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第20話 ナナリエがまもるもの

 手が触れた。

 空から降ってきた雨粒のように、私の肩にひんやりと落ちる。
 その温度がゆっくり私の中に伝わってくる。

「アンリ」

 声が近くで響いた。ナナリエだ。
 意識に直接触れるような、静かな響き。

「呼吸を整えて。大丈夫、ここにいる」

 そう言いながら彼女は私の背中をゆっくりさすった。

 言われた通りに息を吸う。うまくできない。

 でも、何度か繰り返すうちに、少しずつ身体感覚を取り戻してきた。

 視界が戻る。ざわめきの中で、聴覚も戻る。

 ――ここは、さっきまでいた場所だ。


「全員、手を止めてください。事態の把握をします」

 私が落ち着きを取り戻すと、ナナリエは視線を全体に向けた。
 濃紺の癖っ毛のお兄さんに向けて指示を出した。

「直ちに琥珀宮の本局に照会をかけてください」
「え......私がですか? いきなり本局に?」
 お兄さんは躊躇している様子だ。

 フロア内のざわめきも、収まっていない。

「照合不能ってどういうことだ」
「全部消えてるって......そんなこと、あるのか?」

 誰もが晶盤を覗き込み、同じ異常に戸惑っている。

「しかし、先ほど、殿下がお連れのお嬢さんが晶盤に接続したとき......」
 
 お兄さんの視線が私に向いた。

 ――さっき、触れたから?

 その視線に気付いたのか、周囲の何人かもこちらを見る。

「......あの子が、接続した直後に......?」
「まさか......」

 言い切らないけれど、明らかに疑いは私に向いている。

 ナナリエは半歩前に進み、私を背後に隠した。

 庇われている......?

 私を背後に隠すその動きは素早かった。
 咄嗟にというより、予測された状況のひとつだったみたいに。

「本局の系譜情報に異常がないか、至急確認が必要です」
 ナナリエははっきりとした声で告げた。

 そのとき――

「困ります、王女殿下」
 低く抑えた声が割り込んだ。

 中年の職員がお兄さんとナナリエの間に割って入った。
 落ち着いた口調だが、その奥に明確な拒絶がある。

「このような事態は前例がありません。現場での精査を優先させていただきます。外部への通達は――」
「精査は後で結構です」
 ナナリエの声が、静かに重なった。

「この状態で接続を続ければ、影響がさらに拡大するおそれがあります。影響範囲が不明な以上、局所の問題として扱うべきではありません」

 強くはない。けれど、迷いがない。

「今は“失われていない”前提で動いてください」

 言葉を失う職員を前に、ナナリエは周囲を見渡し、淡々と続けた。

「系譜管理局本局へ照会。全件、照合状態の再確認を」
「アメジスト宮、媒体制御局にも連絡を。接続障害の有無、全域で確認」
「瑠璃宮には通達を。解析班を出させて」

 そう一息に告げた。

「......お待ちください。そこまでの規模で動かす必要があるでしょうか?」
 職員の声は、先ほどよりもはっきりとした拒絶を帯びていた。
「誤報であれば、責任問題になります」

 責任。

 その言葉に、空気が止まった。

「原因は後で追えます」

 ナナリエは断言した。

 ――本当に?

