第4話
茶が冷める頃、フィオーラが花壇を見てほしいと言い出した。侍女が椅子を引くより先に、小さな手がアスタリアの手を取っている。
庭は手入れが行き届いていた。刈り揃えられた芝が緩やかに傾斜を描き、その先には薔薇の垣根が続いている。奥へ進めば果樹の並ぶ一角があり、さらにその向こうには小さな池まで設えられていた。庭師が幾人も入っているのだろう。枝の一本、石畳の目地の一つに至るまで、放り出されたものが何もない。
フィオーラは、そのうちの一角にある花壇の前で足を止めた。彼女が日々を過ごすのは、いつもこのあたりだった。池のほとりまで足を伸ばすことも、果樹園の奥へ入っていくこともない。生垣の向こうがどうなっているのか、この子はおそらく知らないままでいる。
王城にいた頃は、もっと遠くまで走っていた。大理石の回廊を、侍女に呼び止められるまで駆けていく姿を、アスタリアは幾度も見ている。あの頃は父も、正妃もまだ生きていた。
「アスタリア様、こちらが白い花の咲く子です」
差し出された指の先には、まだ丈の低い緑があるだけだった。アスタリアはしゃがんで目線を合わせ、そうですね、と頷いた。
「さっきの鳥のお話ですけれど」
立ち上がりながら、アスタリアは言った。
「似た話を、聞いたことがあります」
「まことですか」
「ええ。でも、うまく思い出せないの」
母が話してくれたのは、いくつの頃だったろうか。窓辺の椅子に腰かけた母の膝に、頭を預けていた。髪を撫でる手の感触と、頭上から降ってくる声だけを覚えている。
姿を見せない鳥がいる。羽音も立てない。それでも、王のそばには必ずいる。
そんな話だったと思う。難しい言葉がいくつも混じっていて、幼いアスタリアには半分も分からなかった。ただ、母の声がどこか秘密めいていたことと、話し終えたあとに小さく笑ったことだけが、妙にはっきりと残っている。
「どんな鳥なのですか」
「そこまでは覚えていないの。名前があったような気もするのだけれど」
フィオーラは真剣な顔でしばらく考え込み、それから、湖の鳥とご親戚かもしれませんね、と言った。アスタリアは笑って、そうかもしれませんね、と答えた。
日が傾き始めた頃、木陰に控えていた侍女の一人が近づいてきた。
「アスタリア様。お馬車の支度が整いましてございます」
フィオーラの手が、繋いだままの指に少しだけ力を込めた。それ以上は何も言わない。引き止める言葉を口にしないよう躾けられているのだろう。
「今日は長居をしてしまいましたね」
アスタリアはしゃがんで、もう一度目線を合わせた。
「次はもっと早くに参ります」
「はい」
フィオーラは背筋を伸ばし、きちんと膝を折って礼をした。作法の通り、非の打ちどころのない所作だった。ただ、顔を上げたときの目だけが、まだ何か言いたそうにしていた。
庭から館の正面へ回る石畳を、二人は並んで歩いた。フィオーラは繋いだ手を離さない。歩幅を合わせて、アスタリアはゆっくりと進んだ。
「あの、アスタリア様」
「はい」
「鳥のお名前、思い出されたら、お教えくださいますか」
アスタリアは足を止めて、それから微笑んだ。
「ええ。きっと」
馬車の前には、館の者たちが並んで控えていた。乳母、侍女、年嵩の家令。誰もが深く頭を垂れている。よく仕えられた子だと思う。ただ、この列の中に、この子と血の繋がった者は一人もいない。
踏み台に足をかけたところで、袖をそっと引かれた。振り返ると、フィオーラが小さな手を差し出している。開いた指の上に、艶のある茶色の木の実が二つ載っていた。
「庭で拾ったものです。よろしければ」
アスタリアはそれを受け取り、両手で包んだ。
「大切にしますね」
扉が閉まり、馬車が動き出す。窓の外で、フィオーラがまた膝を折るのが見えた。
石畳を過ぎ、生垣が途切れ、館が木立の陰に隠れていく。アスタリアは掌の中の木の実を、しばらく握ったままでいた。
車輪の音だけが続いていた。次に会えるのがいつになるのか、自分でも分からなかった。