第13話 名前を与えるということ
肯定陛下に別れを告げて、私たちは再び遊歩道を歩き始めた。
このまま王都に行き、戸籍を照合すれば“この子”が誰なのか判明するはずだ。
でも、どうしても気になっていた。
「......最初に目が覚めた場所、もう一度見に行きたいの」
「そうね。記憶は曖昧でも、身体の感覚は残りやすいから」
石の道をいくつか曲がり、ゆるやかな坂を下る。
「......こっち、だと思う」
見覚えがあるような、ないような景色の中を、足だけが自然と進んでいく。
建物の密度が少しずつまばらになり、生活の気配が素朴なものへと変わっていった。
「ここ」
半分壊れかけた扉。ところどころ色の剥げた壁。
中を覗くと、乾いた藁と使われていない道具が雑然と積まれていた。
「......納屋、ね」
ナナリエが静かに言った。
部屋じゃなかったんだ。
カビ臭さと藁のにおい――それだけ。ここには“あのときのにおい”は残っていない。最初に鼻を突き刺したのは、この子自身のにおいだった。
あの日に見た、汚れて縁の黒ずんだ鏡がある。
自分の瞳の底知れない黒さを思い出して背筋が冷えた。
光を返さない黒い瞳。あれは本当に私だったのだろうか。
“この子”はここで何をして、どうやってひとりで雨風を凌いでいたのだろう。
手のひらを見る。小さくて、細い指。
視線より少し上、私はナナリエを見上げた。私より背が高い。
“この子”が何歳なのかはわからないけれど、たぶんナナリエより幼いんだと思う。
ナナリエは辺りを見回していた。
「人がいる。少し尋ねてみましょう」
近くで作業していた女性に、ナナリエが声をかけた。
「失礼します。この子のこと、以前見かけたことはありませんか」
女性は私をちらりと見て、少しだけ首を傾げる。
「いいえ、知らないわねえ」
あっさりした返答だった。
別の人にも聞いてみたが、反応は同じだった。
「見ない顔だね」
「さあ、わからないな」
悪意はない。
でも、どこか距離がある。
ナナリエが小さく肩をすくめた。
「まあ、西の人って外の人にはよそよそしいから」
フォローなのか、事実なのか、微妙なところだ。
「東だったらもっと、あけすけに話しかけてくるもの」
東......学術の都だっけ。そういう土地柄もあるのかもしれない。
その後も街の人の反応は変わらず、それ以上手がかりが得られないまま、私たちはその場を離れた。
少し歩いたところで、背後から声がした。
「......マジョだ」
振り返ると、数人の子どもたちがこちらを見ている。
好奇心と、ほんの少しの警戒。
「ぜんぶ、消したんだ」
ひそひそ声なのに、はっきり聞こえた。
「ねえ――」
問いかけようとした瞬間、子どもたちは蜘蛛の子を散らすように走り去った。
「......マジョって」
ぽつりと呟くと、ナナリエは少し考え込んだ。
「何か誤解されているのね」
視線は、子どもたちが消えた方向に向けられている。
「マジョは、たしかにいる。でも外見的特徴が一致しない」
ナナリエは私を見ながら、そう断言した。
「子どもたちはマジョを正確に知っているわけじゃない。ただ、“わからないもの”に、知っている言葉を当てはめただけ」
――ああ、と腑に落ちる。
未知のものをそのままでは扱えないから、人は持っている概念のどこかに押し込める。
“マジョ”というのは、あの子たちにとっての『未知を入れる箱』なのだ。
恐れや禁忌といった説明できないものをひとまとめにする言葉。そこに、たまたま私が当てはめられただけ。
研究対象にされる側って、こういう感じなんだろうか。
納得はできた。
でも“ぜんぶ消した”って、どういう意味だろう。
さっきの言葉だけが、重く胸に残る。
「......収穫、なしね」
ナナリエが小さく息を吐いた。
「でも、もしマジョが手がかりになるなら......今度、会いに行きましょう。知り合いにいるわ」
「えっ、会えるの?」
マジョの知り合いがいるなんて、王女様はすごいな。
「商店街を見ながら駅に行こ。歩いていれば気持ちも切り替わるわ」
ナナリエは私の手を引いて歩き出した。本当に歩くのが好きな人だ。
歩く速度は潔いほど迷いがない。彼女の中でここでの検証は済んだのかもしれない。
私とは観察の仕方が違って、そこはちょっと面白い。
私は最後にもう一度だけ、あの納屋を振り返った。
やっぱり、何もない。
......ここは“起点”なんかじゃなかったのかもしれない。
私は息を吸い、これから行く先を見た。
「ねえ、そういえばこの国には、物事の吉凶や行末を占うような人っていないの?」
「神殿の一番偉い人のことかしら」
「うーん?......ちょっと主流から外れた怪しい職業みたいな」
「怪しい職業?」
この国に、紙とペンはなかった。
じゃあ、魔女は?
私はとても気になっていた。
「特定の所属を持たず、各地を巡り王族に助言する存在ならかつていたかもしれないわ」
「それそれ。そういうの」
「そうね。名称はたしか――」
私のことは、相変わらずわからない。
だけど、この国がどんな文化なのか、観察するものはたくさんある。
ふたりであれこれ問答しているうちに、賑やかな街の気配が近づいてきた。