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第28話 覚えていてくれたら

*

足の裏が、ひどく小さかった。
踏みしめている感触が、今の自分よりずっと近い。
視線の高さも、届く範囲も、何もかもが小さい。

――子供の頃の、自分だ。
そう理解した瞬間には、もう景色の中に立っていた。

濡れた、古い石畳。冷たい感触だけで、
そこがどこであるかが瞬時に分かった。
――解放派の隠れ家の、一番奥へと続く地下通路だ。

灯りは極端に少なかった。
壁のレンガは古びて脆く、崩れかけている。
普段なら、歩くたびに足音が激しく反響するはずの場所。
けれどその夜は、誰も音を立てようとしなかった。
誰も、音を立てようとしていなかったからだ。
歩いて行く内に、巨大な扉が見えた。
通路の突き当たりに、最初から世界の終着点としてそこに存在していたかのように、
静かに、重々しく佇んでいる。
大きかった。中央に、不気味な鍵穴が一つだけ穿たれている。
錆びついた冷たい金属の匂いが、鼻腔をきつく突いた。

扉の真ん前に立っていた背筋は、硬く一本に伸びていた。
迷いは無かった。それでも右の腕を、誰かが背後から必死に掴んでいた。
振り返りはしなかったが――その手のひらの感触が、痛いほどに分かった。
小さくて、今にも壊れそうなほどに激しく震えている。

『......本当に行くの?』

声がかすかに震えて、必死に涙を堪える声が聞こえて来た。
けれど、その主は決して泣かなかった。

『行くよ。ワシの母さんが、この扉の中に囚われているって聞いたから――』

腕を掴む小さな手の力が、骨が軋むほどに強くなった。
何かを言いかけて、けれど言葉にならず、握る力だけが強くなっていく。 その沈黙の重さに、幼いジョウがゆっくりと振り返った。
そこにいたのは、小さくて、まだ幼いヨシがそこに居た。
今のヨシより、ずっとずっと小さい。髪が短くて、けれどその目は――
今の彼と、全く同じ色をしていた。
いつものような、あの飄々とした仮面なんてどこにもない。
今にもボロボロと涙を溢れさせそうなほどに傷つき、歪んだ顔。
けれど、彼は歯を食いしばるようにして、その涙を堪えていた。
泣き叫ぶ代わりに細い両手でジョウの腕を壊れるほどにきつく掴み続けていたのだ。
やがて、その口から、ようやく言葉が絞り出された。

『俺のお父さんは――ジョウを......ジョウをっ!』

その一言だけで、幼いヨシの中で何がせめぎ合っていたのかが分かった。
止めたい。でも、止める資格が自分にあるのかも分からない。
父の罪と、目の前の友人と――そのどちらからも、目を逸らせずにいる子供の声。

『ヨシ兄ちゃんのお父さんが、ワシに嘘をついているかもしれないことくらい――ちゃんと分かってるよ』

幼いヨシが、息を呑んだ。

『でもね、ワシの母さんがあの中にいる可能性が、ほんの少しでもあるなら......
それだけで、ワシが動く理由には十分なんだ』
『十分じゃない......っ!』

幼いヨシの声が、感情のままに初めて激しく割れた。

『十分なんかじゃないよ! もしジョウが戻ってこなかったら――
俺は、お前が......お前が消えちゃったら......っ!』

『ヨシ兄ちゃん』

拒絶する幼いヨシの頭の上に、あの夜の幼いジョウが、小さな手のひらをそっと置く。
乱暴な動きではなかった。ひどく静かで、優しいその手は暖かかった。
一度だけ......ぽん、と優しく頭を撫でて、すぐにその手を離す。

『ワシがもし戻ってこられなかったら......
その時は、ヨシ兄ちゃんがワシのことを、ずっと覚えていてくれたらそれだけでいいから』

幼いヨシは、それ以上一歩も動けなくなった。
ジョウの腕を掴んでいた細い指先が――ゆっくりと、力無く滑り落ちていく。
もう、止める言葉が見つからなかったのだ。
ジョウの真っ直ぐな瞳を見てしまったら、これ以上の反論は何も出てこなかった。

それは、既にすべてを決意してしまった人間の目。
どんな言葉を尽くして引き止めようとも、絶対にその足を進めることを止めない、
決意の目だった。


*

――扉が、ゆっくりと開いた。
中から溢れ出してきたのは、眩い光ではなかった。
激しい突風でもなかった。もっと世界の根源に位置するような
禍々しくも圧倒的な何かが――奔流となって溢れ出してきた。

記憶は、そこで無残に途切れていた。

――ジョウは、ハッと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた地下室のコンクリート天井。
喉の奥が、未だに火をつけられたように熱い。
隣を見た。トウゴがいた。
壁にもたれかかったまま、いつの間にか深い眠りに落ちている。
その向こう側には、ヨシがいた。
分厚い毛布に包まれたまま、静かに、規則正しい寝息を立てていた。
手のひらの中に、あの夜に触れた、幼い頭髪の柔らかい感触が明確に残っていた。
ジョウは自分の右手を、ゆっくりと持ち上げて見つめた。
何もない。ただの、少し傷だらけの、大人になりかけの手のひらだ。
なのに、そこに確かに「触れた」感覚だけが焼き付いている。

(よっさんは――あの夜の、あの場所に、一緒にいたんだ......)