 ナナリエの声は、わずかに硬かった。
 いま、この場で確かめるべき何かを切り捨てたのかもしれない。

「ですが、現時点で優先すべきは“記録の所在”です」

 一帯が静まり返った。

 誰も動かず、視線だけが交錯した。
 責任を避け、互いに判断を委ねるように。

 指示は出ている。
 やるべきことも明確だ。

 それでも、誰一人として手を動かさなかった。

 王族にどれだけの権限があるのか、私にはわからない。
 でも、ナナリエの言葉に従っていいのか、誰も確信を持てずにいる。それだけはわかった。

 誰が最初に責任を取るのか。
 その沈黙だけが、場を支配していた。

 ナナリエは小さく息を吸ったが、すぐに言葉にはならなかった。

 ひそひそ囁く声が各所から上がり始めた。

「王女殿下って......、あの女の子が......?」
「成人したばかりでしょう......」
「......議会には既に所属していると聞くが......」

 囁くばかりで、誰もナナリエに声をかけない。

「ナナリエ......」
 私は名前を呼ぶことしかできず、弱々しく彼女のスカートの裾を握った。

 本当は私が原因なんだ。
 ナナリエの硬い表情から、それが理解できた。

 ナナリエは、わずかに視線を落とし、私の位置を確かめる。

 手が触れた。

 朝の布団の温もりを思い出した。

 大切なものを守るように握る、ナナリエの手。

 無意識に守ろうとしているのは、私なのか、それともこの――
 
 私は私の手を見た。

 小さく、細く、弱々しい手。

 ナナリエは、私の小さな手をもう一度ぎゅっと握った。

 そして、再び顔を上げた。

 ――場を、まっすぐに見据える。

 まるで、一人で押し切るしかないと決めたみたいに。

 その視線を、場が受け止める。

「さすがに......この場で判断など......」
「しかし......殿下は......先代の双王陛下の......」

 値踏みするような空気の中で、ナナリエの口が開いた。

「責任は――」
 
 そのとき、何人かの視線が同じ方向へと向いた。
 
 ざわめきが、次第に、しかし不自然に萎んでいった。
 みんなの視線がナナリエを通り越して、私たちの後ろへと向いていた。

 ――なんだろう。

 つられて振り返って、

「でかっ......!」

 身体のコントロールを取り戻した私は、心の声をうっかり漏らしてしまった。

 背後に立っていたのは、岩山のような大男だった。
 年配の紳士だ。しかし、白シャツ越しでもわかるほどの筋肉。
 なのに、気配は妙に静かだ。

 いつ、ここに――。

「局長......」
 先ほどの中年の職員が声をかける。

 この人がここの局長......?

 刻まれた皺の深い顔。不思議と荒さはない。
 静かに立っているだけで、場の空気が締まる。

 なんだろう......この、幕末の志士のような気迫は。
 自分で翻訳した『局長』の単語に、思考が引っ張られているのかな?

「全件照会に切り替えます。媒体制御局にも即時要請を」

 幕末の志士......じゃなくて局長は、ナナリエに会釈をして告げた。

 右手には、赤橙の環を装着している。

 これは、――珊瑚だ。

「局長......。いくら王族とはいえ、外部の意見に従うのですか......」
 先ほどの職員が息を呑んだ。

「控えよ」
 局長は短く制した。

 それから、ナナリエへと向き直った。
「一昨年の危機管理対策のご提言、拝聴いたしました」
 太くて、よく通る声だ。

「実に理にかなっており、隙がない」
 ほんのわずかに、目を細める。
「今回のご判断も、その延長線上にあるものと存じます」

 ナナリエは、何も答えなかった。
 ただ、ごく小さく頷くだけ。

 局長はずっしりと頷き、重心を固定したまま全体を見渡した。

「本件は、個体要因の特定を保留する」

 局長の視線が、わずかにこちらをかすめた。

「現象として処理する。各自、指示通りに動くのだ」

 局長の一声で、空気が変わる。
 局内の職員がそれぞれの役割を迷いなく遂行する。

「本局にて系譜原本の確認取れました。当支局のみの事象のようです」
「媒体制御局へ、復元要請、手配いたしました」
「瑠璃宮への解析依頼も手配済みです」

 先ほどまでの混乱が、別の種類の慌ただしさへと変わっていく。


 私は、隣に立つナナリエを見上げた。

 さっきと何も変わらない顔で、彼女は場の流れを見ている。
 それでもほんの少しだけ肩の力が抜けていた。
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星粒のリテラエ ——文化人類学者、異星で理系王女に拾われる作者:はなちゃん
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第20話 ナナリエがまもるもの

