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第29話 空席の聴き手

* * *

深夜の封印派本部、その最奥にある一室だけが、まだ明かりを灯していた。
封印派の幹部・堰せきは机に向かい、書類の山を几帳面に並べ直していた。
声紋の波形図、過去の戦闘記録、そして――統護トウゴの名が記された、分厚いファイルの束。

「......重心が甘い」

誰に聞かせるでもない呟き。指先が、波形の一点を優しくなぞる。

「群青の光がここで一瞬だけ膨らむ。無駄な力みだ。だが......」

堰せきの口元が、静かに緩んだ。

「その無駄こそが、あいつらしい」

机の向かい側には、誰も座っていない椅子が一脚だけ置かれている。堰せきはふと、その椅子に視線を投げた。まるで、そこに誰かが座っているかのように。

「統護。お前は自分の力を、自分だけのものだと思っているだろうな」

椅子は、当然何も答えない。堰せきはそれで構わないというように、話を続けた。

「だが違う。俺が設計した。お前の声紋が今の形に育つよう、幼い頃から――ほんの少しずつ、正しい方向へ導いてやったんだから」

言葉は淡々としていたが、その語り口には、職人が自らの作品を語るときの、あの独特の陶酔がわずかに滲んでいた。

「バスとトレブル、両方の素養を併せ持つ声紋鍵など、そうそう現れるものではない。俺はそれを見つけ、育てた。だというのに、お前は――」

一瞬、堰せきの指先が止まった。
脳裏に過ったのは、幼い統護がまだ言葉もろくに話せなかった頃、稽古の後に差し出した水を頑なに拒み、それでも震える足で立ち続けていた、あの小さな背中。

「......あの頃は、素直だったな」

懐かしむような、けれど決して温かくはない声。すぐに、堰せきはその感傷を振り払うように軽く首を振った。

「感傷は要らない。今必要なのは、回収の手順だ」

堰せきはファイルを一枚めくった。そこには、B-ブロードの三人――ジョウ、ヨシ、トウゴの情報が、簡潔に、そして冷徹に整理されていた。

「未登録の中音域。橋渡しの声。あれが三声を完成させている限り、統護トウゴは容易には動かせない」

堰せきは椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げた。
「解放派の落ちこぼれと、封印派の跳ねっ返りの弟。それに、素性の知れない未登録者――なるほど、実に不安定な三本柱だ。だからこそ美しい、とでも言うつもりか」
自嘲めいた笑いが、唇の端に浮かんだ。

「まず、あの由士ヨシとかいうトレブルを引き剥がす。統護トウゴは情に厚い。仲間が傷つけば、必ず動揺する。動揺した声紋は、制御しやすい」

堰せきは別の紙を取り出し、そこに素早く何かを書き込んでいく。

「ジョウというやつは......厄介だな。だが厄介であるほど、価値がある。統護トウゴがあの少年に肩入れしているのは分かっている。ならば、あいつを人質に取るよりも――」

堰せきはペンを止め、少しの間、宙を睨んだ。

「あいつの『無力さ』を、統護トウゴ自身に見せつける方が効果的か」

独り言は、次第に熱を帯びていった。まるで、長年温めてきた計画を誰かに聞かせることで、初めてその輪郭が確かなものになるとでもいうように。

「宝璽ほうじさまは、莢さやの声一つで扉を封じられた。莢の犠牲は、伝説として語られている。......だが、俺は違う」

堰せきの声のトーンが、わずかに低くなった。

「俺は、生きた人間の声を、道具として完璧に運用してみせる。犠牲などという美しい言葉に頼らずともいい。統護トウゴがその証明になる」

ふと、堰せきの視線がまた、誰もいない椅子へと向かった。

「宝璽ほうじ、貴方が莢の意志を守ったつもりでいる間に、私はもっと先を行く」

声には、羨望とも軽蔑ともつかない、複雑な響きがあった。長年、あの完璧な首領の背中を見上げ続けてきた男だけが持つ、屈折した熱。

「貴方は一人の犠牲で扉を封じた。俺は、生きたまま何度でも使える駒を作る。どちらが、組織にとって真に価値があるか――いずれ、はっきりするでしょう」

堰せきは静かに立ち上がり、窓際へと歩いた。夜のキャンパスが、遠くに小さく見える。あの光の中のどこかに、弟......統護トウゴがいる。ジョウがいる。ヨシがいる。

「統護」

窓ガラスに映る自分の顔に向かって、堰せきはもう一度、その名を呼んだ。トウゴの兄としてではなく、作品を奏でる所有者の笑みを含んでいた。

「お前が拒めば拒むほど、俺は愉しくなる。お前という作品の真価は、抵抗の中でこそ発揮されるものだからな」

薄い笑みが、ガラスの中の顔に浮かんでいた。それは穏やかで、静かで――どこまでも満たされた笑みが零れる。まるで、自分の描いた設計図が、寸分違わず完成に近づいていくのを見守る職人の顔のように。

堰せきは机に戻り、最後の一枚に短く書き付けた。

『接触予定日――近日中』

ペンを置き、ファイルを丁寧に閉じる。
その所作には、一切の迷いがなかった。
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法鍵士は夕暮れに鳴る作者:福天六(ふくたむ)
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第29話 空席の聴き手