現在の、大人になったヨシの顔が脳裏に浮かぶ。
いつも周囲を煙に巻く、あの飄々とした笑い方。
本心を隠すように、口角だけを器用に動かす、あの歪な笑みの形。

(あの日からずっと......あの夜の約束を抱えたまま、この人はワシの隣にいてくれたのか)

声にならなかった。
声にしてしまえば、何かが決定的に壊れてしまう気がした。
ジョウは毛布にくるまれたヨシの寝顔を長い間ただじっと見つめていた。
規則正しい呼吸のたび、胸が小さく上下する。
それだけのことが、今はやけに尊いものに感じられた。
喉の奥の振動が――静かに、深く
心臓の鼓動と重なるように鳴り響き続けていた。
思い出したのは、断片でしかない。
母のことも、扉の向こうにあったものも、
まだ何一つ分かっていない。
それでも、たった一つだけ、確信できたことがあった。

(ワシは、あの日から一人じゃなかったんだ)

膝を抱え、額をそこに埋める。涙は出なかった。
ただ、胸の中心に、
これまで感じたことのない重さと温かさが同時に居座っていた。
どちらを先に手放せばいいのか、ジョウ自身にも分からなかった。
しばらくして、コンクリートの床に落ちる自分の影を見た。
三つ並んだ影のうち、二つはまだ眠ったまま動かない。
ジョウはその二つの影に、そっと自分の影を寄せるようにして座り直した。

「ジョウ? どうしたの〜、そんなに僕の顔をじっと見つめたりして」

いつの間にか目を覚ましていたヨシが、
不思議そうに首を傾げながらいつもの調子で問いかけてきた。
その目は、いつも通り優しく微笑んでいる。
ジョウは胸に押し寄せる激しい感情をぐっと堪え、小さく首を振った。

「ううん。何でもないよ」

ジョウは、たった今思い出したあまりにも重い過去の断片を、
今はまだ、心の奥底へ静かに仕舞い込んでおくことにした。
けれど――手のひらに残るあの感触だけは、
簡単には消えてくれそうになかった。
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第27話 三つの影
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法鍵士は夕暮れに鳴る作者:福天六(ふくたむ)
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第28話 覚えていてくれたら

*

足の裏が、ひどく小さかった。
踏みしめている感触が、今の自分よりずっと近い。
視線の高さも、届く範囲も、何もかもが小さい。

――子供の頃の、自分だ。
そう理解した瞬間には、もう景色の中に立っていた。

濡れた、古い石畳。冷たい感触だけで、
そこがどこであるかが瞬時に分かった。
――解放派の隠れ家の、一番奥へと続く地下通路だ。

灯りは極端に少なかった。
壁のレンガは古びて脆く、崩れかけている。
普段なら、歩くたびに足音が激しく反響するはずの場所。
けれどその夜は、誰も音を立てようとしなかった。
誰も、音を立てようとしていなかったからだ。
歩いて行く内に、巨大な扉が見えた。
通路の突き当たりに、最初から世界の終着点としてそこに存在していたかのように、
静かに、重々しく佇んでいる。
大きかった。中央に、不気味な鍵穴が一つだけ穿たれている。
錆びついた冷たい金属の匂いが、鼻腔をきつく突いた。

扉の真ん前に立っていた背筋は、硬く一本に伸びていた。
迷いは無かった。それでも右の腕を、誰かが背後から必死に掴んでいた。
振り返りはしなかったが――その手のひらの感触が、痛いほどに分かった。
小さくて、今にも壊れそうなほどに激しく震えている。

『......本当に行くの?』

声がかすかに震えて、必死に涙を堪える声が聞こえて来た。
けれど、その主は決して泣かなかった。

『行くよ。ワシの母さんが、この扉の中に囚われているって聞いたから――』

腕を掴む小さな手の力が、骨が軋むほどに強くなった。
何かを言いかけて、けれど言葉にならず、握る力だけが強くなっていく。 その沈黙の重さに、幼いジョウがゆっくりと振り返った。
そこにいたのは、小さくて、まだ幼いヨシがそこに居た。
今のヨシより、ずっとずっと小さい。髪が短くて、けれどその目は――
今の彼と、全く同じ色をしていた。
いつものような、あの飄々とした仮面なんてどこにもない。
今にもボロボロと涙を溢れさせそうなほどに傷つき、歪んだ顔。
けれど、彼は歯を食いしばるようにして、その涙を堪えていた。
泣き叫ぶ代わりに細い両手でジョウの腕を壊れるほどにきつく掴み続けていたのだ。
やがて、その口から、ようやく言葉が絞り出された。

