第8話「俺の日常が、少しだけ変わった」
第8話「俺の日常が、少しだけ変わった」
―――
月曜日、06時45分
赤坂レジデンス — 1203号室、港区
蓮は、アラームが鳴る前に目を覚ました。
ゆっくりと目を開く。
白い天井。
カーテンの隙間から差し込む、薄い朝の光。
部屋の隅から聞こえる、エアコンのかすかな音。
昨日までと、何も変わっていない。
なのに――
なぜか、蓮は何かが違うように感じていた。
夢のせいではない。
外から聞こえる音のせいでもない。
身体に異変があるわけでもない。
ただ、頭の中だけだった。
目を覚ましてからずっと、一つのことが頭の中を巡っている。
ヤマト・ロジスティクス。
87人の従業員。
48億円の負債。
62億円の資産。
蓮はベッドの端に腰を下ろした。
スマートフォンを手に取る。
画面が点灯する。
そしていつものように、無音のまま《絶対資産支配システム》の情報が表示された。
《絶対資産支配システム》
黒瀬蓮
年齢: 21歳
純資産: 44億円
物欲: 2%
無欲倍率: ×28
保有スキル:
・《資産分析 EX》 — 資産分析ランク:EX
・《企業管理》 — 企業管理ランク:C
所有企業:
・ヤマト・ロジスティクス株式会社 — 従業員87名
蓮は数秒間、画面を見つめた。
44億円。
数日前まで、口座にはゼロが並んでいた。
それが今では――
44億。
蓮は短く息を吐いた。
「......」
二つの会社。
そのうち一つは、自分のものになってから初めて存在を知った会社だ。
そして今――
法律上、自分の名義にある会社で87人が働いている。
蓮はスマートフォンの画面をロックした。
金持ちになったという実感はない。
権力を持ったという感覚もない。
感じているのは、むしろ――
少しの頭痛だった。
「......多すぎる」
蓮はベッドから立ち上がった。
キッチンへ向かう。
電気ケトルのスイッチを入れる。
湯が沸くのを待つ間、蓮はノートパソコンを開いた。
昨日、高橋から送られてきた書類がいくつかある。
その中の一つは、ヤマト・ロジスティクスの財務報告書だった。
蓮はファイルを開く。
そして読み始める。
1ページ。
2ページ。
10ページ。
20ページ。
視線が素早く動く。
読み返す必要のある箇所はない。
立ち止まるような数字もない。
すべての情報が、まるで自然に頭の中へ整理されていく。
15分後――
蓮はノートパソコンを閉じた。
椅子に背を預ける。
ヤマト・ロジスティクス。
会社そのものは、決して悪くない。
問題は、資産が足りないことではない。
顧客が不足しているわけでもない。
問題なのは、負債構造と以前の経営判断だった。
車両の拡充を急ぎすぎた。
借入金が増えた。
利息負担が膨らんだ。
その一方で、利益は同じ速度では伸びなかった。
このまま放置すれば――
会社のキャッシュフローは、さらに圧迫される。
だが、負債構造を改善できれば――
まだ打つ手はある。
蓮は閉じたノートパソコンを見る。
「......救える」
なぜ、そこまで簡単に結論へ辿り着いたのか、自分でも分からない。
《資産分析 EX》のおかげかもしれない。
もともと数字を理解するのが速かったのかもしれない。
あるいは今は――
ヤマト・ロジスティクスを、ただの画面上の数字として扱えなくなっているのかもしれない。
そこには87人がいる。
会社が倒れれば、その87人にも影響が出る。
その時、電気ケトルが鳴った。
蓮は立ち上がる。
取っ手の部分にひびの入った白いマグカップへ、熱湯を注ぐ。
インスタントコーヒー。
ゆっくりとかき混ぜる。
一口飲む。
苦い。
熱い。
いつも通り。
蓮は一瞬だけ目を閉じた。
「......少なくとも、これは変わらないな」
コーヒーは、コーヒーだ。
それで十分だった。
―――
08時15分
赤坂レジデンス — 地下2階駐車場
蓮は地下駐車場へ向かって歩いていた。
B2はひんやりとしている。
自分の駐車スペースの前で足を止める。
MANSORY P9LM EVO 900が、そこに停まっている。
黒い。
低い。
攻撃的。