 手が触れた。

 空から降ってきた雨粒のように、私の肩にひんやりと落ちる。
 その温度がゆっくり私の中に伝わってくる。

「アンリ」

 声が近くで響いた。ナナリエだ。
 意識に直接触れるような、静かな響き。

「呼吸を整えて。大丈夫、ここにいる」

 そう言いながら彼女は私の背中をゆっくりさすった。

 言われた通りに息を吸う。うまくできない。

 でも、何度か繰り返すうちに、少しずつ身体感覚を取り戻してきた。

 視界が戻る。ざわめきの中で、聴覚も戻る。

 ――ここは、さっきまでいた場所だ。


「全員、手を止めてください。事態の把握をします」

 私が落ち着きを取り戻すと、ナナリエは視線を全体に向けた。
 濃紺の癖っ毛のお兄さんに向けて指示を出した。

「直ちに琥珀宮の本局に照会をかけてください」
「え......私がですか? いきなり本局に?」
 お兄さんは躊躇している様子だ。

 フロア内のざわめきも、収まっていない。

「照合不能ってどういうことだ」
「全部消えてるって......そんなこと、あるのか?」

 誰もが晶盤を覗き込み、同じ異常に戸惑っている。

「しかし、先ほど、殿下がお連れのお嬢さんが晶盤に接続したとき......」
 
 お兄さんの視線が私に向いた。

 ――さっき、触れたから?

 その視線に気付いたのか、周囲の何人かもこちらを見る。

「......あの子が、接続した直後に......?」
「まさか......」

 言い切らないけれど、明らかに疑いは私に向いている。

 ナナリエは半歩前に進み、私を背後に隠した。

 庇われている......?

 私を背後に隠すその動きは素早かった。
 咄嗟にというより、予測された状況のひとつだったみたいに。

「本局の系譜情報に異常がないか、至急確認が必要です」
 ナナリエははっきりとした声で告げた。

 そのとき――

「困ります、王女殿下」
 低く抑えた声が割り込んだ。

 中年の職員がお兄さんとナナリエの間に割って入った。
 落ち着いた口調だが、その奥に明確な拒絶がある。

「このような事態は前例がありません。現場での精査を優先させていただきます。外部への通達は――」
「精査は後で結構です」
 ナナリエの声が、静かに重なった。

「この状態で接続を続ければ、影響がさらに拡大するおそれがあります。影響範囲が不明な以上、局所の問題として扱うべきではありません」

 強くはない。けれど、迷いがない。

「今は“失われていない”前提で動いてください」

 言葉を失う職員を前に、ナナリエは周囲を見渡し、淡々と続けた。

「系譜管理局本局へ照会。全件、照合状態の再確認を」
「アメジスト宮、媒体制御局にも連絡を。接続障害の有無、全域で確認」
「瑠璃宮には通達を。解析班を出させて」

 そう一息に告げた。

「......お待ちください。そこまでの規模で動かす必要があるでしょうか?」
 職員の声は、先ほどよりもはっきりとした拒絶を帯びていた。
「誤報であれば、責任問題になります」

 責任。

 その言葉に、空気が止まった。

「原因は後で追えます」

 ナナリエは断言した。

 ――本当に?

