第19話 消えるものなんてない
窓からの柔らかな光。
温かい布団。
花の匂い。
虹を反射する乳白色の髪。
「ナナリエ......」
私の手を大事そうに握って、彼女は眠っている。
まるで幼気な子供を守るように。
「アンリ......起きたのね」
手を外そうとした振動に気づいて、ナナリエも目覚めた。
「私、ずっとあなたを捕まえていたの?」
手を見て驚く。無意識だったみたい。
誰のことを思っていたんだろう?
そんなふうに思考を巡らせようとしたとき、
部屋の扉が開いて、朝食が運ばれてきた。
「カレイド宮殿は双王陛下の住まいなの」
朝の光が照らす道を歩きながら、ナナリエが教えてくれた。
「もともとこの国の中央には神殿が建っていたんだけど、神殿を北に移設した時期があって。そのとき、旧殿舎が双王陛下の御所として転用されたの」
居抜きってやつか。
「じゃあ、今から......王様たちに会いに行くってこと......?」
私はちょっと身構えて質問した。
ナナリエは「あ!」という表情をして、すぐに付け足した。
「もちろん、個体認証に行くの。カレイド宮殿には、中央行政院と国議会も入っているから」
この身体が何者なのか、早く答えを知りたい。
その気持ちはナナリエも私も同じだ。
ただ、本人確認じゃなくて個体認証って......
ちょっとその言葉が妙に重くて、少し怖い。
「王女殿下、ようこそ」
王都政庁の中央行政院、その中にある系譜管理局の個体認証課へ到着した。
正直、名前が長すぎて、二度目は言えないかもしれない。
......要するに、暮らしに関わるあれこれを一括で押し込まれている窓口、って感じかな。
個体認証課ではニコニコした男性が出迎えてくれた。
「この間のシステム改修のおかげで反応速度が上がりましたよ〜」
濃紺の癖っ毛で調子の良さそうなおじさん......お兄さん?ちょっと微妙な年齢だ。
「私は法務出身なんで、こういう機械のシステムって全然わからないんですけどね。規定ならいくらでも引けるんですが。とにかくお客さんの待ち時間が目に見えて改善されて......うんぬんかんぬん......」
あー、わかる。
それの仕組みはわからなくても、結果が改善されていれば、私たちのような人種は満足してしまうのだ。
お兄さんに親近感を抱いた。
ナナリエは「そう」と相槌を打っている。少しは理屈を理解したらどうだ、という冷ややかな視線。こういうのも見覚えがある。いや、身に覚えがある。
「琥珀宮では結環の儀で忙しいようです。こちらにも本局から業務が移管されてきているのでは?」
ナナリエは、おしゃべりなお兄さんの話を冷たく遮った。
こちらにも本局から業務が移管......?
王都が本局じゃないの?って違和感を覚えた。
――琥珀宮が伝統と記録を担う場所だから?
――系譜の本体はそっちにある......?
――ただ伝統的なお祭りをやる場所じゃないってこと?
考えを巡らそうとした時、それを掻き消すような、お兄さんの怒涛の訴えが始まる。
「そう、そうなんです。最近、所属変更する人が多くて!」
お兄さんは晶盤をよく見える位置に掲げた。
「もー、大変ですよ!」
お兄さんのサファイアの環をかざすと、晶盤が淡く光る。
「ほら見てください、この人!」
でも、私には何も読み取れない。
「この人なんて――五年間で八回も所属変更してるんですよ!八回ですよ!?」
ぱん、と晶盤を叩く。
軽い調子で言うが、切実な訴えのようだ。
「畜産に看護に国衛......国を一周する気ですかね!?これ、追う側の身にもなってほしいですよ......あれ?」
押し寄せる波が急に減速する。
「でも変だな......」
お兄さんが首を傾げる。
「今二十歳ってことは......」
「――喋りすぎですよ」
ナナリエがぴしゃりと遮った。
「あ、はい」
お兄さんは照れ隠しのように頭を掻いて、晶盤を置いた。
けれど、私はその数字が頭から離れなかった。
五年で、八回......。
昨日ハルジオン殿下とナナリエに聞いた“移動できる系譜”の話が、現実味を帯びる。
いや、これはもう、移動ってレベルじゃないでしょ。
制度のほうが悲鳴を上げている感じがする。
「では、そろそろ本題へ」
お兄さんは私に笑顔を向けた。
「こちらへどうぞ」
お兄さんに促されて、私は晶盤をのぞいた。
薄く光を帯びた板の上に、細かな記号のようなものが浮かび上がっている。
「手をかざしてください。照合を行いますので」
言われるままに、手を伸ばす。
でも......
