の景色は石畳から街道へ、街道から木立へと移り変わっていった。

 馬車を降りたアスタリアを出迎えたのは、木組みと白い漆喰の壁が塵一つなく続く、ささやかな館だった。玄関先の花壇には、きちんと刈り込まれた低木が並んでいる。豪奢さはどこにもない。ただ、掃き清められた石畳と、手入れの行き届いた生垣だけが、ここに暮らす者たちの心遣いを物語っていた。

 フィオーラは、前王ガレン・ヴェルダリアの忘れ形見だった。父を同じくする妹にあたるが、母は違う。フィオーラの母は正妃であり、アスタリアの母は側室だった。両親を相次いで亡くしたフィオーラは、まだ物心もつかぬうちに、この館へ移されている。継承の順位でいえば、アスタリアが三番目、フィオーラが四番目になる。数字の上でのことでしかないと、アスタリア自身は思っていたが。

 ふと、自分の館を思う。王城の白亜の威容から少し離れた区画に建つ、あの古い石造りの建物。壁のあちこちに蔦が這い、庭の手入れも行き届かないままだった。ちょうど、自分の立場と同じだと思った。誰も彼女に、庭師の一人すら十分に割いてはくれない。それに比べて、この館は、ずっとささやかで、それでいてずっと大切にされている。

 案内された裏手の庭園には、初夏の柔らかな風が吹き渡っていた。刈り込まれた生垣の向こうから、蜜蜂の羽音がかすかに聞こえてくる。白いテーブルクロスの敷かれた丸テーブルの周りには、焼き菓子を並べた皿と、湯気の立つポットが置かれていた。少し離れた木陰には、フィオーラ付きの侍女が二人、声をかけられるまで動かないよう、静かに控えている。

 「アスタリア様、お加減はもうよろしいのですか」

 テーブルの向こうで、フィオーラが小さな頭を傾げてそう尋ねた。まだ六つの彼女には不釣り合いなほど丁寧な物言いだったが、それが妙に似合っていた。風がふわりと吹き抜けるたびに、亜麻色の巻き毛が揺れ、幼い頬にかかる。

 「お手紙をいただいてから、ずっと気がかりでした」

 アスタリアは一瞬だけ言葉を探し、それから微笑んだ。銀に近い金の髪が、日差しを受けて淡く光る。緑がかった灰色の瞳は、いつも通り穏やかだったが、その奥にはどこか、言葉にならない空白のようなものが滲んでいた。

 「心配をかけてしまいましたね。もう大丈夫ですよ」

 「それより、フィオーラは近頃どうですか。楽しいことがあったなら、聞かせてほしいの」

 「あります!」

 フィオーラはぱっと顔を輝かせて身を乗り出した。テーブルの上の焼き菓子に伸ばしかけていた手を止め、指を折りながら話し始める。

 「あのね、庭師のおじいさまが、わたしの花壇に苗を分けてくださったの。まだ小さいけれど、白い花が咲く子なんですって。それから、乳母が新しいご本を読んでくださって――遠い国の湖に、姿を見せない鳥が棲んでいるお話。誰も本当の姿を見たことがないけれど、鳴き声だけは誰もが知っているの。不思議でしょう?」

 語るほどに、フィオーラの言葉は途切れなく続いた。庭の花、乳母の読み聞かせ、庭で拾ったという光沢のある木の実。彼女の日々の楽しみは、そのほとんどがこの小さな屋敷と庭の中で完結していた。王都の喧騒も、宮廷の駆け引きも、彼女の知る世界には届いていない。

 アスタリアはその一つ一つに、大袈裟なくらい相槌を打った。焼きたての菓子から立つバターの香りと、湯気とともに漂う紅茶の匂いが、風に混じって鼻先をくすぐる。ふとテーブルの向こうに手を伸ばし、話しながら乱れたフィオーラの前髪をそっと直してやった。

 「その鳥のお話、面白いですね。誰かにも聞かせてあげたの?」

 「兄様にお聞かせしようと思っておりました」

 フィオーラは焼き菓子にそっと手を伸ばしたが、つまむ手前で指を止めた。

 「けれど、この前いらしたときは、すぐにお帰りになってしまわれて」

 膝の上に戻された小さな手が、スカートの布地を意味もなく撫でている。

 「このごろ、お顔の色があまりよろしくないのです。お忙しいのだと乳母は申しますけれど」

 アスタリアは、そう、とだけ答えた。

 オーレン。前王ガレンの第一王子であり、フィオーラの実の兄。継承の順位でいえば筆頭にあたる。父に似て穏やかな人柄だと聞くが、アスタリアが言葉を交わした回数は数えるほどしかない。同じ父を持つとはいえ、母の違う自分は、あの人にとって身内ではないのだろう。この地は、そのオーレンが統べる領地のひとつだった。王宮から遠く離れたこの館に妹を置いているのも、慈しんでのことというより、誰の手にも渡したくないという、あの人なりの思惑だったのかもしれない。

 ひと月も便りを絶ってしまった。この子を寂しがらせた分だけ、今日は長くここにいようと思った。
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愁月のノクトゥーラ作者:Shin
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 ここへ足を運ぶのは、久しぶりのことだった。