それは、今もシンプルな生活を望んでいる自分とは、まるで釣り合わない車だった。
蓮はカードキーを差し込む。
ドアが開く。
運転席へ乗り込む。
「今日は新宿か」
昨日、高橋から受けた連絡を思い出す。
今日はヤマト・ロジスティクスの経営陣との会議がある。
蓮はエンジンをかけた。
低いエンジン音が地下駐車場いっぱいに響く。
この音には、いまだに慣れない。
「......うるさい」
もちろん、車は答えない。
蓮は47番の駐車スペースから、ゆっくりと車を出した。
48番を通り過ぎる。
そこには、もう一台の車が静かに停まっていた。
Ghost Series II by MANSORY。
蓮は一瞬だけ目を向ける。
そして、そのまま走り出した。
―――
08時45分
赤坂 → 新宿方面
東京は、少しずつ慌ただしくなっていた。
信号が変わる。
タクシーと一般車両が道路を埋めていく。
蓮は落ち着いて車を走らせる。
赤坂周辺の道路も、少しずつ覚えてきた。
しかし、頭の中にあるのは道路ではない。
今日の会議。
そればかりだった。
ヤマト・ロジスティクスの経営陣と会う。
そして、単純なことを伝えなければならない。
会社には新しい所有者がいる。
大学生。
21歳。
蓮は息を吐く。
「......そりゃ驚くよな」
自分が彼らの立場だったとしても――
同じことを疑問に思うだろう。
どうして大学生が、何十億円もの負債を抱えた会社を買えるのか。
問題は――
蓮自身にも、納得できる答えがないことだった。
システムがすべてを起こした。
会社が現れた。
資産が現れた。
必要な書類もすべて揃っていた。
そして今、蓮はそれを現実として受け止めなければならない。
蓮は前方の赤信号を見る。
「......とりあえず、会社を潰さなければいい」
信号が青に変わる。
車が再び動き出した。
―――
09時15分
ヤマト・ロジスティクス — 3階、メイン会議室
ヤマト・ロジスティクスのメイン会議室は、中規模の部屋だった。
中央には長いテーブル。
その周囲には革張りの椅子が整然と並んでいる。
大きな窓からは、新宿のビル群が見える。
すでに六人がテーブルを囲んでいた。
会社の経営陣だ。
年齢は35歳から55歳ほど。
全員が長年の経験を持っている。
そして、全員が緊張した表情をしていた。
高橋健司がテーブルの端に立っている。
グレーのスーツ。
濃紺のネクタイ。
表情は、いつも通り落ち着いている。
「皆さん、集まっていただいてありがとうございます」
誰も答えない。
高橋が続ける。
「今日は、新しいオーナーにお会いしていただきます」
一人の男性が手を上げた。
中島浩。
48歳。
白いシャツ。
グレーのネクタイ。
顔には明らかな疑念が浮かんでいる。
「高橋さん」
「はい?」
「一つ聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
中島は息を吸った。
「新しいオーナーは、誰なんですか?」
高橋は薄く笑った。
「すぐにお会いできます」
その答えによって、むしろ部屋はさらに静かになった。
何人かの経営陣が互いに顔を見合わせる。
そして――
ドアが開いた。
全員の視線が一斉にそちらへ向く。
一人の青年が入ってきた。
黒いTシャツ。
グレーのジャケット。
ジーンズ。
少し黄ばんだ白いスニーカー。
少し乱れた黒髪。
落ち着いた暗い灰色の瞳。
大企業の社長らしい雰囲気は、どこにもない。
護衛もいない。
秘書もいない。
フォーマルな服装でもない。
ただ、肩にシンプルなリュックを背負った一人の青年。
黒瀬蓮。
蓮は用意されていた席へ向かう。
リュックを床に置く。
そして座った。
「おはようございます」
淡々とした声。
「黒瀬蓮です」
沈黙。
中島は蓮を見る。
そして高橋を見る。
それから、再び蓮へ視線を戻した。
「あなたは......」
言葉が止まる。
まるで、目の前の状況を理解するために脳が時間を必要としているようだった。
「新しいオーナーですか?」
「はい」
「ですが......まだお若い」
「はい」
「それに......大学生?」
「はい」