『俺のお父さんは――ジョウを......ジョウをっ!』

その一言だけで、幼いヨシの中で何がせめぎ合っていたのかが分かった。
止めたい。でも、止める資格が自分にあるのかも分からない。
父の罪と、目の前の友人と――そのどちらからも、目を逸らせずにいる子供の声。

『ヨシ兄ちゃんのお父さんが、ワシに嘘をついているかもしれないことくらい――ちゃんと分かってるよ』

幼いヨシが、息を呑んだ。

『でもね、ワシの母さんがあの中にいる可能性が、ほんの少しでもあるなら......
それだけで、ワシが動く理由には十分なんだ』
『十分じゃない......っ!』

幼いヨシの声が、感情のままに初めて激しく割れた。

『十分なんかじゃないよ! もしジョウが戻ってこなかったら――
俺は、お前が......お前が消えちゃったら......っ!』

『ヨシ兄ちゃん』

拒絶する幼いヨシの頭の上に、あの夜の幼いジョウが、小さな手のひらをそっと置く。
乱暴な動きではなかった。ひどく静かで、優しいその手は暖かかった。
一度だけ......ぽん、と優しく頭を撫でて、すぐにその手を離す。

『ワシがもし戻ってこられなかったら......
その時は、ヨシ兄ちゃんがワシのことを、ずっと覚えていてくれたらそれだけでいいから』

幼いヨシは、それ以上一歩も動けなくなった。
ジョウの腕を掴んでいた細い指先が――ゆっくりと、力無く滑り落ちていく。
もう、止める言葉が見つからなかったのだ。
ジョウの真っ直ぐな瞳を見てしまったら、これ以上の反論は何も出てこなかった。

それは、既にすべてを決意してしまった人間の目。
どんな言葉を尽くして引き止めようとも、絶対にその足を進めることを止めない、
決意の目だった。


*

――扉が、ゆっくりと開いた。
中から溢れ出してきたのは、眩い光ではなかった。
激しい突風でもなかった。もっと世界の根源に位置するような
禍々しくも圧倒的な何かが――奔流となって溢れ出してきた。

記憶は、そこで無残に途切れていた。

――ジョウは、ハッと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた地下室のコンクリート天井。
喉の奥が、未だに火をつけられたように熱い。
隣を見た。トウゴがいた。
壁にもたれかかったまま、いつの間にか深い眠りに落ちている。
その向こう側には、ヨシがいた。
分厚い毛布に包まれたまま、静かに、規則正しい寝息を立てていた。
手のひらの中に、あの夜に触れた、幼い頭髪の柔らかい感触が明確に残っていた。
ジョウは自分の右手を、ゆっくりと持ち上げて見つめた。
何もない。ただの、少し傷だらけの、大人になりかけの手のひらだ。
なのに、そこに確かに「触れた」感覚だけが焼き付いている。

(よっさんは――あの夜の、あの場所に、一緒にいたんだ......)

現在の、大人になったヨシの顔が脳裏に浮かぶ。
いつも周囲を煙に巻く、あの飄々とした笑い方。
本心を隠すように、口角だけを器用に動かす、あの歪な笑みの形。

(あの日からずっと......あの夜の約束を抱えたまま、この人はワシの隣にいてくれたのか)

声にならなかった。
声にしてしまえば、何かが決定的に壊れてしまう気がした。
ジョウは毛布にくるまれたヨシの寝顔を長い間ただじっと見つめていた。
規則正しい呼吸のたび、胸が小さく上下する。
それだけのことが、今はやけに尊いものに感じられた。
喉の奥の振動が――静かに、深く
心臓の鼓動と重なるように鳴り響き続けていた。
思い出したのは、断片でしかない。
母のことも、扉の向こうにあったものも、
まだ何一つ分かっていない。
それでも、たった一つだけ、確信できたことがあった。

(ワシは、あの日から一人じゃなかったんだ)

膝を抱え、額をそこに埋める。涙は出なかった。
ただ、胸の中心に、
これまで感じたことのない重さと温かさが同時に居座っていた。
どちらを先に手放せばいいのか、ジョウ自身にも分からなかった。
しばらくして、コンクリートの床に落ちる自分の影を見た。
三つ並んだ影のうち、二つはまだ眠ったまま動かない。
ジョウはその二つの影に、そっと自分の影を寄せるようにして座り直した。

「ジョウ? どうしたの〜、そんなに僕の顔をじっと見つめたりして」

いつの間にか目を覚ましていたヨシが、
不思議そうに首を傾げながらいつもの調子で問いかけてきた。
その目は、いつも通り優しく微笑んでいる。
ジョウは胸に押し寄せる激しい感情をぐっと堪え、小さく首を振った。

「ううん。何でもないよ」

ジョウは、たった今思い出したあまりにも重い過去の断片を、
今はまだ、心の奥底へ静かに仕舞い込んでおくことにした。
けれど――手のひらに残るあの感触だけは、
簡単には消えてくれそうになかった。
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