第1話 桜舞う翠嶺漣女学院――日常は、サイレンと共に崩壊する
鏡の中に映る自分を、じっと見つめる。
まだ新しい香りのする、おろしたてのえんじ色のブレザーに、黒い膝上のプリーツスカート、そして黒いハイソックス。
首元の赤地に白と金のストライプが入ったリボンをきゅっと直すたびに、ピンク色のエアリーボブがふわりと揺れた。
――あの夜、右目に世界を裂くような激痛が走り、自分がステラだと自覚してから、早いもので二年が経っていた。
国立翠嶺漣女学院高等部――『魔法科』。通称『スイレイ』。
外部受験組の定員はわずか十名。
そして倍率二十倍の超難関を突破した証が、今自分の身を包んでいる。
さくらはまだ夢の中にいるかのような心地だった。
洗面所に移り、愛用のコンタクトケースを手に取って、キュッとフタを開ける。
鏡の自分と目を合わせながら、薄いシリコンレンズをそっと右目に重ねた。
妖艶なワインレッドの瞳が覆い隠され、見慣れたピンク色の瞳へと戻っていく。
「......よし、これでオッケーっと」
――その瞬間。脳裏に、あの夜の『恐怖』が容赦なく甦った。
右目の奥を鋭い刃物で直接削り取られるような、息もできないほどの激痛。
声すら出せず、ただただベッドの上でのたうち回ることしかできなかった、あのおぞましい感覚。
「......っ......!」
ハッと気づけば、さくらは自分の右目を両方の手のひらで強く押さえていた。
じっとりと嫌な汗が額を伝う。さくらは小さく息を吐き出した。
鏡の中の自分は、おろしたての、まだ新しい香りのするえんじ色のブレザーを纏った自分だ。
痛みの名残などはどこにもない。それでも、いまだに指先がかすかに震えていた。
「......ううん、大丈夫......」
もう一度、鏡と向き合うさくら。
透明感のあるピンク色の瞳――うん、カラコンはズレていない。
この右目の奥に、あの夜から刻まれたワインレッドの光とルーン文字が隠されているなんて、きっと誰も気づかないはず。
――桜の木々から陽光が降り注ぐ、すがすがしい朝。
小一時間電車に揺られた疲れも、今はどこか心地いい。
まだ馴染まない、魔法科指定の通学カバンであるサッチェルバッグを背負い、右目に入れたカラコンを気にしながら、最寄り駅から続く緩やかな坂道を歩く。
「このカバン、技術科の特殊素材を使ってるって書いてたけど、ほんと軽いなぁ......重いのは倍率二十倍の重圧だけ、なんてね」
小さく自虐を呟きながら校門へ近づくと、自分と同じ制服をまとった生徒たちの凛々しい姿が目に入った。
門の前で立ち止まり、胸に手を当てる。
期待よりも、不安が勝ってしまう。
(本当に合格しちゃったんだ......私、本当にやっていけるのかな......)
さくらは、外部受験の高難度試験に合格した重圧を実感していた。
大きく深呼吸し、校門をくぐる。
通りすがる彼女たちは皆、高倍率を勝ち抜いたエリートたち。
その中で、さくらと同じえんじ色のブレザーを纏い、サッチェルバッグをきゅっと両手で抱きしめている少女が目に留まった。
透き通った水色のエアリーミディに、大きなネイビーのバレッタ。
すごく緊張している様子だ。
(あの子も、新入生なのかな?)
すると、彼女はこちらを振り向き、澄んだ水色の瞳と視線が交差する。
さくらは、彼女がきっと困っているんだと思い、歩み寄って一声かけようとした。
しかし彼女はさっと視線を泳がせ、早足で立ち去ってしまう。
(大丈夫かな......っといけない、このままじゃ遅れちゃうよね)
さくらは入学式会場である講堂へ足を運んだ。
――入学式は、厳かな空気の中、始まった。
どこか軍事的な緊張感もある式典。
不安を払拭するように、さくらは胸の中で誓う。
(今日から私は、ステラの見習いとしての一歩を踏み出すんだ――)
そう決意したのも束の間......
『――ウー、ウー、ウー――』
突如、講堂内に鼓膜を切り裂くサイレンが鳴り響いた。
講堂の天井スピーカーから、ひび割れた電子音声が怒鳴り散らす。
『対機殻警戒・全校警報。繰り返す、対機殻警戒・全校警報』
『漣防衛管制より、全校へ通告。本校東・第三防衛区画上空。方位60、高度500に廃翼型スクラップの機影を補足。数、およそ十』
『繰り返す! 廃翼型スクラップが本校防衛境界線を突破!』
一瞬の静寂ののち、悲鳴が講堂を埋め尽くした。
『新入生は直ちに地下シェルターへ避難せよ!』
『実戦・携行許可を持つ魔法科・銃器科の在学生・内部生は、直ちに指定の防衛ブロックへ急行、新入生の避難路を確保せよ!』
鳴り響くサイレン、大混乱に陥る講堂。
悲鳴を上げて必死に逃げ惑う新入生たち。
人波に押されるように講堂を飛び出したさくらは、思わず空を見上げた。
青空と舞い散る桜を切り裂くように降りてくる黒い影。
錆びついた航空機の残骸と、どろりと汚れた千切れのプロペラを持つ異形が、鋭い駆動音を響かせてじわじわと降下してくる。
その時、さくらの視界の隅に、恐怖で腰を抜かして動けなくなっている生徒の姿が映った。
「あの子、逃げ遅れて――っ!」
助けようと一歩踏み出した瞬間。
頭上から猛烈な廃油の臭いと熱風が吹き荒れ、黒い影がさくらめがけて一気に急降下してきた。
――突如として訪れた日常の崩壊。
さくらは、背筋を刺すような戦慄に、全身の血の気が引いていくのを感じていた。