中島は眉をひそめた。
「冗談ですか?」
高橋がすぐに答えた。
「いいえ。黒瀬様がヤマト・ロジスティクスの正式な所有者です。必要な手続きはすべて完了しています」
誰も笑わなかった。
蓮は一人ずつ彼らを見る。
彼らの反応は理解できる。
「変に見えるのは分かっています」
誰も口を挟まない。
「ですが、全部を変えに来たわけじゃありません」
蓮は両手をテーブルの上に置く。
「会社の状態を理解したい。それで、何か自分にできることがあるなら......やってみます」
中島が蓮を見る。
「できること?」
「はい」
「黒瀬様、失礼を承知で聞きますが、あなたは大学生ですよね。物流について何を知っているんですか?」
蓮は正直に答えた。
「あまり知りません」
中島は少し驚いたようだった。
しかし蓮は続ける。
「でも、勉強はできます」
蓮はリュックを開く。
数枚の紙を取り出す。
ヤマト・ロジスティクスの財務報告書。
すでに印刷してある。
線が引かれている。
いくつかの箇所には小さな書き込みもある。
蓮はそれをテーブルの上に置いた。
「会社の財務報告書は読みました」
中島は紙の束を見る。
「いくつか気になった点があります」
蓮は一枚のページを手に取る。
「現在の負債は約48億円。その大部分が、昨年の車両拡充のために銀行から借り入れたものです」
特定の数字を指す。
「年利は約2.3%」
指が止まる。
「現在の借入額なら、年間約1億1,000万円を利息だけで支払うことになります」
中島はその数字を見る。
「......その通りです」
蓮は続ける。
「ただ、問題は負債の総額だけじゃない」
ページをめくる。
「返済条件そのものが、今の会社のキャッシュフローに対して重すぎます」
何人かの経営陣が、真剣に話を聞き始める。
蓮は別の箇所を指す。
「この建物の価値は約32億円。保有しているトラック45台が約18億円。その他の資産も合わせれば、会社そのものにはまだ十分な価値があります」
一度、言葉を止める。
「つまり、ヤマト・ロジスティクスは価値のない会社じゃない」
部屋がさらに静かになる。
「問題の中心は、流動性と負債構造です」
中島は、より真剣な表情で蓮を見る。
「返済期間を延長して、金利を再交渉する。キャッシュフローを改善できれば、会社にはまだ立て直す余地があります」
誰も話さない。
蓮は紙をテーブルに置いた。
「報告書を見た限りでは、そう思います」
ようやく中島が口を開いた。
「どうして......そこまで分かるんですか?」
蓮は肩をすくめる。
「報告書を読みました」
「ですが、この資料は100ページ以上あります」
「はい」
「私は、全部を理解するのに三日かかりました」
蓮は答えない。
頭の中では――
《資産分析 EX》。
15分。
120ページ。
普通なら何時間もかけて分析する財務情報が、まるで最初から整理されていたかのように頭の中へ入ってきた。
蓮は、この感覚が好きではなかった。
あまりにも実用的すぎる。
あまりにも強すぎる。
そして、あまりにも簡単に使えてしまう。
高橋が茶を一口飲む。
口元には薄い笑みが浮かんでいた。
蓮は全員を見る。
「経営陣を入れ替えるつもりはありません」
何人かが顔を上げる。
「誰かを解雇するつもりもありません」
蓮は一度、言葉を止める。
「俺は、この会社がちゃんと回ってほしいだけです」
落ち着いた視線。
「そして、ここで働いている87人が、そのまま働き続けられるようにしたい」
中島は答えなかった。
濃い茶色の瞳で蓮を見つめる。
何かを探している。
傲慢さ。
嘘。
隠された意図。
何でもいい。
しかし、はっきりとしたものは見つからなかった。
この青年は本気だ。
そんな考えが、自然と浮かんだ。
本当に、本気なのだ。
権力を見せつけたいわけではない。
社長ごっこをしたいわけでもない。
ただ――
この会社を存続させたいだけなのだ。
―――
11時30分
ヤマト・ロジスティクス — 3階、メイン会議室
会議は、ほぼ二時間に及んだ。
蓮は話すよりも、聞いている時間のほうが長かった。
分からない部分があれば質問する。
