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深く深く、息を吸う。
そっと音に気付かれないように、息を吐く。
あの頃と同じように、息を潜めながら。
「えー、十人寄れば気は十色、と申しますが......」
遠くで誰かが、噺をしている声が聞こえる。
影に身を潜めるように小さくなっている栄助の耳に、朗々と響く声。
誰の声だろう。
そうだ、師匠の声だ。
栄助はゆっくりと、目を開けた。
※
望まれて、生まれたわけではない。
それは栄助だけでなく、栄助の母親も同じだったのだろう。
誰の子かわからない。墮胎を望むも、しぶとく腹の中に居続けた我が子。
仕方なく産んだ我が子を、愛せなくても仕方ない。それでも親の顔を知っているだけ、幸せなのだろうか。
生まれてみると情が湧いたのか、それとも栄助が特別、手がかからない子どもだったからか。
手元に置いて育てられたのは、栄助にとって幸か不幸、どちらだったのか。
明治維新が起き、ロシアと清、二つの外国との戦も終わり、世の中は安寧を取り戻す一方、栄助の育った場所は、人間の様々な面を見るのに適していた。
きらびやかに着飾る女性。
その女性を金を払って、買う男性。
男に媚を売る一方で、軽蔑をする女。
女を下に見て、優越感に浸る男。
その一方で。
父親がいない栄助のことを可愛がってくれた、芸姑。
生きる術を惜しげもなく教えてくれる、下働きの男。
孫のように可愛がってくれた、飯炊きの女。
共に走り回った、同じ境遇の子ども。
人々の欲が集まった町は、夜は変な熱気に包まれる。
道楽で遊びに来ている、金持ち。
社会勉強とばかりに、上司や師匠に連れられて訪れる若いもの。
ここぞとばかりに声を張り上げ、自分の店の女がお得だと勧める客引きに、足繁く通う旦那にしなを作り、媚を売る女。
昼とは違う顔を覗かせる、混沌とした町。
複雑に絡み合う人間模様。
そうだ。この町には、それなりの秩序と決まりと厳しさと、そして優しさがあった。
栄助は、聞こえてきたざわめきに導かれるように、ゆっくり目を開けた。
※
「あら、もういいのかい?」
階段を降りる栄助を見た女将が、声をかける。
「ありがとうよ、女将さん。忙しい時間に、悪かったねぇ」
懐に入れた札を渡そうとする栄助を、女将は笑い飛ばす。
「いらないよ〜。アンタは私の孫みたいなもんだし、ここは実家みたいなもんだろ」
「一番忙しい時間に、部屋を空けてもらったんだ。それじゃあ俺の気がすまねぇよ」
食い下がる栄助に、女将はキッパリと言う。
「アンタが真打になったら、利子つけて払ってもらおうか。出世払いだよ」
これ以上は頑として譲らない口調の女将に、栄助は頭を下げた。
「任せてくれよ。真打になってたんまり払ってやるさ」
ここに来たときの硬い表情とは打って変わって、何か吹っ切れたような力強い目で答える栄助に、女将は再度笑ったのだった。