晶盤は淡く光るだけで何も反応しない。
「失礼しました。環を紛失しているんでしたね」
私の手を見て、お兄さんが言った。
「大丈夫ですよ。子供さんは紛失されるかた、多いですから」
そうなんだ。
とりあえず、子供にはよくあることみたいだ。
「仮の環を貸し出しいたしますね。紛失登録も併せて行います」
......紛失、したのかな?
手の指も細いし、抜けちゃったのかも。
細い指に、お兄さんが「失礼しまーす」と言って、環をはめてくれた。
なんてことはない、ただの指輪に見える。
「はい。では照合いたしまーす」
手をかざす。
触れてはいない。
でも、すぐそこに“何か”があるのがわかる。
環をはめたから?
晶盤の記号が意味を持って立ち上がるのが見える。
文字が読めるのとは違う。
意味そのものが、そこにある。
記入欄のようなイメージが見える。
その欄の空白に記入しろってこと?
「ゆっくりでいいですよ。そのまま反映させてください」
そのままって、何をそのまま?
読むことができるなら、書くこともできる?
でも、何を書けばいいの?
私の何を......。
「アンリ、覚えていることを全て、意識でなぞって。共有するの」
思い出して、イメージすればいいってこと?
最初に目覚めた納屋、鏡に映った黒い瞳、わからない言葉、虹色の泉、私とナナリエの髪の毛が絡み合う不思議な現象、二つの太陽......
髪の毛が絡み合ったときの、あの不思議な感覚を思い出した。
何かが押し出されるようにこちらに流れ込んでくる......
あの時の感覚――
次の瞬間。
――ふ、と。
晶盤の記号が、ほどけた。
ほどけて、流れて、どこかへ抜けていく。
どこかじゃない、こちらだ。
逆流してくる。
情報のカケラなんかじゃない。
押し流されて、抗う間もなく私の中に入ってくる。
「......え?」
思わず声が漏れる。
晶盤の上は、空白になっていた。
「え、ちょ、ちょっと待ってください、今の――」
お兄さんが手をかざし慌てて操作しようとする。
けれど、何も戻らない。
「照合情報が......消えてる......?」
その言葉に、心臓が、身体が激しく揺れた。
消えた......?
「す、すみません、私――」
何かやらかしちゃったのかなって軽く考える私と、激しく動揺するこの細い身体。
ふいに周囲が騒がしくなった。遠くの席からも声が聞こえる。
「照合不能ですって?」
「ねえ、急に晶盤が反応しなくなったんだけど!」
「こちらも該当情報無しって表示されてます!」
「全部、消えている......」
ロビー中に動揺が走っていた。
私のだけじゃないってこと......?
見渡す限り、どの晶盤も同じように沈黙していた。
誰のものも、例外なく。
停電みたいな、システム上のトラブル......?
いろんな理由を考えて自分を安心させようとしてるのに、図太い私はこんなことで焦ったりしないのに、この身体は、全く言うことをきかない。
『ぜんぶ、消したんだ』
ふいに声が蘇る。
あの時の子供。
『どうして消しちゃったの』
声だけじゃない。
知らない光景が見える。
虚な目で立ち尽くす子供と、それを支える子供。
責める声。
走ってくる大人。
これって、この身体の記憶?
視界は大きく向きを変え、路地の裏を流れていく。
逃げ出したんだ。「この子」は。
怖い。
それだけがこの身体を埋め尽くしていた。
「落ち着いてください」
私の意識にナナリエの声が、静かに割り込んだ。
驚くほど、いつも通りの声音だった。
「みなさん、手を止めて。一時的な障害です」
ナナリエの声に、ロビーは一瞬静けさを取り戻した。
けれど、ほんの一瞬だけ。
「でも、晶盤の障害なんて聞いたことないよ」
みなが口々に疑問を上げる。
「どう見ても、消えちゃってるでしょ」
「そうですよ、王女殿下。これ、中身が全部消えてますよ......!」
お兄さんも不安そうな目でナナリエを見ている。
「消えるものなんてありません」
ナナリエは迷いのない声ではっきりと宣言した。
「消えるという現象はありません。それは形を変えたか、存在する場所が移っただけです」
瞳が光を受けて虹色を返した。
――その瞬間。
視界が、揺れた。
聞こえているはずの音が、遠くなる。
代わりに、別の“何か”が流れ込んでくる。
言葉。
声。
感情。
『大丈夫よ――』
名前を呼ばれた気がした。
でも私の名前じゃない――。
『消えるものなんてない。形を変えるか、どこか別の場所へ行くだけ』
ナナリエの声?
同じ言葉が、まったく同じ響きで蘇る。
でも、これは“今の”ナナリエじゃない。
――身体の内側から、響いてくる。
誰かが手を握っている。
怖がらずに、逃げもせずに。
ただ、当たり前のように。
生まれてきたときに、誰もが受け取っていてほしい温もりだった。
あなたはここにいるよと、ナナリエの手が伝えていた。