 ナナリエの声は、わずかに硬かった。
 いま、この場で確かめるべき何かを切り捨てたのかもしれない。

「ですが、現時点で優先すべきは“記録の所在”です」

 一帯が静まり返った。

 誰も動かず、視線だけが交錯した。
 責任を避け、互いに判断を委ねるように。

 指示は出ている。
 やるべきことも明確だ。

 それでも、誰一人として手を動かさなかった。

 王族にどれだけの権限があるのか、私にはわからない。
 でも、ナナリエの言葉に従っていいのか、誰も確信を持てずにいる。それだけはわかった。

 誰が最初に責任を取るのか。
 その沈黙だけが、場を支配していた。

 ナナリエは小さく息を吸ったが、すぐに言葉にはならなかった。

 ひそひそ囁く声が各所から上がり始めた。

「王女殿下って......、あの女の子が......?」
「成人したばかりでしょう......」
「......議会には既に所属していると聞くが......」

 囁くばかりで、誰もナナリエに声をかけない。

「ナナリエ......」
 私は名前を呼ぶことしかできず、弱々しく彼女のスカートの裾を握った。

 本当は私が原因なんだ。
 ナナリエの硬い表情から、それが理解できた。

 ナナリエは、わずかに視線を落とし、私の位置を確かめる。

 手が触れた。

 朝の布団の温もりを思い出した。

 大切なものを守るように握る、ナナリエの手。

 無意識に守ろうとしているのは、私なのか、それともこの――
 
 私は私の手を見た。

 小さく、細く、弱々しい手。

 ナナリエは、私の小さな手をもう一度ぎゅっと握った。

 そして、再び顔を上げた。

 ――場を、まっすぐに見据える。

 まるで、一人で押し切るしかないと決めたみたいに。

 その視線を、場が受け止める。

「さすがに......この場で判断など......」
「しかし......殿下は......先代の双王陛下の......」

 値踏みするような空気の中で、ナナリエの口が開いた。

「責任は――」
 
 そのとき、何人かの視線が同じ方向へと向いた。
 
 ざわめきが、次第に、しかし不自然に萎んでいった。
 みんなの視線がナナリエを通り越して、私たちの後ろへと向いていた。

 ――なんだろう。

 つられて振り返って、

「でかっ......!」

 身体のコントロールを取り戻した私は、心の声をうっかり漏らしてしまった。

 背後に立っていたのは、岩山のような大男だった。
 年配の紳士だ。しかし、白シャツ越しでもわかるほどの筋肉。
 なのに、気配は妙に静かだ。

 いつ、ここに――。

「局長......」
 先ほどの中年の職員が声をかける。

 この人がここの局長......?

 刻まれた皺の深い顔。不思議と荒さはない。
 静かに立っているだけで、場の空気が締まる。

 なんだろう......この、幕末の志士のような気迫は。
 自分で翻訳した『局長』の単語に、思考が引っ張られているのかな?

「全件照会に切り替えます。媒体制御局にも即時要請を」

 幕末の志士......じゃなくて局長は、ナナリエに会釈をして告げた。

 右手には、赤橙の環を装着している。

 これは、――珊瑚だ。

「局長......。いくら王族とはいえ、外部の意見に従うのですか......」
 先ほどの職員が息を呑んだ。

「控えよ」
 局長は短く制した。

 それから、ナナリエへと向き直った。
「一昨年の危機管理対策のご提言、拝聴いたしました」
 太くて、よく通る声だ。

「実に理にかなっており、隙がない」
 ほんのわずかに、目を細める。
「今回のご判断も、その延長線上にあるものと存じます」

 ナナリエは、何も答えなかった。
 ただ、ごく小さく頷くだけ。

 局長はずっしりと頷き、重心を固定したまま全体を見渡した。

「本件は、個体要因の特定を保留する」

 局長の視線が、わずかにこちらをかすめた。

「現象として処理する。各自、指示通りに動くのだ」

 局長の一声で、空気が変わる。
 局内の職員がそれぞれの役割を迷いなく遂行する。

「本局にて系譜原本の確認取れました。当支局のみの事象のようです」
「媒体制御局へ、復元要請、手配いたしました」
「瑠璃宮への解析依頼も手配済みです」

 先ほどまでの混乱が、別の種類の慌ただしさへと変わっていく。


 私は、隣に立つナナリエを見上げた。

 さっきと何も変わらない顔で、彼女は場の流れを見ている。
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星粒のリテラエ ——文化人類学者、異星で理系王女に拾われる作者:はなちゃん
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