* * *

深夜の封印派本部、その最奥にある一室だけが、まだ明かりを灯していた。
封印派の幹部・堰せきは机に向かい、書類の山を几帳面に並べ直していた。
声紋の波形図、過去の戦闘記録、そして――統護トウゴの名が記された、分厚いファイルの束。

「......重心が甘い」

誰に聞かせるでもない呟き。指先が、波形の一点を優しくなぞる。

「群青の光がここで一瞬だけ膨らむ。無駄な力みだ。だが......」

堰せきの口元が、静かに緩んだ。

「その無駄こそが、あいつらしい」

机の向かい側には、誰も座っていない椅子が一脚だけ置かれている。堰せきはふと、その椅子に視線を投げた。まるで、そこに誰かが座っているかのように。

「統護。お前は自分の力を、自分だけのものだと思っているだろうな」

椅子は、当然何も答えない。堰せきはそれで構わないというように、話を続けた。

「だが違う。俺が設計した。お前の声紋が今の形に育つよう、幼い頃から――ほんの少しずつ、正しい方向へ導いてやったんだから」

言葉は淡々としていたが、その語り口には、職人が自らの作品を語るときの、あの独特の陶酔がわずかに滲んでいた。

「バスとトレブル、両方の素養を併せ持つ声紋鍵など、そうそう現れるものではない。俺はそれを見つけ、育てた。だというのに、お前は――」

一瞬、堰せきの指先が止まった。
脳裏に過ったのは、幼い統護がまだ言葉もろくに話せなかった頃、稽古の後に差し出した水を頑なに拒み、それでも震える足で立ち続けていた、あの小さな背中。

「......あの頃は、素直だったな」

懐かしむような、けれど決して温かくはない声。すぐに、堰せきはその感傷を振り払うように軽く首を振った。

「感傷は要らない。今必要なのは、回収の手順だ」

堰せきはファイルを一枚めくった。そこには、B-ブロードの三人――ジョウ、ヨシ、トウゴの情報が、簡潔に、そして冷徹に整理されていた。

「未登録の中音域。橋渡しの声。あれが三声を完成させている限り、統護トウゴは容易には動かせない」

堰せきは椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げた。
「解放派の落ちこぼれと、封印派の跳ねっ返りの弟。それに、素性の知れない未登録者――なるほど、実に不安定な三本柱だ。だからこそ美しい、とでも言うつもりか」
自嘲めいた笑いが、唇の端に浮かんだ。

「まず、あの由士ヨシとかいうトレブルを引き剥がす。統護トウゴは情に厚い。仲間が傷つけば、必ず動揺する。動揺した声紋は、制御しやすい」

堰せきは別の紙を取り出し、そこに素早く何かを書き込んでいく。

「ジョウというやつは......厄介だな。だが厄介であるほど、価値がある。統護トウゴがあの少年に肩入れしているのは分かっている。ならば、あいつを人質に取るよりも――」

堰せきはペンを止め、少しの間、宙を睨んだ。

「あいつの『無力さ』を、統護トウゴ自身に見せつける方が効果的か」

独り言は、次第に熱を帯びていった。まるで、長年温めてきた計画を誰かに聞かせることで、初めてその輪郭が確かなものになるとでもいうように。

「宝璽ほうじさまは、莢さやの声一つで扉を封じられた。莢の犠牲は、伝説として語られている。......だが、俺は違う」

堰せきの声のトーンが、わずかに低くなった。

「俺は、生きた人間の声を、道具として完璧に運用してみせる。犠牲などという美しい言葉に頼らずともいい。統護トウゴがその証明になる」

ふと、堰せきの視線がまた、誰もいない椅子へと向かった。

「宝璽ほうじ、貴方が莢の意志を守ったつもりでいる間に、私はもっと先を行く」

声には、羨望とも軽蔑ともつかない、複雑な響きがあった。長年、あの完璧な首領の背中を見上げ続けてきた男だけが持つ、屈折した熱。

「貴方は一人の犠牲で扉を封じた。俺は、生きたまま何度でも使える駒を作る。どちらが、組織にとって真に価値があるか――いずれ、はっきりするでしょう」

堰せきは静かに立ち上がり、窓際へと歩いた。夜のキャンパスが、遠くに小さく見える。あの光の中のどこかに、弟......統護トウゴがいる。ジョウがいる。ヨシがいる。

「統護」

窓ガラスに映る自分の顔に向かって、堰せきはもう一度、その名を呼んだ。トウゴの兄としてではなく、作品を奏でる所有者の笑みを含んでいた。

「お前が拒めば拒むほど、俺は愉しくなる。お前という作品の真価は、抵抗の中でこそ発揮されるものだからな」

薄い笑みが、ガラスの中の顔に浮かんでいた。それは穏やかで、静かで――どこまでも満たされた笑みが零れる。まるで、自分の描いた設計図が、寸分違わず完成に近づいていくのを見守る職人の顔のように。

堰せきは机に戻り、最後の一枚に短く書き付けた。

『接触予定日――近日中』

ペンを置き、ファイルを丁寧に閉じる。
その所作には、一切の迷いがなかった。
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法鍵士は夕暮れに鳴る作者:福天六(ふくたむ)
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