桜前線は行く1
仲間たちと逸れてしまった。どうしよう。ようやく芽を出し始めた木の並ぶ辺りを見回してみても、僕と同じアサギマダラの翅は見当たらない。
誰かに助けを求めたくても、人間の姿すらない。いたとしても、僕たち妖精の姿や声は人間には届かないのだ。探す意味もない。
大袈裟に溜め息を吐き、ぼんやりと上方を見た。小高い丘に一本だけ立つ、年老いた満開の桜――あの木の上からなら、仲間が見つかるかもしれない。
翅を羽ばたかせる元気もなく、とぼとぼと丘の上を目指す。そんな時に、違和感を覚えたのだ。
桜の木が淡く輝いている。怪しい光ではなく、温かくて太陽のようなものに感じられた。妖精か誰かがいるのかもしれない。淡い期待を胸に、歩調は速くなる。
光の出どころは、どうやら少女だったようだ。艶やかな肩までの桜色の髪が風に靡き、同じく桜色の目が開かれる。彼女は人間ではない。人間ならば、その瞳に僕が映ることはないのだから。あまりの儚さに呼吸を忘れてしまった。
「貴方は誰ですか?」
少女に問われたとしても、思うように声が出てくれない。
「あの......?」
少女は不思議そうに瞬きをする。
「ぼ、僕はジャド、です」
「どうしてここに?」
「仲間と逸れちゃって。この丘の上なら、誰か見つかるかなって思ったんですけど......」
一度、少女に背を向けて辺りを見回してみる。やはり、誰も見つけられそうにない。少女には気づかれないように、こっそり息を吐き出した。
「見つかりましたか?」
「......いいえ」
仲間は僕がいなくなったことに気づいていないのだろうか。僕はそれまでの存在だったのだろうか。そう思うと、鼻の奥がツンとした。
「では、私が誰かは分かりますか?」
「えっ?」
出かけた涙が引っ込んでいく。少女は自分が誰か、本当に分からないのだろうか。いや、僕を試しているのだろうか。意図が分からず、眉間にしわを寄せてしまった。
少女は更に続ける。
「私には記憶がないんです。これからどうしたらいいのか分からなくて」
少女の言葉を信じるのなら、記憶喪失ということだろう。僕の境遇よりも深刻だ。
僕は北に向かえば、まだ仲間に会える可能性は残されている。僕たちアサギマダラの妖精は、過ごしやすい気候を求めて北へ旅をするからだ。しかし、彼女は違う。せめて、生きる目的さえ思い出せたなら――。
手がかりは彼女の髪飾りにあった。初対面の人に失礼ではあるものの、やるしかない。
「あの、頭を触ってもいいですか?」
少女は小さく頷く。それを合図に、僕も震える手を伸ばす。髪飾りに見えたそれは桜の木の短い枝であり、彼女の皮膚と繋がっていた。
いつだったか、仲間伝手に聞いたことがある。
「桜の木が頭に生えている方は、桜前線だ。その方がいなくなれば、春はやってこない。大事にしなくてはいけないよ」
まさか、この少女が桜前線だというのだろうか。でも、実際に彼女の髪と瞳は桜色だし、それ以外には考えられない。
どう伝えれば、少女に信じてもらえるだろう。片手を顎に当てて、小さく唸り声を上げてしまった。
「あの......?」
「どうか、これから僕が言うことを信じてください」
そう、前置きするしかない。生唾を呑み込み、両手で拳を握る。
「貴女が北へ向かわなくては、この世界には春はやってきません。貴女は季節そのもの。僕と一緒に......旅をしてください」
僕たちの目的地は同じだ。それならば、ここで別れる必要もない。まるで告白のような台詞に、心臓が喉から飛び出しそうになる。
少女はにこりともせず、大きく頷いてみせた。
「よかった......」
ここで良い返事をもらえなければ、世界中に異常気候をもたらしていただろう。ほっと胸を撫で下ろす。と同時に、ほとぼりが残る頬の熱に気がついた。
僕は、一目惚れするような性格はしていない。きっと照れているだけなのだ。そう自分に言い聞かせる。
「名前は思い出せますか?」
「いえ、何も」
「困ったな......」
いつまでも『少女』や『彼女』では僕が納得できない。彼女らしい、いい名前はないだろうか。思考を巡らせ、響きの綺麗な単語を思い出してみる。
そうだ。遠い国の言葉で『桜』を意味する、丁度いい単語があるではないか。
「スリジエ」
「スリ......ジエ?」
「はい。今日から貴女はスリジエです」
本当の名前を思い出せるまででいい。それまで、この名前を使ってくれたら僕としても嬉しいのだ。
少女――スリジエは与えられた名を浸透させるように、何度か頷いてみせる。
「分かりました。今日から私はスリジエです」
まるで自分のことを言っているような雰囲気ではない。スリジエの無機質な返答に、思わず笑ってしまった。それと同時に、胸がほのかに温かくなる。その温もりを逃がさないように、そっと胸に手を当てた。花の甘い香りが漂う中で、スリジエは僕のもう片方の手を取る。
「ジャド。行きましょう」
まっすぐ僕を見詰める円らな瞳には、僕の翡翠色の瞳が映り込んでいた。その前面には確たる意思があるかのように、使命でも見つけたように、強い光が宿っている。
照れることも、声を出すことも躊躇われ、ただ僕は大きく頷いていた。
僕とスリジエの出会いが、この春を忘れられないものに変えるなんて想像もしていなかった。この時は、僕もスリジエと一緒に春を届けたい。それだけしか考えていなかった。