必要な時だけメモを取る。
そして意見を述べる時は――
常に問題の核心だけを話した。
最初、経営陣は距離を取っていた。
しかし、少しずつ空気が変わっていく。
彼らは現場の問題について、より率直に話し始めた。
蓮はすべてを聞いた。
話を遮らない。
決定を押しつけない。
やがて中島は椅子に背を預けた。
もう、朝のような疑いの表情は浮かんでいない。
「黒瀬様」
蓮が振り向く。
「はい?」
中島は少し頭を下げた。
「今朝の私の態度について、申し訳ありませんでした」
「気にしなくていいです」
「あなたを見くびっていました」
蓮は首を横に振る。
「分かります」
中島が顔を上げる。
蓮は続けた。
「俺があなたの立場でも、たぶん同じことを考えます」
中島は黙った。
そして、小さく笑う。
「ありがとうございます」
蓮は腕時計を見る。
もう昼が近い。
「俺は行きます」
一人の経営陣が驚く。
「行く?」
「講義があります」
部屋が数秒間、静まり返る。
高橋は、笑いそうになるのをこらえていた。
数十億円規模の資産を持つ会社のオーナーが――
講義のために帰る。
蓮が立ち上がる。
全員が立ち上がる。
何人かは頭まで下げた。
蓮は退出する前に足を止めた。
「中島さん」
「はい?」
「負債の再編案を作っておいてください」
中島はすぐに頷いた。
「承知しました」
「来週、見せてください」
「必ず用意します」
蓮は頷く。
「ありがとうございます」
そして部屋を出た。
ドアが閉まる。
数秒が過ぎる。
やがて、経営陣の一人が口を開いた。
「......本当に大学生なんですか?」
高橋は落ち着いた声で答えた。
「はい」
「それで、オーナーなんですか?」
「はい」
部屋は再び静かになった。
―――
12時15分
ヤマト・ロジスティクス → 駐車場 → 大学方面
蓮は車へ乗り込む。
エンジンをかける。
ヤマト・ロジスティクスの建物を後にする。
大学へ向かう途中、蓮の思考は先ほどの会議へ戻っていた。
中島。
有能。
経験も豊富。
問題は一つだけ。
以前の経営陣の判断のもとで、長く働きすぎていた。
蓮は前方の道路を見る。
「......うまくいくといいな」
再編が順調に進むかどうかは分からない。
それでも――
今は、まだチャンスがある。
―――
13時00分
大学 — 学食
蓮は大学へ到着するのが遅れた。
午前の授業は、すでに終わっている。
しかし、蓮はそれほど気にしていなかった。
授業の大半は、すでに自分で勉強している。
学食の隅に座る。
「カレーライス、一つ」
「420円です」
蓮は支払う。
席に座る。
静かに食べる。
少し離れたテーブルでは、何人かの学生が話していた。
「なあ、聞いた?」
「何を?」
「ヤマト・ロジスティクスに新しいオーナーがついたらしい」
「新宿の?」
「ああ。物流会社の」
「マジで? 誰?」
「知らない。かなり若いらしい」
「金持ちの息子?」
「たぶんな」
蓮のスプーンが、一瞬だけ止まった。
そして、再び動く。
......危なかった。
本当に、危なかった。
蓮はカレーライスを食べ終えた。
立ち上がる。
トレーを返却場所へ運ぶ。
そして、一度も振り返らずにその場を離れた。
―――
15時00分
大学 — 図書館
図書館は、ずっと静かだった。
蓮はいつもの隅の席に座っている。
目の前には、企業再編に関する本が開かれていた。
課題ではない。
試験でもない。
ただ、もっと理解したかった。
デット・エクイティ・スワップ。
返済期限の延長。
金利の引き下げ。
融資の再編。
蓮はいくつかのポイントを書き留める。
その時、スマートフォンが振動した。
メッセージが一件。
高橋健司
«黒瀬様。
システムから、特別な贈り物が二つ準備されているとの連絡があり――
......失礼しました。
経営陣から、近いうちに二つの特別な贈り物をご用意する予定だと聞いております。
詳細については、まだお伝えできません。
ただ、この贈り物は非常に特別なものだと聞いております。
高橋健司»
蓮は、そのメッセージをしばらく見つめた。
「......」
特別な贈り物が二つ?