 母が没したのは、ひと月ほど前になる。病だと聞かされた。側室の身であったから、元より頻繁に会えたわけではない。それでも、会いに行けば必ず、優しい声で名を呼んでくれる人だった。喪の間は誰とも会わずにいたいと、フィオーラには短い書簡を送っただけで済ませていた。

 王都を出てからというもの、窓の外の景色は石畳から街道へ、街道から木立へと移り変わっていった。

 馬車を降りたアスタリアを出迎えたのは、木組みと白い漆喰の壁が塵一つなく続く、ささやかな館だった。玄関先の花壇には、きちんと刈り込まれた低木が並んでいる。豪奢さはどこにもない。ただ、掃き清められた石畳と、手入れの行き届いた生垣だけが、ここに暮らす者たちの心遣いを物語っていた。

 フィオーラは、前王ガレン・ヴェルダリアの忘れ形見だった。父を同じくする妹にあたるが、母は違う。フィオーラの母は正妃であり、アスタリアの母は側室だった。両親を相次いで亡くしたフィオーラは、まだ物心もつかぬうちに、この館へ移されている。継承の順位でいえば、アスタリアが三番目、フィオーラが四番目になる。数字の上でのことでしかないと、アスタリア自身は思っていたが。

 ふと、自分の館を思う。王城の白亜の威容から少し離れた区画に建つ、あの古い石造りの建物。壁のあちこちに蔦が這い、庭の手入れも行き届かないままだった。ちょうど、自分の立場と同じだと思った。誰も彼女に、庭師の一人すら十分に割いてはくれない。それに比べて、この館は、ずっとささやかで、それでいてずっと大切にされている。

 案内された裏手の庭園には、初夏の柔らかな風が吹き渡っていた。刈り込まれた生垣の向こうから、蜜蜂の羽音がかすかに聞こえてくる。白いテーブルクロスの敷かれた丸テーブルの周りには、焼き菓子を並べた皿と、湯気の立つポットが置かれていた。少し離れた木陰には、フィオーラ付きの侍女が二人、声をかけられるまで動かないよう、静かに控えている。

 「アスタリア様、お加減はもうよろしいのですか」

 テーブルの向こうで、フィオーラが小さな頭を傾げてそう尋ねた。まだ六つの彼女には不釣り合いなほど丁寧な物言いだったが、それが妙に似合っていた。風がふわりと吹き抜けるたびに、亜麻色の巻き毛が揺れ、幼い頬にかかる。

 「お手紙をいただいてから、ずっと気がかりでした」

 アスタリアは一瞬だけ言葉を探し、それから微笑んだ。銀に近い金の髪が、日差しを受けて淡く光る。緑がかった灰色の瞳は、いつも通り穏やかだったが、その奥にはどこか、言葉にならない空白のようなものが滲んでいた。

 「心配をかけてしまいましたね。もう大丈夫ですよ」

 「それより、フィオーラは近頃どうですか。楽しいことがあったなら、聞かせてほしいの」

 「あります!」

 フィオーラはぱっと顔を輝かせて身を乗り出した。テーブルの上の焼き菓子に伸ばしかけていた手を止め、指を折りながら話し始める。

 「あのね、庭師のおじいさまが、わたしの花壇に苗を分けてくださったの。まだ小さいけれど、白い花が咲く子なんですって。それから、乳母が新しいご本を読んでくださって――遠い国の湖に、姿を見せない鳥が棲んでいるお話。誰も本当の姿を見たことがないけれど、鳴き声だけは誰もが知っているの。不思議でしょう?」

 語るほどに、フィオーラの言葉は途切れなく続いた。庭の花、乳母の読み聞かせ、庭で拾ったという光沢のある木の実。彼女の日々の楽しみは、そのほとんどがこの小さな屋敷と庭の中で完結していた。王都の喧騒も、宮廷の駆け引きも、彼女の知る世界には届いていない。

 アスタリアはその一つ一つに、大袈裟なくらい相槌を打った。焼きたての菓子から立つバターの香りと、湯気とともに漂う紅茶の匂いが、風に混じって鼻先をくすぐる。ふとテーブルの向こうに手を伸ばし、話しながら乱れたフィオーラの前髪をそっと直してやった。

 「その鳥のお話、面白いですね。誰かにも聞かせてあげたの?」

 「兄様にお聞かせしようと思っておりました」

 フィオーラは焼き菓子にそっと手を伸ばしたが、つまむ手前で指を止めた。

 「けれど、この前いらしたときは、すぐにお帰りになってしまわれて」

 膝の上に戻された小さな手が、スカートの布地を意味もなく撫でている。

 「このごろ、お顔の色があまりよろしくないのです。お忙しいのだと乳母は申しますけれど」

 アスタリアは、そう、とだけ答えた。

 オーレン。前王ガレンの第一王子であり、フィオーラの実の兄。継承の順位でいえば筆頭にあたる。父に似て穏やかな人柄だと聞くが、アスタリアが言葉を交わした回数は数えるほどしかない。同じ父を持つとはいえ、母の違う自分は、あの人にとって身内ではないのだろう。この地は、そのオーレンが統べる領地のひとつだった。王宮から遠く離れたこの館に妹を置いているのも、慈しんでのことというより、誰の手にも渡したくないという、あの人なりの思惑だったのかもしれない。

 ひと月も便りを絶ってしまった。この子を寂しがらせた分だけ、今日は長くここにいようと思った。
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