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「今日はオネェちゃんのいる店に、行かなくていいんか」
ガハハと常連客のオヤジが、栄助に絡んでくる。いつもならこんな店には来ないが、思うところがあった。栄助はオヤジの隣の席に、陣取った。
女郎街から近い、下町の飲み屋だ。
ここには上品な客なぞ、来ない。
日雇いか、女郎街でしか働けないような客が大半だ。
「周吉って、あんたかい?」
「おっ、兄ちゃん。なんで俺の名前を知ってるんだい?」
気を悪くした様子もなくオヤジは、栄助に話しかける。
女将に聞いていた通りの風貌だ。すぐに目的の人物に会えたことにホッとすると、栄助は熱燗を、隣のオヤジの分も合わせて頼む。
初対面の人間にこんなことをされるのは、はじめてなのだろう。
きょとん、という顔をするオヤジに、栄助は顔を歪めながらも、お猪口に酒を注いだ。
「なんだ、気持ち悪いな」
と言いながらも、顔がほころぶオヤジ。店主が適当に出したツマミをあてに、一杯やりながら、栄助は口を開いた。
「八光亭栄助って、知ってるかい?」
「知ってるもなにも......」
ハッと気づいた様子の周吉を横目に、栄助はお猪口を空けた。
「そうかい、あんたが梅の」
薄っすら滲んだ涙を拭う周吉を、栄助はしばし観察する。
肉体労働で鍛えたのだろう。力強い肉体は、生命力に溢れている。
栄助を師匠に預けたとき、母の梅は病気で、客を取ることができなくなっていた。
そうなった女郎は、宿に置いておけない。
女将の尽力と温情で、栄助は師匠・八光亭柳助に弟子入りすることが出来、梅は下男として働いていた周吉に、嫁いでいった。
もう二度と会うことはないと、思っていた。
「......まだ、生きてるのかい」
誰を、とは聞かなかった。
別れたときの体調を考えると、とっくに死んでいても、おかしくはないのだ。
答えが返ってくるまでの、数秒の沈黙が重い。
オヤジは栄助の空気を吹き飛ばすように、フッと息を吐く。
「あぁ、元気、というと語弊はあるが、まぁのんびり生きてらぁ。おめぇのことは、常に気にしている。合わせる顔がないみたいだが」
「そうか」
栄助は押し黙る。
オヤジが燗を空け、ツマミを食べ尽くして席を立つまで黙ったままだった。
「......明後日に」
「ん?」
今まで黙っていた栄助が、口を開いた。
「明後日、親子会をする。見に来い、って言ってくれや。俺の名前を言えば、入れるだろうよ」
オヤジは破顔する。
「言っておく。梅も喜ぶだろうよ」
栄助の母親の名を呼びながら、再度涙ぐむオヤジを残し、栄助は用件は終わりとばかりに席を立ったのだった。
※
師匠には、親子会で噺をしたい落語があるとお願いをしていた。
苦笑いしながらも、二つ返事で許可をくれた師匠。
恥はかかせない。
あとはこの噺を、自分のものにするだけだ。
栄助は自分の部屋で、ひたすら一つの噺を繰り返す。
ここは、どんな感情だったのだろうか。
新三郎が、美人と評判のお露に会いに行った時は?
「会いにこないと死ぬ」と、お露は何故、言ったのだろうか?
お露が死んだと、聞かされた時は?
死んだはずのお露と、再び会えた時は?
一つの噺に渦巻く、人間の複雑な感情。
その一つ一つを、深く掘っていく。
寝食も忘れ、何度も、繰り返し繰り返し。
人間の欲。煩悩。恨みつらみ。
恋に焦がれるもの。
金に魂を売るもの。
ニコニコしながら取り繕うもの。
偽善の塊のようなもの。
人はなんて、強欲なのだろうか。
だけど、栄助は知っている。
恋でも金でも。欲を持った人間の、狡猾で恐ろしいことを。
深く登場人物に、寄り添えば寄り添うほど、その凄まじいまでの熱気に、捕らわれる。
熱気は狂気。
狂気は栄助に取り憑いて、離れない。
――オマエも、堕ちてこい。
――オマエも、元々はこちら側の人間だろう。
人の形を為した何かが、手を変え、言葉を変え、栄助をがんじがらめにする。
溺れる。
真っ暗な闇に、堕ちていく......。
(栄助さん)
タエ子の声が、聞こえた。
声の方を見ると、細く頼りない糸が一本垂れ下がっていた。
(頼りねぇ糸だなぁ。千切れそうだ)
軽く糸を引っ張ると、思いの外弾力があり、しなやかだ。
タエ子のようだ。
(いつでも垂らしますから。安心して、堕ちてください)
安心して、堕ちろって。
励ましているのか、突き放しているのか。
よくわからない物言いだが、タエ子らしい。
きっと、「大丈夫、助けます」と言われたところで、今の栄助は信じないだろう。
俺は、欲深い。
深淵を覗くのが、怖かった。
覗いたら最後、そこに魅了されることは、わかっていたからだ。
初めて師匠の、八光亭柳助の落語を聞いて、その場で弟子入りを嘆願したように。
いざ弟子入りしたら、上っ面でチヤホヤされたから、それに満足していた。
いや、違う。
落語の闇の深さに溺れるのが、怖かったのだ。
ドロドロの人間の感情。大好物ってぇんだ、全く。
本音を隠して、取り繕って。それでも垣間見える、濁った欲望。
好きで好きで堪らねぇ。
堕ちてどうしようもなくなったら、タエ子が、糸で引っ張りあげてくれる。
今なら心置きなく、沈んでいける。
栄助は落語に取り憑かれたように、深い人間模様の闇に落ちていった。