蓮は眉をひそめる。
「今度は何だよ......」
スマートフォンの画面をロックする。
目の前の本へ視線を戻す。
「今は考えたくない」
蓮は再び読み始めた。
しかし、その後の数分間――
頭の中には、何度も同じ言葉が浮かんでいた。
二つの特別な贈り物。
―――
16時30分
大学 — 地下1階駐車場
蓮は駐車場へ向かって歩いていた。
帰ろうと思っていた。
しかし、エレベーターを降りた瞬間――
足が止まった。
自分の車の近くに、誰かが立っている。
一人の女性。
黒いスーツ。
長く真っ直ぐな青黒い髪。
青灰色の瞳。
伸びた背筋。
落ち着いた眼差し。
如月美雪。
蓮はすぐには動かなかった。
美雪も動かない。
数秒が過ぎる。
やがて蓮が近づいていく。
「如月さん」
「黒瀬様」
「何か用ですか?」
美雪は蓮を見る。
「お話があります」
「何について?」
「あなたについてです」
蓮は黙った。
数秒間、美雪を見る。
そして短く息を吐く。
「ここで?」
美雪は出口のほうを見る。
「大学の近くにカフェがあります。あちらのほうが静かです」
蓮は頷く。
「分かりました」
断る理由もなかった。
―――
17時00分
大学近くのカフェ
カフェは、それほど混んでいなかった。
離れたテーブルに、数人の客が座っているだけだ。
蓮はブラックコーヒーを注文した。
美雪は紅茶。
二人は隅の席を選んだ。
美雪は背筋を伸ばして座っている。
蓮はリラックスした様子で背もたれに寄りかかる。
数秒間、誰も話さなかった。
やがて美雪が口を開く。
「あなたについて調べました」
蓮はカップを持ち上げる。
「知っています」
美雪は少しだけ目を細める。
「そして、あまり情報が出てきませんでした」
「そうですか」
「裕福な家庭だという記録はありません」
蓮は黙る。
「遺産もありません」
沈黙。
「先週までは会社もありませんでした」
美雪は一度言葉を止める。
「それなのに今は、会社、高級マンション、そして非常に高価な車を所有している」
蓮はコーヒーを一口飲む。
「分かっています」
美雪はまっすぐ蓮を見る。
「どうしてですか?」
蓮はカップを下ろした。
暗い灰色の瞳は、相変わらず落ち着いている。
「如月さん。昨日も言いました。全部を説明することはできません」
「なぜ?」
「説明するのが難しいことがあるからです」
「それでは納得できません」
「分かっています」
美雪は少しだけ身を乗り出した。
声は変わらず落ち着いている。
「黒瀬様。私は簡単には諦めません」
蓮は答えない。
「これからも調べます」
美雪は蓮の目をまっすぐ見つめる。
「そして、答えが見つかるまで質問し続けます」
数秒が過ぎた。
そして――
二人が出会ってから初めて、
蓮の口元がほんの少しだけ上がった。
小さな笑み。
嘲笑ではない。
親しげな笑みでもない。
ただ、自然に出た反応だった。
「如月さん......頑固ですね」
美雪は眉をひそめる。
「私は、粘り強いと言っているだけです」
蓮は頷いた。
「分かりました。粘り強い」
再びカップを持ち上げる。
「それは評価します」
美雪は少し黙った。
「評価?」
「はい」
蓮はカップを置く。
「ほとんどの人は、気にしません」
一度、テーブルを見る。
「目の前にあるものしか見ない。車。マンション。会社」
視線を美雪へ戻す。
「質問もしない。調べようともしない」
沈黙。
「あなたは違う」
美雪は答えない。
蓮が続ける。
「あなたが求めている答えを、俺は出せません」
美雪はなおも蓮を見つめる。
「でも、一つだけ言えます」
「何ですか?」
「俺は脅威じゃない」
声は淡々としている。
「誰かを傷つけるつもりもありません」
蓮は一度言葉を止める。
「俺は、ただ静かに暮らしたいだけです」
美雪は蓮の顔を観察する。
目。
声の調子。
手の動き。
姿勢。
目立った変化はない。
明確な兆候もない。
嘘をついていない。
そんな考えが浮かぶ。
あるいは――
非常に優れた嘘つきなのかもしれない。
美雪には、どちらなのか判断できなかった。
蓮が立ち上がる。
「俺は行きます」
美雪は彼を見る。
「黒瀬様」
蓮が足を止める。
「ありがとうございます」
蓮が振り返る。
「何に?」
美雪は目の前の紅茶へ、少し視線を落とす。
「話してくれたことに」
蓮は黙る。
美雪が続ける。
「ほとんどの人は、私と話したがりません」
顔を上げる。
「怖がるんです」
蓮は美雪を見る。
「俺は怖くない」
その答えは単純だった。
そこに傲慢さはない。
蓮はドアへ向かう。
そしてカフェを出ていった。
美雪は、その場に残った。
少しずつ湯気を失っていく紅茶を見つめる。
そして、再び頭の中に浮かぶ名前。
黒瀬蓮。
あなたは、一体何者なの?
