桜前線は行く2
僕はアサギマダラの翅を羽ばたかせ、スリジエはふわりと浮くように、二人で丘を見下ろす。横に見える桜の巨木は風にそよぎ、時おり花びらを散らせた。黄色の絨毯も、そのうち白の綿毛に変わる。この地域での春は盛りを終えようとしているのだ。
「北はどっちですか?」
スリジエは手でひさしを作り、四方を眺める。ひらりと風に遊ばれるスカートを気に止める様子もないので、僕の方が恥ずかしくなってしまう。
「太陽があっちだから......北はこっち」
なるべくスリジエが視界に入らないように、ぷかぷかと浮かぶ綿雲を指差した。それを見るなり、スリジエは一人で移動を始めてしまう。
「ま、待って!」
「どうかしました?」
「いや、なんでも......」
少女相手にスカートの中が見えますよ、なんて言えるはずもない。口を尖らせ、拳を握る。すぐさまスリジエに追いつき、隣に並んだ。
春と聞けば、にこにこと笑う陽だまりのようなイメージがあるのに。スリジエにはそういった雰囲気は全くない。人は予想を裏切るものなのだろう。
いや、僕が勝手に理想を抱いているだけで、スリジエにとっては迷惑なのかもしれない。自分でも分からない感情に、眉間をしかめるしかなかった。
木の上まで高く飛び、早速、移動を始める。地平線まで続く桜の木が一気に芽吹き、薄ピンクへと染め上げていく。僕たちが進むスピードでそれは広がる。
絶景という以外にはない。胸が高鳴ってスリジエを見てみるが、彼女は何も感じていないような瞳で行く先を眺めるだけだ。
「スリジエ、凄い! 凄いよ!」
僕が叫んだとしても、スリジエは首を傾げるだけに留まった。
「どうしたんですか?」
「桜が! こんなに綺麗だなんて......!」
冬木が生命に満ちた花樹へ変わる瞬間――自然と目頭が熱くなり、雫が零れ落ちる。これをスリジエがやっているのだ。尊くて偉大で、でもそれでは言い足りなくて。言葉だけではどんな風に表現したらいいのか判断がつかない。
スリジエは「うーん」と唸り声を上げた。
「この光景は......見慣れてる気がするんです」
囁かれた言葉に、「えっ」と声が漏れそうになる。それもそうか、スリジエは桜を咲かせる存在だ。毎年のように、こんな体験をしているのだろう。
興奮は冷めないものの、腕で涙を拭いて目を凝らす。その桜の向こうには民家が見えてきた。僕と同じように、人間たちも桜の開花を喜んでいるに違いない。
その笑顔を見たら、スリジエの氷のような心も解けるだろうか。
「スリジエ、あの町に行ってみよう」
「何をしに? 北に向かうんじゃないんですか?」
「ちょっと寄り道」
喜ばしいはずの春を届けるのに、その張本人が旅を楽しんでいないなんて違う気がする。どうせ旅をするのなら、一緒に笑顔で続けたいのだ。僅かな希望を胸に、両手を握り締める。
桜色へと変貌していく地平線に目を取られながら、身体は少しだけ西へと傾いた。赤い屋根が集まる小さな町を眼下に、人々の歓声を想像する。こちらまで笑顔になってしまう。
「ジャド?」
「ううん、なんでもない」
スリジエに言っても分かってもらえないかもしれない。その反応を見るのが怖くて、首を横に振った。
「降りてみよう」
スリジエが頷いたのを確認し、身体を前方へと預ける。みるみるうちに地上は近付き、屋根の上へと降り立つ。
それなのに、人の声が聞こえるどころか、姿さえ見当たらない。僕が想像していた歓声は、そこにはなかったのだ。
「えっ......」
せっかく春がやってきたのに、人間は何も感じないのだろうか。家に閉じこもるだけのだろうか。胸の奥から冷えていくような感覚がした。
「ジャド、どうしてそんなに悲しそうな顔をするんですか?」
スリジエに言われて、この感情が怒りではなく、悲しみだということに気付く。
「スリジエは何も感じないの? 自分が歓迎されてないかもしれないのに」
「歓迎、ですか」
スリジエは頬に人差し指を当て、空を見上げる。
「それはそれで仕方ないのでしょう。私はただの季節なのでしょう? 人間にとっては背景でしかありませんから」
そう言い切られてしまうと、何も言い返せない。唇を噛み締め、両手で拳を作る。
「せっかく来たんですから、町を見ていきましょう」
「......そんな価値があるのかな」
スリジエの到来を喜ばないなんて。僕は人間というものが分からなくなってしまった。
「価値は分かりませんが、興味はあります」
スリジエは一歩を踏み出し、ふわりと石畳へと降り立つ。仕方なく、僕もそれに続いた。
大通りにはやはり人っ子一人おらず、乾いた風だけが虚しく吹き抜けていく。ここで、初めて家々の窓へと目を遣った。
人の気配がない。まさか、ここは廃町なのだろうか。それにしては家の外壁は汚れていないし、道だって崩れていない。
何が起きたのだろう。僕の心には闇が訪れたかのように、喜び、怒り、悲しみ、楽しみ――全てが抜け落ち、恐怖だけが支配していくようだった。
スリジエは立ち竦む僕を置き去りにして、大通りを歩き始める。街路樹である桜だけが彼女を歓迎し、風に揺られて甘い香りをこちらまで運ぶ。
「何をしてるの?」
知らない少年の声に肩を震わせる。振り向いてみると、不思議そうに僕を見詰める黄色の瞳がそこにはあった。背中には蜜蜂の翅――この町を住処としている妖精だろう。初めてスリジエ以外の人物と出会ったお陰で、少しだけ気持ちが軽くなる。
「人間がいなくてビックリしてたんだ」
「なんだ。それなら向こうに行くといいよ」
蜜蜂の妖精は微笑み、スリジエが歩みを進める方へと指を差す。
「......ありがとう」
その先に何が待っているのかは分からない。でも、それが絶望ではないことだけは分かる。蜜蜂の妖精に頭を下げると、彼は片手を振ってくれた。走ってスリジエに追いつき、小さくて温かな手を握り締める。
その手が僅かに握り返してくれたようで、僕の胸はきゅっと震えるのだった。