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(なんでってえんだ、全く)
タエ子を送った栄助は、歩きながら頭をかく。
ふいに師匠の言葉が、思い浮かんだ。
――自分の落語は、好きか――
――この世界の闇を、見たいか――
――覚悟がねぇなら、足洗え――
ケッと、栄助は吐き捨てる。
「もってらぁ、覚悟なんざ。......落ちて堕ちて、どん底に落ちる覚悟なんざ、とっくに」
足りなかったのは、どん底に入る勇気がなかっただけだ。
いや、違う。
どん底に堕ちたとき、戻れなくなるのが、怖かったのだ。
栄助は笑った。
――栄助さんは、栄助さんです。思う存分、ご自身を突き詰めてください。ずっと見ていますから。と言っても、見えないんですけど。糸を垂らすくらいは、させてください。――
去り際に顔を、赤くしながらもきちんと意思を伝えてくるタエ子に、少しばかり心を揺さぶられた。
見た目で判断しないタエ子なら、闇に捕らわれたとしても、栄助が栄助でいる限り、側にいるだろう。
育ちが悪い自分のことも、過去も未来も。
栄助でいることを、認めてくれる。
ああ、やっとわかった。
キレイな格好に身を包み、化粧をした女たちがキャーキャー言うたびに、どんどんやる気を無くした原因が。
誰かに肯定してほしかったのだ。落ちて堕ちて、剥き出しになった自分を怖がらずにいてくれる誰かが。
そんな男が、表面を取り繕っているのではなく、感情を剥き出しにした落語を、認めてくれる誰かを求めていた。
タエ子なら、きっと......。
栄助はふっと、息を吐く。
野暮ってぇ女は、好みじゃねえんだけどな。
そう思い、今度は自嘲するように笑った。
惚れた腫れたは、今の栄助には邪魔だ。
よし!
底まで落ちないと見れない景色があるなら、トコトン落ちてやらぁ。
落語の闇ってえのを、見せてもらおうじゃねえか!
※
「栄助さんの落語は......」
タエ子は話す。
栄助の声は艶があり、聞いていて心地いいトーンだと。
もちろんトリに出てきた師匠には負けるが、と付け加える。
「そりゃどうも」
イヤミで言っているのではないことは、わかる。投げやりに礼を言う栄助に、タエ子はクスリと笑う。
「この間の寄席で聞かせてもらった落語は、本当によかったです。この間、義彦相手に聞かせていたのよりも、ずっと」
「俺ん中では、出来の悪い落語だったけどな。三本の指に入るくれぇは」
「どこが悪かったんですか?」
「逆にどこがよかったってぇんだ?」
「迷っているところ」
「へ?」
「この言い回しでいいのか。この声の抑揚でいいのか。噺をすればするほど、迷って迷って。深い混沌に捕らわれていくところ」
タエ子が何を言っているのか、理解はできなかった。
直感で、師匠が栄助に伝えたかったことと同一だと、わかっただけだ。
「なんでぇ、そう思う......?」
問う声は、掠れていた。
「声を聞いたら、わかりますよ。だって視えないんですから」
背筋がゾワッとした。これ以上続きを聞いたら、落語に捕らわれる。
だが、栄助は聞かずにはいられなかった。
「迷いを無くすには、どうすればいいんだい?」
タエ子の答えに、栄助は納得するしかなかった。
「栄助さんの芯に、ご自身の核の部分に、逃げずに向き合って。栄助さんの今までのすべてを、思い出して。そうしたら。何かしら答えは、出るかと思います」
多分ですけど、とそっと付け加えたタエ子の言葉は、もう栄助の耳には入らなかった。
「あの頃の、底辺だった生活を思い出して。......向き合えっていうのかい。たった一人で」
長い沈黙の後、独り言のように吐き出した栄助の言葉に、タエ子は笑った。
「ツラくなったら、うちでご飯を食べて、泊まってください。一本の糸を、栄助さんの前に垂らすくらいは、できますから」
「蜘蛛の糸かい。......どこぞの小説みたいに、途中で千切れるんじゃねえか」
少し前に流行った、芥川某の小説になぞらえるタエ子に栄助は笑う。
「安心してください。私はお釈迦様ではないので、千切れたらまた垂らします」
「そりゃあ、心強い」
適当に返事したつもりはなかったのだが、タエ子には伝わらなかったようだ。
栄助が勘弁してくれと言うまで、何度も何度も、いつでも家に来るように言い続けたのだった。