―――
18時00分
カフェ → 地下1階駐車場 → 赤坂方面
蓮は車へ乗り込む。
ドアが閉まる。
外の音が一気に遠ざかる。
エンジンをかける。
美雪は、これからも調べ続ける。
蓮には、それが分かっていた。
ハンドルを握る。
「......もっと気をつけないとな」
車が駐車場を出る。
東京の街は、夕方の光に包まれ始めていた。
しかし、蓮の頭の中には先ほどの会話が残っている。
美雪は、簡単に騙される人間ではない。
そして、もっと重要なのは――
簡単には諦めない人間だということだった。
―――
18時45分
赤坂レジデンス — 1203号室
蓮はドアを開けた。
マンションは静かだった。
鍵をテーブルへ置く。
ジャケットを脱ぐ。
そして床に座った。
テレビの音はない。
音楽もない。
窓の外では、夜がゆっくりと降り始めている。
蓮はスマートフォンを手に取る。
画面が点灯する。
《無欲行動を確認》
無欲行動を確認しました。
利用者は、個人的な利益を求めることなく会社の問題を解決しました。
利用者は、見返りを求めることなく87人の従業員を助けました。
利用者は、資産や権力を誇示しませんでした。
無欲ボーナス:×35
報酬:5億円
実績解除:
【問題解決者】
蓮は画面を見つめる。
「......」
また5億円。
蓮はスマートフォンを置いた。
天井を見る。
「......俺、別に頼んでないんだけど」
答えはない。
当然だ。
数秒後――
ピン。
画面が再び点灯する。
《特別報酬のお知らせ》
特別報酬のお知らせ
システムは利用者のために、二つの特別報酬を準備しています。
報酬は近日中に付与されます。
報酬の詳細は、現時点では公開できません。
状態:準備中
蓮は、その通知を見つめた。
二つの報酬。
高橋のメッセージと同じだ。
「......今度は何だ?」
画面をロックする。
考えたくない。
蓮は立ち上がる。
キッチンへ向かう。
緑茶を淹れる。
そしてベランダのドアを開けた。
東京の夜の空気が、蓮を迎える。
蓮はベランダの椅子に座る。
眼下では、車のライトが長い線のように流れている。
ビルの明かりが、一つ、また一つと灯っていく。
東京は決して完全には眠らない。
蓮は茶を一口飲む。
今日――
中島と会った。
ヤマト・ロジスティクスが抱えている問題を直接聞いた。
再編の方向性を決める手助けをした。
そして美雪とも話した。
それから――
またシステムから報酬が与えられた。
蓮はカップの中の茶を見つめる。
「......俺の日常も、少し変わったな」
以前なら、最大の問題は大学生活と、誰にも邪魔されずに一日を過ごすことだった。
今は――
会社がある。
87人の従業員がいる。
何十億円もの資産がある。
高すぎる車がある。
そして、自分について調べ続ける警備会社の女性がいる。
蓮は息を吐く。
「......騒がしすぎる」
夜空を見る。
街の明かりに遮られて、星はほとんど見えない。
それでも、空気は静かだった。
それで十分だ。
今のところは。
蓮は立ち上がる。
カップを持って部屋へ戻る。
ベランダのドアを閉める前に、もう一度だけ東京の街を振り返った。
二つの特別報酬。
システムが何を準備しているのか。
蓮には分からない。
そして初めて――
まだ手に入れてもいない報酬に対して、少しだけ不安を覚え始めていた。
「......あまり大げさなものじゃなければいいけど」
ベランダのドアが閉じる。
夜は再び静かになった。
蓮は、何が待っているのかを知らないまま眠りについた。
しかし、彼の表面上は変わらない生活の裏側で――
《絶対資産支配システム》は、まだ動いている。
一つずつ。
蓮の許可を求めることなく。
彼の同意を待つこともなく。
そして、準備されている二つの特別報酬は――
ただ、その時を待っていた。
―――
【次回予告】
第9話「会社を買う気なんてない」
蓮のヤマト・ロジスティクス所有者としての生活が、始まったばかりだった。
しかし、システムはまたしても、蓮がまったく望んでいないものを提示する――
新たな企業。
そして、問題を抱えた会社。
今度、蓮はシステムが示す流れに、そのまま従うのか......
それとも、自分の意思で止めようとするのか。
その一方で、システムが約束した二つの特別報酬にも、少しずつその存在を示す兆候が現れ始める。
そして、そのうちの一つが――
蓮自身が自分の人生を見る目を変えることになる。
第9話へ続く......